10.19とブライアント3連発の神話

近鉄バファローズは1949年に誕生し2004年に合併消滅した球団で、55年の球団史の中で4回のリーグ優勝の足跡を残しています。残念ながら陽の当たらない時代が大部分を占めていますが、わずかにスポットライトが当たった瞬間には野球の神が降臨した様なドラマが起こります。最後の優勝となった2001年の優勝決定試合でも、空前でありおそらく絶後になるであろう「代打逆転サヨナラ優勝決定満塁本塁打おつり無し」でフィナーレを飾っています。そんな近鉄が残したドラマの中でも最大最高のドラマが1988年の「10.19」であり、その後編ともいえる翌年のブライアント3連発です。まさに野球の神が演出脚本したとしか思えないドラマ、ドラマと言うよりは壮大な野球叙事詩とも言うべき足跡をたどってみたいと思います。

王者西武

叙事詩の舞台となる1980年代は、パ・リーグの覇権が阪急ブレーブスから西武ライオンズに移った時代です。西武は1978年にクラウンライターライオンズを買収し誕生。所沢に西武ライオンズ球場を新設し着々と強化に努め、1982年監督に広岡達朗を迎えついにリーグを制することになります。前時代の王者阪急が徐々に力を落としていくのと反比例するように戦力は強化され、以後2005年までに15回の優勝を数えることになります。とくに森祗昌が指揮を取った1986年から1994年の9年間の間には5連覇を含む8回の優勝を飾り、「王者西武」の名を欲しいままにしていたと言えます。

その強さはかつての川上巨人に匹敵すると言っても良いぐらいのもので、打線には秋山幸二、清原和博の和製大砲が軸として君臨し、他にもサードには石毛宏典、セカンドには辻発彦、キャッチャーには伊藤勤と錚々たるメンバーがそろっていました。投手陣も強力で、渡辺久信、郭泰源、工藤公康、松沼博久、東尾修、松沼雅之などが名を連ね、王者としての名に相応しい強力メンバーであった事がわかります。

指揮を取っていた森監督の戦術は広岡から受け継がれた「管理野球」。森の管理野球はある意味、広岡より徹底しいたとされ、広岡監督時代もコーチであった森は選手からゲシュタポと恐れられ、ゲシュタポが監督をしたのですから、その管理度合いの凄まじさが想像できます。ただし成果は如実に現れ、パ・リーグの覇権を握っただけではなく、日本シリーズでも巨人との「盟主対決」を制し、1988年当時はその全盛の強さを翳り無く誇っていたと言えます。

近鉄

近鉄は1950年からパ・リーグに参加していますが、まさに弱小を絵に書いたような惨憺たる成績を残す事になります。2リーグ分裂のドタバタ騒ぎの中で誕生した経緯があり、それまで1リーグ8球団が2リーグ15球団に水増しされた影響は、誕生当時の近鉄に深刻な影響を及ぼす事になります。さらに関西の電鉄系球団はシブチンで有名です。シブチンは阪神が代名詞のように言われますが、近鉄もそれに負けず劣らずのところがあり、チームの強化にはお世辞にも熱心とは言えないものでした。条件の悪い時に誕生し、チーム強化にも熱心でない球団の成績は止め処も無く低迷します。1950年から1968年の19年間の間の最高成績は4位、勝率5割を越えたのは1963年ただ1度だけ。一方で1958年には勝率.238、1961年には140試合戦って103敗という壮絶な記録を残す事になります。

転機が訪れたのは1968年に知将三原脩を迎えてからです。三原はこのガラクタのようなチームを率いて1969年に73勝51敗6分、勝率.589の成績をあげ、優勝した阪急に2ゲーム差まで迫ると言う快進撃を見せる事になります。ドラフト制度の恩恵もあり、その頃よりようやく戦力が整いだした近鉄は、1974年に闘将西本幸雄を迎え第二の転機を迎えることになります。西本は負け犬根性が染み込んだ近鉄を熱血と鉄拳で鍛えなおし、リーグ屈指の強豪に変貌させます。1975年には初の後期優勝(当時は2シーズン制)、1979年には歓喜の初優勝、翌1980年には連続優勝まで遂げるまでになります。

しかし西本が去った後、近鉄は再び低迷傾向を見せる事になります。わずかに1986年に優勝した西武に2.5ゲーム差まで迫りましたが、後は首位に15ゲーム以上引き離される成績に終始し、西本が残した連続優勝の遺産は食い潰された状態に陥っていたと言えます。

新監督仰木彬

仰木彬
10.19の時の仰木監督の勇姿。この時まだ新人監督であった。

運命の1988年、前年度最下位の責任を取って岡本伊三美監督が辞任。新監督として仰木彬が就任します。今でこそ「魔術師」「仰木マジック」と讃えられ、名監督の評価を不動のものにしている仰木ですが、当時の印象としてはシブチン近鉄の金をかけない内部昇格の監督起用と見られたものです。

この仰木ですが1967年に西鉄を引退し、2年間西鉄のコーチをした後、1970年に当時の近鉄監督であった三原脩の要請で近鉄コーチに就任しています。ところがこの年限りで三原は退任。監督が変わればコーチ陣も入れ替えになるのがプロ野球の宿命ですが、仰木は以後18年間にわたり近鉄でコーチを勤める事になります。仕えた監督は三原脩、岩本尭、西本幸雄、関口清治、岡本伊三美の5人にのぼります。

仰木が近鉄のコーチとしてどういう地位にいたのかが良く分からないのですが、三原はともかく後の4人の監督にクビにされなかったのは、その能力を買われた物である事は間違いないかと考えます。一方で能力を評価されていたにも関わらず、18年間も監督の座が回ってこなかったのもこれまた不思議です。また監督就任後の鮮やかな手腕を考えれば、コーチ時代にも「名参謀」としての評価がもう少しあっても良いはずなんですが、近鉄と言う地味な球団に所属していたためか、これも世間的にはまったく無名であったのも間違いありません。

とにかく1987年に52勝69敗9分、勝率.430、首位と21.5ゲームも離された最下位チームに無名の新監督が就任しただけの事で、来る1988年の近鉄にはプロ野球ファンの誰もが期待していなかった事だけは言えます。

仰木彬氏は2005年12月15日、肺がんにて死去されています。ご冥福をお祈りします。
ところで仰木に監督の地位がなかなか回ってこなかった原因は憶測では幾つかあります。遊びが過ぎた説なんかも取り沙汰されてますし、そういう部分もかなりあったかもしれません。それよりも仰木が後年師匠と呼んだ二人の大監督、三原脩と西本幸雄の影響が大きいのではないかと考えます。この影響は仰木が待たされる原因になったとも言えますし、仰木の監督としての器量を熟成させたとも考えます。仰木は選手時代から優れた野球理論を持ち、西鉄監督の三原ともしばしば激論を戦わしたとされます。その野球理論の優秀さは後年の活躍により証明されています。近鉄球団内でも優秀な指導者としての高い評価はあったようで、ある時期からは将来の監督候補として温存されてきたともされています。それでも18年はあまりに長すぎます。
仰木を引っ張ってきたのは三原ですから、三原がもう少し近鉄監督を長く続け、もう少し成績をあげ続けていれば、もっと早い時期に監督の座が回ってきたのではないかとも考えます。ところが仰木の師匠に当たる三原は仰木が近鉄に来てわずか1年でさっさと退任してしまいます。さすがにこの時期に監督をさせるには早すぎるということで、三原の後には岩本尭が監督をする事になります。岩本がどんな人物であったのかは私も知りません。ただ経歴を見ると巨人に入団し、晩年は大洋に移籍し、移籍した大洋で三原の監督の下、大洋初優勝を経験しています。
と言う事は、岩本も実は三原人脈の監督人事であった可能性があります。つまり仰木が監督をするまでのツナギの役割です。近鉄は三原が優勝を争った1969年以降は、優勝争いにこそ参加できていませんが、1972年までAクラスに留まり、勝率も5割を越えるものを残しています。岩本監督指揮下の近鉄も1971年3位、1972年2位と三原以前からすると夢のような成績になっています。
シナリオとしては岩本の次が仰木であるというのがあったのではないでしょうか。このシナリオは1972年までは順調だったと言えます。しかし戦力が整いだし、上位進出が続くと球団は次の夢である悲願の優勝を意識するようになったのではないかと考えます。1973年はパ・リーグが人気振興のために2シーズン制が導入された年です。前年度2位の近鉄は鈴木啓示、神部年男、清俊彦、佐々木宏一郎の4本柱を擁し、下馬評ではなんと優勝候補の一角に上げられていたのです。
ところが蓋を開けてみると前後期とも最下位の無残な成績に終わり岩本は更迭されます。そして新たに迎え入れられた監督は前阪急監督の「闘将」西本幸雄。なんとしても近鉄を優勝させようとの球団首脳の意気込みの表れだったと考えます。そのお蔭で三原→岩本→仰木と続くはずのシナリオが消滅してしまったと考えます。
西本はそれから8年の間、監督の地位にあり、2度のリーグ優勝を近鉄にもたらします。西本と三原はどちらも屈指の大監督ですが、流儀はかなり異なります。8年の間に近鉄での三原イズムは消し去られ、西本イズムの近鉄になったと考えます。そういう状況下で三原の直弟子とも呼べる仰木がなぜ生き残れたか。ここに仰木の柔軟な適応能力を見る思いがします。
これは有名な話なんですが、仰木が西鉄に入団した時は投手として大いに期待されていたのです。ところがキャンプのフリーバッティングで不運な打球が続くのを見た三原監督は「お前は投手としてツキがなさ過ぎる、今日から二塁を守れ」と二塁手に転向させられ、そのままレギューラーになってしまったエピソードがあります。この時と同様に仰木は西本が監督に座るとサラリと西本イズムを受け入れたのではないでしょうか。
監督になった後の仰木の流儀は基本的には三原流を受け継いだところがあります。プライベートは好きにしても良いから、結果はグランドで示せの西鉄流です。采配も後年のオリックス時代には三原が大洋時代や近鉄時代にしたものと同じ匂いがします。ただし選手の鍛錬法はどうも西本イズムを受け継いでいるような気がします。温厚でダンディな風貌とは裏腹に練習は壮絶に厳しかったようです。三原の練習が甘いわけではありませんが、西本の練習の厳しさはおそらく日本の歴代プロ野球監督の中でも随一ではないでしょうか。
西本が監督の座に着いたため仰木は待たされましたが、待った結果、西本イズムの一番良いところだけを仰木は吸収する事が出来たと考えます。三原の采配術と西本の選手育成術、球史に残る大監督の最高のエッセンスを吸収した仰木は、18年間の雌伏を超え満を持して近鉄監督に就任します。

デービスとブライアント

デービス
デービスは東尾との乱闘事件でも有名。死球に対し顔面パンチ4発を見舞ったと言う。

世間的には期待されなかった仰木ですが監督就任後、的確な手腕でチームを立て直します。投手陣はエース阿波野秀幸を中心に山崎慎太郎、小野和義、村田辰美、高柳出己の先発陣と切り札吉井理人をそろえます。投手陣は残念ながら王者西武に一枚劣りましたが、打撃陣は主砲デービスを中心に、俊足の大石大二郎、ベテラン新井宏昌、鈴木貴久、金村義明、盛りを過ぎていましたが助っ人のオグリビーと西武に劣らない強力布陣でシーズンに挑む事になります。

打線の核であるデービスは3割を超える打率で打ちまくります。デービスに引っ張られるように近鉄打線は爆発し、シーズン前には予想すら出来なかった首位戦線に近鉄は躍り出る事になります。シーズンが早くも西武と近鉄のマッチレースの様相を呈し始めた頃に事件が起こります。6月7日にデービスが麻薬所持で逮捕、国外退去となったのです。突如主砲を失った近鉄は失速してこの月は負け越し、、6月終了時点で辛うじて2位の座を保っていましたが、首位西武とのゲーム差は7.5ゲームと広がり、早くも西武独走ムードの色が濃くなります。

デービスを失った近鉄も必死で後釜を探しますが時期が悪い。6月からアメリカで新外国人なんて悠長に探す間もありませんし、新外国人獲得のタイムリミットがあっと言う間に迫ってきます。困った近鉄ですがいかにもシブチン的解決策を編み出します。外国人助っ人の1軍登録枠は当時2人だったのですが、球団によっては第3の外国人を2軍に抱えているところがありました。中日もそんな球団で、打者としてゲーリーが活躍し、投手として郭源治がいたのですが、もう一人2軍にラルフ・ブライアントを抱えていたのです。

ブライアントはアメリカではほとんど芽が出ず、中日でもゲーリー、郭源治に較べると期待はほとんどされておらず、年棒わずか700万と言う状態でした。ブライアントはたしかに豪快な打撃で後にプロ野球ファンの度肝を抜きましたが、一方で三振王の歴代タイトルを総なめするぐらいの粗さもあり、とても使い物にはならないと言うのが中日の評価だったようです。おそらくこの年にデービスが国外退去にならず近鉄が手を出さなかったら、翌年は誰も知らないうちに日本を去っていたのではないでしょうか。

ほとんど期待されずに間に合わせの補強で来たブライアントですが、近鉄に来てからは鬼神のようにその豪打を振るうことになります。1988年途中移籍のため出場試合は74試合でしたが、放った本塁打がなんと34本。完全にデービスの穴を埋め、失速していた近鉄は再び逃げる西武を追走する事になります。

この年の近鉄の躍進はこのブライアントの予期せぬ爆発と新監督仰木の手腕であると言われています。ブライアントの爆発は驚異的で数字にも結果にも明らかに残されているのですが、仰木監督はどれほどの手腕を揮っていたのかは良く分からないところがあります。たしかにオリックス時代の仰木は猫の目打線と言われるぐらいに、対戦投手により打線を巧妙に入れ替え、その効果は「仰木マジック」と畏怖されるほどの威力を示しましたが、1988年の采配は基本的にそんなものではなかったようです。
なにせ注目の低かったパ・リーグの活躍ですから私も残念ながら詳しいとは言えませんが、オリックス時代に見せた三原流の「魔術師的采配」というより西本流の「頑固一徹シンプル采配」に近かった気配が濃厚なんです。もちろん二人の偉大な師匠のエッセンスを吸収している仰木ですから、単純に西本流だけではなかったでしょうが、この年の選手起用の基本は後年の「仰木マジック」からすれば遥かにシンプルであったと伝えられます。
ただし純粋に西本流だけでは無かった証拠は、前年度惨敗して最下位に低迷した選手たちの心をごく短期間に掌握した点に見れます。もし純粋に西本流ならそんな短期間にはチームを戦える集団には作り上げる事は難しいからです。この辺に三原流の巧妙な手腕を発揮した形跡がうかがえます。この三原流の選手掌握術が、何度も絶望の淵に立たされながらも、シーズン最終戦までモチベーションを失わずに戦い抜けた要因でなかったかと考えます。

逃げる西武

7月1日からの西武3連戦で3タテを食らわして追撃に移りますが、さすがに西武は3連覇中の王者であり、以後はなかなかゲーム差を詰めることが出来ない状態が続きます。7月の近鉄は7勝6敗1分、西武は6勝10敗3分で西武に3タテを食らわした分だけゲーム差を詰めいていますが、8月になると近鉄14勝8敗と貯金を増やしていますが、西武も11勝7敗2分と確実に白星を積み重ねゲーム差は4ゲームとなかなか追いつけない展開となります。

「やっぱり西武か」とのムードは後半戦の日程編成に勝負の綾を投げかける事になります。この年の近鉄は雨でゲームを流す事が多く、それがあったためか西武に比べやや手薄な投手陣は持ちこたえる事が出来ていました。ところが雨で流れたゲームは消えるわけではなく、どこかで消化する必要があります。西武優勝ムードは近鉄の残り試合を消化試合モードで組む事になってしまったのです。

9月に入っても10勝7敗と近鉄は踏ん張ります。ところが逃げる西武に息切れ状態が訪れます。なんと7勝9敗と負け越してしまい、ゲーム差がついに1.5ゲーム差まで縮まってしまう事になります。近鉄はついに逃げる西武の背中が見える所まで追いついた事になります。9月終了時の両チームの成績です。

* * 勝率 残り試合
1位 西武 64 47 6 .577 - 13
2位 近鉄 61 47 3 .565 1.5 19

10月の死闘

近鉄は西武の背中が見えているとは言え、過酷な試合日程を強いられる事になります。とくに10月7日から10月19にまでの間は、13日間で2度のダブルヘッダーを含む15連戦が組まれ、これを日程どおりすべて消化することになります。10月18日までのの近鉄西武の息詰まるデッドヒートの跡です。

月日 球場 対戦相手 勝敗 スコア 近鉄投手 西武 マジック
10/1 藤井寺 西武 0 - 6 ●阿波野-谷崎 2.5 *
10/2 藤井寺 西武 10 - 5 ○山崎-S吉井 1.5 *
10/4 東京ドーム 日本ハム 1 - 0 ○高柳-S吉井 0.5 14
10/5 東京ドーム 日本ハム 2 - 0 ○小野 * 0.0 13
10/7 所沢 西武 2 - 5 ●阿波野-加藤哲 1.0 13
10/8 所沢 西武 2 - 4 ●山崎-木下-加藤哲-石本-吉井 2.0 13
10/9 藤井寺 ロッテ 5 - 3 村田-加藤哲-○木下-S吉井 2.0 12
10/10 藤井寺 ロッテ 3 - 0 ○小野 2.0 11
* 藤井寺 ロッテ 7 - 2 ○高柳-木下 * 1.5 10
10/11 川崎 ロッテ 4 - 2 村田-○加藤哲-S吉井 1.5 9
10/12 川崎 ロッテ 2 - 0 ○阿波野 0.5 7
10/13 川崎 ロッテ 4 - 3 ○山崎-木下-加藤哲-S吉井 0.5 6
10/14 藤井寺 阪急 8 - 3 ○高柳 0.5 5
10/15 大阪 南海 4 - 6 小野-加藤哲-●石本-木下 0.5 4
10/16 藤井寺 南海 6 - 4 ○村田-S吉井 0.5 3
10/17 西宮 阪急 1 - 2 ●阿波野 * 1.0 3
10/18 川崎 ロッテ 12 - 2 ○山崎-石本 * 0.5 2

まったくもって凄まじい日程です。近鉄は10/4に日本ハムに勝った時に2位ながらマジック14が点灯、10/5にも勝ってマジックを13に減らし、ついに逃げる西武に並ぶ事になります。ところが10/7、10/8の所沢の首位決戦に連敗して首位陥落、ゲーム差は再び2ゲームに開きます。マジックはマジックたる所以で残りましたが、近鉄にマジックが点灯したのは残り試合数の多さと西武戦がこの時点で終了したためであり、残りの日程の無謀さからして「西武絶対有利」の見方が大勢でした。このマジックは消えた瞬間西武の優勝が決まると言う恐ろしいものです。

近鉄に対して日程に余裕のある西武は所沢での首位決戦の後、6勝2敗の快ペースで10/16に先に全日程を終了します。一方の近鉄は大阪と川崎をとんぼ返りしながら、こちらは怪ペースで連勝を重ね一つ一つマジックを消していきます。とくに藤井寺と川崎を往復しながら5日間でロッテに6連勝した時には、森監督が「ロッテよ、エエ加減にしてくれ」とぼやいた話が残っています。近鉄は西武との首位決戦に連敗した後、8勝2敗と逃げる西武を離さず、ついに0.5ゲーム差まで詰め寄って、10月19日最終戦となる川崎球場でのロッテとのダブルヘッダーを迎えることになります。

とにもかくにも前年度最下位チームがここまで来れた最大の要因は何なのでしょうか。ブライアントの爆発、仰木の巧みな用兵、優勝を争う事による選手自体のモチベーションの高揚などが複雑に絡み合ってのものである事だけは間違いありません。その中で強いて一点をあげるとすれば、吉井のストッパーへの抜擢が上げられると考えます。
岡本前監督時代の1986年2位と1987年6位の差は種々の要因があるにせよ、当時のストッパーであった石本貴昭の出来の差であったと考えてよいかと思います。1986年は確かに西武に後一歩まで迫りましたが、迫るために石本を酷使せざるを得なくなり、酷使された石本は8勝3敗32Sと素晴らしい成績を残しはしましたが、64試合登板はその投手寿命をすり減らしてしまったと言えます。また石本はその前年の1985年にも70試合に登板し、19勝3敗7Sと先発なしで規定投球回数に達すると言う酷使ぶりで、その結果1987年は3勝6敗7Sに成績が急降下、ストッパーを欠く近鉄はゲームを作る事が出来なくなり最下位に沈んだと見れます。
当時の野球はもっと以前の先発完投当たり前時代と違い、ストッパーの役割が投手陣の要として大きな比重を占めてきてはいました。しかしまだセットアッパーの役割の確立が十分ではなく、先発→ストッパーという継投が勝利の方程式の原則となっていました。そのためストッパー役を担う投手はそれこそ7回、8回からの登板もありふれたもので、現在の野球のように、ストッパー役は9回の1イニングしか投げないと言う常識はどこにも無かった時代でもありました。勢い一人しかいない「守護神」は、優勝でも争おうものなら酷使以外の何者でも無い使い方をされ、短期間で投手寿命をすり減らす宿命もまた背負っていたとも言えます。
吉井は1985年に入団。この年までの3年間の通算成績は17試合に登板して2勝2敗0S。仰木がこの吉井のどこにストッパーの才能を見出したかは今となっては分かりませんが、吉井のストッパー成功が無ければ伝説の10.19もなく、「魔術師」仰木のその後の活躍もありえなかった事を思うと、これこそがこのシーズンの近鉄躍進の運命の抜擢であったと私は考えます。

川崎球場

川崎球場
今は無き川崎球場。10.19この日、間違いなく野球の神はそこにいた。

西武との首位決戦2連敗で始まった試練の13日間で15連戦ですが、ついに近鉄がこのダブルヘッダーに連勝すれば王者西武を追い落とし優勝するところまでたどり着きました。優勝の条件はただ一つ「連勝すること」です。それ以外の条件、たとえば引き分けでも優勝は西武のものになります。130試合のペナントレースの疲れ、15連戦での疲労が蓄積しきった体に鞭打って最後の関門に近鉄ナインは挑む事になります。ロッテの方はすでに最下位が決定し、そのうえ10月はここまで近鉄に7連敗。勝機は十分近鉄にあると誰もが考えました。

現在でもパ・リーグはセ・リーグに比べ注目度は及ばないところがありますが、当時はこれに輪をかけたものがありました。パ・リーグの試合でなんとか観客が入るのは西武と東京ドームが物珍しかった日本ハムぐらいです。その他の球団の試合なんて閑古鳥も良いところで、それこそ選手がスタンドを眺めながら何人いるか数えるのが十分可能だったほどです。ロッテもこの年は最下位、老朽化しきった川崎球場が満員になる事など関係者でさえ誰も予想するものは無く、この優勝がかかったダブルヘッダーでさえ「1万も入れば御の字」ぐらいにしか考えていませんでした。

ところがこれに勝てば優勝だの意気込みはファンにもヒシヒシと伝わり、奇跡の瞬間を見るために続々と川崎球場にプロ野球ファンが押し寄せます。やがてファンは川崎球場を埋め尽くし、近くの建設中のマンションまで埋め尽くす事になります。埋め尽くした観衆により、第1試合が終わる頃には売り子の弁当もビールも、食堂のあらゆるメニューがすべて売り切れる異常事態となります。またこの日にはパ・リーグを揺るがす大ニュースが報じられます、「阪急がオリックスに身売り」です。このニュースもまた川崎球場の雰囲気をさらに異様にするものとなりました。

今でなら優勝決定試合に観客が集まるのになんの不思議もありませんが、当時のパ・リーグで、近鉄が川崎球場でロッテ相手に試合をするとき、どんな条件であろうが観客が集まるなんて事は想像も出来ないものがありました。それでも引き寄せられる様に観客は川崎球場に集まってきます。その中には大阪から近鉄の逆転優勝を信じて駆けつけたものもいるでしょう、少数ながらも熱心なロッテファンもいた事でしょう。しかしそれよりもこの日は何か特別な事がおこる予感が誰もの胸に去来し、その磁場を強烈に発していたのが川崎球場だったといえるかもしれません。ちょうど映画「未知との遭遇」で知るはずも無い山に人が惹きつけられたように、この日に野球の神が川崎球場に降臨した事を知っているかのように。

10.19 第1試合

近鉄
4 大石
3 新井
9 ブライアント
D オグリビー
7 村田
8 鈴木貴
5 吹石
2 山下
6 真喜志
P 小野
第1試合
ロッテ
4 西村
6 佐藤健
9 愛甲
8 高沢
D マドロック
3 伊良部
9 古川
2 袴田
6 水上
P 小川博
Team
近 鉄
ロッテ
1 2 3 4 5 6 7 8 9
0 0 0 0 1 0 0 2 3
0 0 0 0 1 0 0 2 1
2 0 0 0 0 1 0 0 0
2 1 1 0 1 0 1 1 1
S H E
4 6 0
3 8 0

異様な緊張感の中、午後3時第1試合が開始。この日は雲ひとつない快晴であったと伝えられます。疲れと優勝への重圧がかかる近鉄に対し、1回の裏ロッテは先頭の西村がライト前安打、二番の佐藤健が犠打、3番の愛甲がライトスタンドへ先制の2ランを放つ事になります。ロッテ先発の小川博は好調で、5回2死まで近鉄打線をノーヒット、7つの三振を奪う事になります。前日のロッテ戦で12点を奪っていた近鉄打線でしたが、球場全体を包む空気と同様、まさに息詰まるような重苦しさに包まれていました。

小野和義
中3日で第1試合を任された小野和義。ネット上ではこれ1枚しか勇姿は残されていない。

それでも5回2死から鈴木貴久がようやく左本塁打を打ち1点差に追い上げます。5回を終わって近1-2ロ、ここまで近鉄の安打は鈴木貴の本塁打のみ、一方のロッテは5安打とロッテのペースで試合は進むことになります。近鉄は鈴木貴の本塁打の後も呪縛にかかったように小川博を打つ事が出来ず、6回、7回と3者凡退を繰り返す事になります。1回の愛甲の本塁打の後なんとかもちこたえていた小野でしたが、7回についにつかまります。2つの四球を許した後、佐藤健にツーベースを浴び3点目を奪われる事になります。小川博の好調さからすると重い重い1点と感じさせられる事になります。

優勝への呪縛にもがき苦しんでいた近鉄が反撃に転じたのはようやく8回になってから。1死後、鈴木貴がこの日2本目の安打、吹石の代打加藤正が四球、さらに山下の代打村上の2塁打でついに同点。その後、大石、新井と四球を選び、二死ながら満塁でブライアント。逆転を願う近鉄ファンを嘲笑うかのようにブライアントのバットは大きく空を切り三振。ついに土壇場まで近鉄は追い込まれる事になります。

近鉄の優勝への条件はただ一つ連勝のみ。引き分けは許されないのです。ダブルヘッダーでは第1試合に延長は無く、残されたチャンスは9回1イニングのみとなります。代打攻勢でなんとか同点に追いついた仰木は動きます。これ以上の追加点をロッテに許さないために「守護神」吉井を投入します。吉井はここまで48試合に登板し、9勝2敗24Sと近鉄躍進の一翼を担ってきました。

8回のロッテの代打攻勢をマドロックのヒット一本でしのいだ近鉄は土壇場の9回に挑む事になります。オグリビー凡退の後、淡口があわや勝ち越し本塁打かと思わせるようなフェンス直撃の2塁打で出塁、代走佐藤の場面でロッテの有藤監督が動きます。好投の小川博も限界と見てロッテの「守護神」牛島和彦の投入です。牛島に対しこの試合硬さの取れない近鉄打線の中でひとり気を吐く鈴木貴が3本目の安打を放ちます。ところが同点を焦った代走佐藤が三本間に挟まれ憤死、落胆とも悲鳴ともつかない声が球場内に木霊します。憤死のショックの余り崩れ落ち、その場から立ち上がれない代走佐藤でしたが、期せずしてスタンドから温かい拍手が送られる事になります。しかしついに近鉄は瀬戸際まで追い込まれる事になります。

代走佐藤憤死の間に鈴木貴は2塁に進んではいましたがすでに2アウト。この絶体絶命の窮地に仰木は代打に梨田を指名します。1979年、1980年の主力メンバーであった梨田も17年目。年齢による衰えは隠しきれずこのシーズンは打率.215、本塁打2本となっています。梨田も限界は感じておりこのシーズン限りの引退を密かに決意していましたが、最後の最後の晴れ舞台に臨む事になります。近鉄ナイン、近鉄ファンの願いを込めた一撃はセンターに抜け、2塁ランナーであった鈴木貴は憤怒の様相で本塁に突入します。本塁上ではクロスプレーになりましたが、捕手袴田のタッチをかいくぐり「セーフ」。川崎球場に怒濤の様な大歓声が響き渡る事になります。

待望の勝ち越し点をあげた近鉄でしたが、試練は続きます。吉井は9回先頭打者の代打丸山に対する四球判定に激昂。次打者代打山本の投球中にも吉井の冷静さが戻らないと見た仰木は重大な決断をします。三塁線の前で2、3度足踏みするようなためらいを見せた後、意を決した仰木は告げます「ピッチャー阿波野」。ここまで阿波野は14勝12敗防御率.261と近鉄投手陣の大黒柱として支えてきましたが、2日前の阪急戦に無念の完投負けを喫したばかりです。しかし仰木はこの場面をエースである阿波野に託したのです。

託された阿波野でしたが、重圧、疲労に加え、不慣れな救援のため精彩を欠きます。代打山本をセカンドゴロ、続く西村を三振にしとめましたが、続く佐藤健にはこの試合4本目の安打になる2塁打を喫し、さらに愛甲には四球で二死満塁となります。またもや追い詰められた近鉄でしたが、阿波野渾身の投球の前に次打者森田のバットは空を切ります。

優勝への第1関門であったダブルヘッダー第1試合はまさに瀬戸際からの大逆転でついに近鉄勝利で幕を閉じます。試合終了は午後6時21分、3時間21分の死闘でした。

10.19 第2試合

近鉄
4 大石
3 新井
9 ブライアント
D オグリビー
7 羽田
8 鈴木貴
5 吹石
2 山下
6 真喜志
P 高柳
第2試合
ロッテ
4 西村
6 佐藤健
9 愛甲
8 高沢
D マドロック
3 岡部
9 古川
2 袴田
6 森田
P 園川
Team
近 鉄
ロッテ
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
1 0 1 0 0 2 2 2 1 0
0 0 0 0 0 1 2 1 0 0
0 1 0 0 0 0 2 1 0 0
0 2 0 1 1 0 3 1 3 0
S H E
4 9 0
4 11 2

第1試合の余韻も収まらない午後6時44分、第2試合が開始されます。重圧の呪縛に苦しみながらもなんとか第1試合をものにした事で、球場の誰もが近鉄逆転優勝を信じるようになります。あれだけの試練を乗り越えたのだから、第2試合は近鉄が爆勝試合になるとの予想さえスタンドではささやかれました。そんな空気は近鉄ナインにも微妙に伝わり、第1試合にくらべると妙にリラックスした雰囲気で試合が始まったと伝えられます。

ただし近鉄の優勝への条件が緩和されたわけではなく、やはり引き分けは許されず勝利のみが優勝への絶対条件であることには変わりありません。第1試合は延長はしない規定でしたが、第2試合は4時間を越えて新しいイニングに入らない規定となっており、この規定が最後の最後に微妙な勝負の綾となる事など試合前の近鉄ナインも仰木監督も知る由もありませんでした。

ロッテの先発は園川、第1試合の小川博同様に園川もまた好調。5回までに2安打5三振と快調に近鉄打線を切ってとります。一方でロッテは近鉄先発高柳に対して、2回マドロックが先制本塁打。この辺りからまた球場が重い雰囲気に包まれる事になります。しかし6回にヒットで出塁した大石を新井がバントで送り主砲ブライアントを迎えます。ここでロッテベンチは3番のブライアントを敬遠し4番のオグリビーと勝負。大リーガーのプライドを傷つけられたオグリビーは見事に適時打を打ちまず同点に追いつきます。さらに7回には吹石、真喜志が本塁打で2点を追加し、試合の流れは大きく近鉄に傾いたかと思われました。

ところがここから試合は一挙に白熱する事になります。疲れの見え始めた高柳にロッテは襲いかかります。7回先頭の岡部が本塁打、続く古川も安打で続いたところで仰木は動き吉井投入。吉井に対し袴田が古川をバントで二塁に進め、代打上川はファーストゴロに倒れたものの、続く西村に適時打が生まれロッテは同点に追いつく事になります。

10.19第2試合
8回阿波野が高沢に喫した痛恨の同点本塁打。渾身のスクリューボールであったと言われる

負けられない近鉄は8回主砲ブライアントの一発が出ます。再び虎の子の1点のリードを得た近鉄は、これを死守するため吉井をあきらめ第1試合に引き続き阿波野をマウンドに送り込みます。疲れた体を奮い立たせて懸命の投球を続ける阿波野でしたが、8回裏、高沢に痛恨の同点本塁打を喫する事になります。8回にロッテが追いついた時点で近鉄には時間というもう一つの敵が忍び寄る事になります。ロッテは園川→荘→仁科→関とリレーし近鉄の攻撃を食い止めます。9回表も2死から大石が二塁打、続く新井の打球は三塁線上を痛烈に襲い、誰もが「抜けた」と思いましたが、サードの水上が超ファインプレーで切り抜けます。近鉄は1点が果てしも無く遠いものになってしまいます。

一方でマウンドを死守する阿波野には試練が続きます。9回も古川、袴田と連続安打を許し、無死一二塁。袴田の安打など阿波野自身が打球の処理に体が追いつかず尻餅をついてしまったためのものです。ベンチの仰木はそれでも動きません。ここでは阿波野と心中の決心だったも伝えられています。気力を再び奮い起こした阿波野はなんと牽制球で古川を刺します。その時10.19最大の山場であり、汚点とされる事が起こります。余りにも有名な有藤の抗議です。

有藤の抗議までには幾つかの伏線があります。川崎球場を包んでいた異様な熱気と興奮はベンチもまた興奮状態にさせていました。第1試合でも9回裏に丸山と大石の交錯プレーがあり、判定の守備妨害に対し有藤が抗議し、仰木もまたラフプレーに怒ると言うシーンがあります。第2試合でも、2回に佐藤健が死球でなかなか動き出さないのを見た仰木は「そんなに痛いなら代われ」と言い放ち、有藤もまたそれに応酬する場面もあります。6回にも真喜志の投球の判定に対し中西コーチがエキサイト。そんな流れの中の有藤の抗議です。

有藤の抗議
10.19の汚点、有藤の抗議。この9分間で有藤は男を下げた。

有藤の主張は「走塁妨害だ」との主張です。プレーの内容は阿波野の二塁への牽制球はやや高目となり、ジャンプして捕球した大石はそのまま古川にタッチ、この時に二塁走者の古川の足がベースを離れており、アウトの判定となっています。有藤は古川の足が離れたのは大石が古川を「押した」ためであり、だからアウトではなく走塁妨害だと主張しているわけです。たしかに微妙なプレーで、大石と古川がある程度交錯しているのは間違いありませんし、見ようによっては大石が押したとも見れない事もありません。ただしこういう微妙な時こそ判定は絶対であると言えない事もなく、プロ野球関係者ならこの抗議が通らない事は百も承知であるとされます。

有藤の抗議は9分にもわたったと記録されています。なぜこの有藤の9分の抗議が最大の山場であり、汚点であるかですが、すべては時間にからんでくるからです。9回表の近鉄の攻撃が無得点で終わっている以上、近鉄がこの試合で勝利し、優勝を飾るためには是が非でも延長戦に持ち込む必要がありました。さらに第2試合の延長戦規定は4時間です。試合が始まったのが午後6時44分、この抗議の時点で午後10時15分。すでに試合時間は3時間半を越え、残された時間は30分足らず。30分なら試合展開にもよりますが、2イニングスはまだ攻撃チャンスの可能性が残ります。ところがここで有藤が9分も時間を消費してしまったため延長戦は10回のみになってしまったのです。

この時、長引く抗議にいらだった仰木は有藤に「走塁妨害というのならそれで構わないから試合を再開しよう」とまで言ったと語られています。これはコーチの中西であったともされますが、残念ながら真相は確認できませんでした。言ったか言わなかったか、いったい誰が言ったかはこの際大きな問題ではなく、有藤の抗議を見ていた近鉄ナインの心情を良く表していると思います。

有藤の抗議は実らずようやく試合再開、フラフラの阿波野は最後の気力を振り絞って9回をゼロに抑え、延長10回表、近鉄の本当の最後の攻撃に入ります。この回に点を取れなかったらひたすら待機している西武の優勝です。先頭のブライアントはエラーで出塁、すかさず代走に安達が送られます。しかしオグリビーは力んだのか三振、続く羽田は無念にも併殺。この時点で時刻は午後10時41分、すでに3時間57分を経過しています。10回裏の守備に散る近鉄ナイン、彼らの胸中には何が去来したのでしょうか。

第2試合終了は午後10時26分終了、試合時間4時間12分。奇跡の逆転優勝を信じて第1試合開始から7時間56分に渡って繰り広げられた10.19は幕を閉じます。この日川崎球場には間違いなく野球の神は降臨していました。神は考えられるだけの試練を与え、それを死力を絞って振り払う近鉄ナインに対し、余りにも残酷な結末を用意しています。いかに神とはいえそんな事が許されるのかと誰しも思ったものです。ただしこの10.19の野球叙事詩には信じられない事に第2幕が用意されていたのでした。

この試合を確かに私は見ていた記憶があります。ただし第1試合の始めからと言われれば自信がありません。関西ローカルでは中継していたはずなんですが、果たして試合開始時点から中継があったのか、中継があったとしても最初から視ていたかといわれればどうにも記憶が曖昧です。中継に関しては今でもこんな歴史的な試合を関東キー局が中継しなかったかと非難の声が残っていますし、それを知った私のような関西人は憤慨したものですが、今となれば理由はなんとなく分かるような気がします。
当時のパ・リーグ人気は低かった。とくに関東で近鉄-ロッテ戦など普通の試合を中継しても誰も見なかったのは間違いありません。それでも優勝がかかる大一番なので価値はあるだろうと言われそうですが、10.19を劇的にした要素、逆転優勝のためにはダブルヘッダーで連勝のみが中継の判断をためらわせたのでは無いかと考えます。
連勝が条件なので第1試合で近鉄が負けるか、引き分けてしまえば第2試合の中継価値はたんなる消化試合です。午後3時試合開始だったので、第2試合に興味がつながれてもプライムタイムにどっぷり引っかかります。第2試合も近鉄が勝てばよいのですが、もし早々とロッテの一方的な試合展開になってしまえば、川崎にいない西武が優勝のため胴上げシーンが中継できるわけではありません。中継条件が非常にリスキーだったと考えられます。もし完全中継なんて銘打って大々的に中継して、第1試合で近鉄があっさり負けたら取り返しのつかない損害を蒙る怖れがあったからだと判断したんじゃないでしょうか。
試合のあまりの展開に驚いた中継権を握っていたテレビ朝日ですが、当時の人気番組であった「はぐれ刑事〜純情派」の放送終了後、ようやく重い腰をあげ、ニュースステーションの時間を塗りつぶして異例のCM抜きの完全中継をします。10.19より優先して放送した番組の主役は藤田まこと。彼はコチコチの近鉄ファンとして有名で、もしインタビューがあれば「俺の番組なんてどうでもええさかい、近鉄を中継しろ」と怒鳴った事は容易に想像がつきます。
視聴率は関東で30.9%、関西では46.7%を記録し、野球のみならずこの年最大の出来事として多くの人に語り継がれるようになったのは、いきなり10.19の最大の山場の異様な熱気を、これも当時の人気番組であるニュースステーションを踏み潰して、なおかつCM抜きの完全中継にした影響も大きかったと思います。このあたりも皮肉と言えば皮肉と言えますが。
それとこの試合でも後の高い評価とあいまって仰木采配の真髄が込められていると評価する向きもありますが、いくつか疑問点もあります。さすがに第1試合9回の梨田の代打は単なる幸運でしょうし、最終決戦となった第2試合の先発がルーキーの高柳であったのも、仰木のひらめきと言うよりは、13日間で15連戦で疲労しつくした先発陣からすれば、ごく順当なローテーション通り以外の何者でもありません。高柳が中4日、第1試合の小野は中3日ですし、山崎は前日の先発、村田も前々々日の先発ですから高柳以外の選択は無かったと言えます。冷静に考えて村田よりは高柳の方が休養十分ですし、いくらなんでも阿波野を持ってくるのは無謀です。
よく分からないのは第1試合で代打梨田の指名は良いとしても、代走佐藤が三本間で憤死した後、二塁の鈴木貴になぜ代走を送らなかったかです。鈴木貴は間違っても俊足ランナーではありません。結果的には梨田のあたりはボテボテでセンターに抜けていったため、クロスプレーではありましたが決勝点のホームを踏む事ができましたが、もう半歩遅かったら本塁憤死、その時点で10.19は終わっていた事になります。なぜ鈴木貴に代走を送らなかったのか、この辺は忘れていたのか、わざとそのままにしたのかの真相はわかりません。ただその裏の守備要員の関連があったかもしれませんが、それよりもこの場面は勝ち越し点を奪うことがすべてに優先したかと考えるのですが謎です。
鈴木貴にまつわる謎は第2試合にもあります。鈴木貴は第1試合の近鉄6安打のうち3安打を叩き出し、その3安打はすべて得点にからんでおり、決勝点のホームを踏んだのも鈴木貴です。これだけ活躍した鈴木貴を第2試合では6回の守備から佐藤に交替させています。6回といえばまだスコアは1対1の同点で試合はまだまだどう転ぶか分からず、勝負強い鈴木の打撃は第2試合はここまで3タコとはいえ、少し早すぎるような気がします。この辺は三原流の「鈴木貴は第1試合はラッキーボーイであったが、第2試合はブレーキになりそうだ」の判断だったのでしょうか、それとも第1試合の時の本塁突入時に足でも痛めていたのでしょうか、これを語る資料にはついに巡り合う事は出来ませんでした。

上田オリックスの意気込み

門田博光
41歳の門田であったが、この年.305、本塁打33本、93打点と活躍し、オリックスを引っ張った。これは南海時代の写真。

阪急は日本職業野球聯盟が創設された時のオリジナルメンバーであり日本球界屈指の老舗球団です。長い低迷時代はありましたが、「闘将」西本幸雄に率いられてからはメキメキ頭角を現し、1960年代後半から1970年代にパ・リーグの覇権を握っています。西武の台頭の前に往年の圧倒的な強さこそ失われていましたが、前時代の覇者としてまだまだ侮れない戦力を擁していました。1988年こそ4位に低迷しましたが、監督の上田利治の闘志は覇権奪回にまだまだ執念を燃やしていました。

10.19の運命の日に、寝耳に水の身売り話です。この年はもう一つのパ・リーグの名門老舗球団である南海ホークスがダイエーに身売りされていますが、南海の場合、正直なところ戦力的には枯渇しきっており、言っては悪いですが、球団としての寿命が尽きたかの感がありました。阪急は決してそんな状態でなく、リーグ優勝を十分狙う事の出来る戦力は残っており、選手たちの戸惑いは大きかったと思います。

オリックスの阪急への扱いはその後はっきりするのですが、ひたすら阪急カラーを払拭する事にのみ費やされる事になります。1989年の段階ではどうだったかはわかりませんが、これまで築かれてきた阪急の野球を継承発展させるには、余所余所しい態度であったろうぐらいは想像がつきます。西本の後を継ぎ阪急の黄金時代を作り上げた上田もまた日本球界屈指の名監督に数えても良い名将です。オリックスのユニフォームに身を包みながら、栄光の旧阪急ブレーブスの意地と誇りをファンの目に焼き付けておいてやろうと、密かに決意したのは想像に難くありませんし、選手たちもまたそうであったろうと考えます。

この年の攻撃陣には首位打者、打点王の二冠に輝いたブーマー、松永浩美、石嶺和彦に加え、南海から移籍したベテラン門田博光。さらに2番には福良淳一、下位打線にも藤井康雄、本西厚博と玄人好みの渋い打者をそろえた強力布陣で、上田をして「ブルーサンダー打線」と豪語させる強力打線でした。投手陣もエース星野伸之を中心に、山沖之彦、佐藤義則、ホフマン、今井裕太郎、さらにこの年新人王を獲得した酒井勉と駒をそろえていました。

この布陣で惜しむらくは、主力選手の平均年齢がかなり高い事と、投手陣の中で救援陣がやや手薄なところですが、監督、選手とも「これが最後のブレーブス」だの士気は極めて高く、1989年の序盤はオリックスの快進撃で幕を開けることになります。爆発するブルーサンダー打線はライバルたちを蹴散らし、シーズン前には前年度あれだけ激しく優勝を争ったので優勝候補の両翼見られていた西武と近鉄を見る見る引き離してしまいます。近鉄には最大で8.5ゲーム、西武にいたっては11.0ゲームも引き離し、オリックス独走ムードが1989年パ・リーグの序盤の展開となります。

森西武の油断

薄氷の末4連覇を達成し、日本シリーズでも中日を撃破して日本一の覇権を保持しましたが、球団は5連覇に向かい戦力のさらなるかさ上げを行っています。「超」がつくほどの強力補強で、「カリブの怪人」デストラーデと西武の黄金時代の後半を支える「快腕」渡辺智男です。攻撃陣は従来でも強力だったのに秋山、清原、デストラーデがクリーンナップに並ぶのは壮観です。この年優勝を争ったオリックスのクリーンナップ「ブルーサンダー打線」もブーマー、門田、石嶺も実績十分ですが、ブーマーが35歳、門田にいたっては41歳であり、実績は申し分はありませんがかなり不安視されていた事を思えば、リーグ最強とシーズン前に噂されたのは間違いありません。

投手陣は新戦力の渡辺智男は額面どおりの活躍を示しましたが、後年に200勝まで勝ち星を積み上げた工藤が休みの年になり、渡辺智男が活躍した分をきっちり帳消ししてしまったのが誤算とはなりました。工藤はこの頃から1年おきにしか働かない特徴があり、この年は4勝8敗とさっぱり働かず、万全の整備をしたと考えていた西武の首脳陣の大きな誤算となります。

シーズン前の戦力整備は工藤を除けば5連覇におつりが来るほどであったはずなんですが、開幕ダッシュにはつまづきます。「エエデ、エエデ」の上田節にのったオリックスが手をつけられない勢いであった事もありますが、それよりも前年の近鉄との死闘が骨身にこたえていたのではないかと考えます。6月からほぼ一貫して首位を走っての優勝とはいえ、最後の最後の130試合目の10回表まで近鉄に追い込まれたプレッシャーは相当なものがあったようです。

肉体的疲労はオフの間にある程度癒されたとしても、精神的疲労がシーズンが始まっても色濃く残り、また優勝慣れしたチームにはモチベーションがもうひとつ燃え上がらないものがあったと考えます。さらにチームを率いる森は、たしかに残した実績からは屈指の名監督ではありましたが、その手腕の本領は仰木や上田とはかなり毛色が違うところがあります。

森が広岡から引き継いだ西武はその時点から十分な戦力を有しており、さらに西武球団はチームの戦力強化に努力を惜しみませんでした。また与えられる戦力も、フロントがチームの補強点を十分吟味して、弱点になりそうなところを早め早めに補充する事に高い能力を示しています。結果として森の手の中には巨大戦力が常にあり、森に求められる役割はいかにこの戦力を生かすかと言う事になります。広岡から受け継いだ管理野球は巨大戦力の管理に非常に適合したものであり、ともすれば独善的になりわがままとなるスター選手を有無を言わせず統制する事が可能です。

管理野球により飼いならした選手たちを、森は道具の様に向き不向き、好不調を見極めて、あてはめて使いこなせば勝利は自然に積み上がるのが森野球の本質ではなかったかと考えます。ただし選手管理の本質が統率と言うより統制になっているのが強いて言えば難点で、森自身が選手の求心力になっていたかどうかは疑問符がつけられる事になります。選手は統制により球団やチームには忠誠心を誓ったでしょうが、森本人に対してはゲシュタポと選手に陰口を叩かれたように、敬慕の対象と言うより、近づきがたい恐怖の対象のように位置づけられた節があります。

つまりチームが危機に陥ったとき、監督が結束の要になって盛り上がる事が難しい体制であったとも言い換えられます。この年の序盤の西武は森野球の弱点を露呈したとも言えます。連覇を続けていた事による勝利への慣れ、戦力補強による高い前評判への油断、昨年苦しめられた精神的疲労によるモチベーションの低下。3つの要因を仰木のような巧妙な人心掌握術で素早く修正できなかったのが、最大11.0ゲームもの差をオリックスにつけられたシーズン前半の展開であったと言えます。

オリックスのリリーフ陣が手薄としましたが、それでも山内嘉弘が4勝1敗12Sとストッパーとして働いた形跡があります。ところが西武となると石井丈裕4勝4敗3S、西本和人4勝2敗1S、山根和夫6勝4敗1Sあたりが救援陣として働いたと考えられますが、それにしても「こんなもの」と首を傾げるほどの成績です。他の投手にはセーブ記録すらなく、西武はこの年69勝をあげていますが、そのかなりの部分は先発完投であったとしか思えません。質量とも充実していた西武投手陣では投手リレーすら必ずしも必要でなかったでしょうか。
先にも書きましたが、ストッパーという役割は当時でもあり、この年も近鉄の吉井理人は5勝5敗20Sですし、4位のダイエーには井上祐二が6勝2敗21S、5位の日本ハムには佐藤誠一が6勝11敗11S、最下位ロッテでも伊良部秀輝が0勝9敗9Sといるのに較べても特異な印象を受けてしまいます。西武の野球にストッパーが存在しなかった訳ではなく、1986年には郭泰源が5勝7敗16Sと活躍した時期もあったのですが、近鉄と優勝を激しく争った1988年、1989年には有力なストッパーがいなかった事がいかにも不思議です。
西武は1989年の後、1990年から1994年まで5連覇を成し遂げるのですが、この時には鹿取義隆、潮崎哲也の2枚ストッパーが確立しているところを見ると、1988年、1989年の2年間は王者西武にして有力なストッパーの人材を欠き、それがシーズンで苦戦する遠因になったとも考えられます。

そして仰木近鉄

この年は去年あれだけの大躍進を遂げたのですから、悲願の王座奪還のために大型補強かと思いきや、シブチン近鉄の本領発揮で、ほとんど戦力的には変わり無しといったところです。オグリビーの代わりにリベラが新外国人として入り、投手陣は昨年とほぼ同じメンバー。まるで「仰木監督、後はマジックでよろしく」と言わんばかりの補強です。

近鉄もまた昨年の死闘が精神的に応えていた節はあります。考え方によっては西武以上で、もともと戦力的に劣るチームが、逃げる西武を何回も叩かれながらも必死の思いで巻き返し、130試合目でついに優勝を手にしたと思った瞬間「スルリ」と逃げてしまった徒労感は相当なものだったと思います。一方でシーズン前には昨年の躍進から慣れない「優勝候補」の文字が躍り、今年も西武との2強対決などと予想されたりすると、徒労感の上に「なんとかなりそう」ぐらいの妙な安心感も加わり、開幕序盤は浮ついた空回り状態であった事も十分想像されます。こればかりは仰木をもってしても如何ともし難かったかもしれません。

近鉄もまた上田オリックスの勢いの前に開幕序盤は蹴散らされ、早くも「去年はフロック」みたいな声が散見されるようになってしまいます。森西武も立て直しに苦悩していましたが、仰木をもってしてもチームの沈滞ムードを建て直すのは容易ではなかったようです。近鉄の戦力は贔屓目に見ても西武にはかなり劣り、オリックスとはチョボチョボ程度です。そんな近鉄が優勝争いをするためにはひたすらチームを「勢い」に乗せることが必須の要件なんです。

とくに近鉄のチームカラーは仰木以後ひとつの色がはっきりと現れ、勢いづくと手がつけられないぐらいの爆発力で勝ち進みますが、勢いに乗り損なうと果てしなく泥沼に沈む、まるでジキルとハイドみたいな面を見せる事になります。つまり監督には強烈な求心力が要求され、選手が監督に心酔しきり、トランス状態になる時に神がかり的な実力を発揮し、その神通力が失われた時、またはその能力の無い者が率いた時には実力以下のチームになると言う事です。

仰木をもってしても10.19で燃焼しつくしていた選手たちにもう一度神通力を揮うには3ヶ月を必要としました。

仰木野球は攻撃の時の用兵はたしかに巧みで「魔術師」とか「マジック」と敬称されましたが、投手起用は必ずしも全幅の評価を得ていると思いません。投手起用なんて攻撃に較べると奇策を駆使する余地は少ないのですが、エースやストッパーを酷使する傾向が濃厚にあったようです。その酷使ぶりは近鉄、オリックスの投手コーチであった権藤博や山田久志との対立を呼び退団騒動まで引き起こしています。後に先発投手として再生した吉井はともかく、吉井の後の守護神として活躍した赤堀元之は6年間で燃え尽き、オリックスに優勝をもたらした平井正史は実働2年で沈んでいます。
ここまで仰木が投手を酷使した影響はまず三原の影響が大きいかと考えます。三原は西鉄時代には「鉄腕」とまで称された稲尾和久を極限まで酷使して西鉄黄金時代を築き、大洋時代にも秋山登を酷使して大洋に初優勝をもたらしています。仰木は優勝のためには、投手には泣いてもらわなければならないという思想があったのではないかと考えます。これは仰木のもう一人の師匠である西本には無く、西本流の投手起用は決して投手に無理をかけず、西本采配下の投手は丈夫で長持ちが特徴となっています。
それでも仰木を弁護すれば、仰木に与えられたチームには間違っても巨大戦力は無く、巨大戦力を整備しようと言う発想もまたありませんでした。近鉄然り、オリックス然りで、ドラフトと2流助っ人以外の補強は基本的に望んでも無理でした。一方で常に仰木の前に立ち塞がった西武は王者の名の通り、常にライバルたちを圧倒する戦力を整える事に親会社上げて奔走しています。戦力的に遥かに勝る西武と覇を競うためには、どうしてもスーパーエース、スーパーストッパーに頼らざるを得なかったかと考えます。
さらに仰木に与えられた時間も必ずしも十分であったかと言われれば、常に即時の結果を求められる状態であったといえます。仰木のもう一人の師匠である西本は確かに大監督でしたが、チームの育成には4年、5年という長年月を必要とします。阪急時代なんてあそこまで阪急球団が我慢できたかと思うぐらいの成績低迷時代があり、近鉄でも後期優勝を就任2年目でしたのと阪急時代の赫々たる実績があったので近鉄球団は待てましたが、無名の仰木にはごく短期で結果を出さないと常に解任の危険性があり、そのため三原流の投手起用で成績を残しながら、西本流の選手育成を同時進行をする必要があったと考えます。
仰木にしても自らの手で西本のように選手を育成し、分厚い戦力を自前で作り上げて覇を競いたかったかもしれませんが、仰木にはそんな時間が与えられる事はついになかったと言えます。

波乱万丈のシーズン展開

仰木近鉄は7月には入ると別人のような猛進撃を見せる事になります。6月までのもたつきが嘘のような14勝6敗。一方でベテラン中心の上田オリックスは夏場に差しかかり、疲労からか開幕からの快進撃に翳りが差し始め、ついに首位の座を近鉄に明け渡す事になります。このまま近鉄が独走態勢を築くかと思われるほどの勢いでしたが、8月に入ると上田オリックスもしぶとく食らいつき、優勝争いは昨年同様一進一退の争いとなります。

上田オリックスも仰木近鉄も相手を振り切るほどの勢いは無く、抜け出せないままもたついている間に、ついに大本命森西武が凄まじい勢いで猛追してくる事になります。森も時間はかかりましたが、ようやくチームを立て直し、いったん立て直り投打の歯車が合い始めると、もともと戦力は12球団随一ですから、怒濤の如く逃げる上田オリックス、仰木近鉄をとらえ、9月にはついに最大で11.0ゲーム差があった首位の座を占める事になります。

ここからはこのシーズンのおもしろさなんですが、追いついた西武もまたそこから突き放す事が出来ず、西武、近鉄、オリックスの3強は団子状態のままシーズンの最終盤まで優勝争いを繰り広げる事になります。ここで特筆したいのは上田オリックスで、6月までの開幕ダッシュの貯金をすり減らしながらも、疲労が見える主力を率い、仰木近鉄、森西武の急追にも最後まで離れず食らいついた事がこのシーズンの興味をより深いものにしたとも言え、上田が真の意味での名将であった証明であるとも考えます。

実に10月9日時点でも3強団子状態はほぐれることなく続きます。この時点の勝敗表は下記の通りです。

順位 試合数 勝率 残り試合
西武 126 68 50 8 .576 - 4
オリックス 125 69 53 3 .566 1.0 5
近鉄 125 67 53 5 .558 2.0 5

2位のオリックスは勝ち数で上回っていますが、負け数が西武より3つ多いのが不利な点です。しかしこの時点で他の2強である西武、近鉄との試合が終了しており、残り試合がこの年も最下位であったロッテとの対戦が4試合も残っているので、しぶとく勝ち星を積み上げればまだまだ優勝のチャンスは十分残っています。首位の西武は最後に勝率勝負となれば、引き分け数が多いのでその点は有利です。ところが残り4試合がすべて3位との近鉄戦であり、ここで星の潰し合いをすれば、オリックスに漁夫の利をさらわれる心配があります。

近鉄は悲愴です。首位西武とは2ゲーム差とはいえ、残り試合はたったの5試合。また西武を叩いても2位のオリックスが残り試合を全部勝ってしまったら追いつけません。10月9日時点では近鉄は自力ではオリックスを上回る事は出来ないのです。唯一の救いは首位西武と4試合も残している事で、近鉄に出来ることは首位の西武を自力で叩き落し、オリックスの取りこぼしを願うしかない状態でした。

それぞれの思惑を込めた日程は10月10日から西武-近鉄の3連戦、オリックスは裏でロッテとの4連戦を戦う事になります。ここでもし西武が敗れ、オリックスが勝つようなことがあれば、オリックスにマジック4が点灯するようなギリギリの展開となります。ところが運命の3連戦の初戦は近鉄が勝ちオリックスが敗れたため、消滅していた近鉄の自力優勝のチャンスが芽生える事になります。勢いを持ち込みたい近鉄でしたが翌10月11日は雨天中止、日本シリーズを控え日程に余裕の無いパ・リーグでは10月12日にダブルヘッダーを組む事になりました。

地力優勝の可能性が出てきたといっても近鉄がさほど有利になったわけではありません。近鉄に求められるものは首位の王者西武をダブルヘッダーで連破する事です。1勝1敗の5分なら優勝戦線から脱落してしまう可能性が大であるからです。昨年のダブルヘッダーも条件は厳しかったですが、この年の近鉄に架せられたダブルヘッダーの条件は昨年以上に厳しいものがありました。

神は再び降臨した

この試合間違いなくブライアントに野球の神は降臨していた。

10月12日のダブルヘッダーの幕が開きます。第1試合の近鉄の先発は加藤哲、西武は郭泰源。加藤哲は序盤から打ち込まれ2回を終わって西武4-0近鉄。4回にブライアントが本塁打を放ち1点を返すものの、西武もまた1点を追加する重苦しい展開で、5回まで2安打と好調の郭泰源がこのまま完投かとも思わせる展開となります。

近鉄がようやく反撃のチャンスをつかんだのは6回。安打と四球で無死満塁、迎えるバッターは主砲ブライアント。前の打席でも本塁打を打っているので、大いに期待したいところですが、ブライアントの打撃は当たれば大きいが一面猛烈に粗いところがあり、この年49本で本塁打王を獲得する一方で、三振も従来の記録である158三振を大きく塗り替える187三振を記録しています。そのスイングはたしかに猛烈で、昔「巨人の星」に出ていた中日のオズマを思い起こさせるものがあります。しかしオズマとは違い「当たらない事」も多く、近鉄ファンはブライアントのバットに郭泰源の投球が「衝突」してくれることをひたすら願いました。

期待と緊張を込めた1球目、いきなり振りぬかれたブライアントのバットは、ものの見事に郭泰源の投球に激突、打球は壊れたかと思うぐらいに叩かれて、一直線にライトスタンドに消えていく事になります。同点満塁ホームラン。あまりの凄まじさに所沢球場に集まった観客は一瞬何が起こったかわからなくなり、続いてスタンドが割れそうなぐらいの大歓声に包まれ、球場全体が一挙に異様な雰囲気に包まれる事になります。

5-5の同点で迎えた8回、近鉄のバッターボックスにはまたもやブライアント。なんとか最低でも同点引き分けに持ち込みたい西武は、ここまでブライアントに打ち込まれている郭泰源をあきらめ、渡辺久をリリーフに送り込みます。渡辺久はこの年15勝11敗、防御率3.41とエース格の働きをしていましたが、10月10日に先発しており、中1日の登板がやや不安視されましたが、森はその無理を承知で渡辺久に賭けたと言えます。それよりもその前の打席のブライアントの本塁打により、変わってしまった試合の流れをなんとしてもせき止めようとした、森の焦りが出たためかもしれませんし、冷静でもって鳴る森が試合の異様な雰囲気に飲み込まれたのかもしれません。

渡辺久-伊東のバッテリーは慎重に攻めます。2ストライクと追い込んだ後、内角高めに渾身の速球を投げ込みます。これはここで勝負に行ったというより、吊り球であり、振ってくれれば三振、手を出さなければ見せ球として、最後は外角低目や内角低めの落ちる珠あたりで勝負する計算であったと伝えられます。球速もコースも申し分なかったと捕手の伊東は後に証言しています。投げた渡辺久もブライアントのバットが反応しかけた瞬間「三振」と確信したそうです。

西武バッテリーの計算し尽くされた精緻な配球ではありましたが、ブライアントのバットはそんなものを物ともせずに渡辺久の投球を打ち砕きます。打球はライトスタンドに文字通り突き刺さります。3打席連続の文句なしの特大ホームラン。第1試合は西武5-6近鉄の逆転勝ちとなりましたが、近鉄の全打点を叩き出したのがブライアントの3打席連続ホームランだったのです。

第2試合も2-2の同点で迎えた3回、またもやブライアントのバットが炸裂し、この日4本目の本塁打。ブライアント一人に打ちのめされた西武にチームを立て直す余裕は無く、後は近鉄打線が大爆発、14-4の圧勝で不可能と思われたダブルヘッダー連勝、土壇場の西武3連戦を3連勝で飾る事になります。それにしてもこの時のブライアントのバッティングは、昨年の1019で野球の神が降臨しながら、勝利の女神に嫌われたのとは対照的に、野球の神も勝利の女神も独り占めして微笑まれたかのようです。

オリックスも最後の意地をみせ、ロッテ戦とのダブルヘッダーに連勝したもののここで力尽き、翌日のロッテ戦に敗退。マジックを1とした近鉄は129試合目のダイエー戦に勝ち、2年越しの激戦となったパ・リーグを遂に制する事になります。それでもシーズン終了時、優勝した近鉄と2位オリックスとはゲーム差なし、3位西武ともわずか0.5ゲームであった事を思うと、いかに凄まじいシーズンであったかがよくわかります。

仰木彬、上田利治、森祗昌といういずれも球史の残る名監督が、持てる戦力を振り絞り、知謀の限りを尽くしたシーズンの最後を飾ったのが、ブライアントの3連発。昨年の10.19と合わせて、近鉄ファンのみならずプロ野球ファンの心の中に伝説を越えて神話として今も息づいている事だけは間違いありません。

エピローグ

1988年、1989年の激闘を戦い抜いた3人の名将のその後ですが、西武の森はその後1994年まで西武の指揮を取り、そのすべてを優勝し5連覇の金字塔を打ち立てる事になります。ところが勝ち続けた西武の人気は徐々に下降線をたどり、1994年の日本シリーズで巨人に敗れると勇退させられています。 西武在任9年間で8度のリーグ優勝、6度の日本一に輝くと言う実績の割には西武球団は森には冷淡で、1989年3位に終わった時の報告ではオーナーの堤義明から「やりたければ、やれば」だったと伝えられますし、1994年退任の時もアッサリ「さよなら」です。この頃からオーナーの堤義明は球団経営に熱意を失っていたのかもしれません。

そんな森にリベンジのチャンスが巡ってきました。横浜からのオファーです。横浜は1998年に優勝後、成績は下降気味で、当時の監督権藤が自由放任主義で選手を管理していたのを問題視した横浜球団は、森の管理野球で黄金時代到来を夢見たのです。2001年から横浜の指揮を取った森でしたが、その年こそ3位になりましたが、翌2002年には49勝86敗5分、勝率.363の惨憺たる成績となり解任されています。西武時代はあれだけ成功した管理野球でしたが、横浜ではまったく受け入れられなかったのです。この辺はヤクルト、西武に管理野球を導入成功させた広岡より手腕が劣るのか、時代が既に管理野球を受け入れなくなったのかは難しいところですが、栄光に満ちた森の監督評価の大きな失点となったのだけは間違いありません。

ブレーブスの意地を最後に見せた上田利治ですが、1990年で実に17年間勤めたブレーブスを退団。勇退となっていますが、非阪急化の方針の球団姿勢の産物であったろう事は想像に難くありません。上田も1995年に日本ハム監督に招請されています。1996年には圧倒的な勢いで独走し、優勝は間違いないと言われましたが、家族の事情で突然の休養、その後失速し、優勝を逃し、選手の信頼を失った上田は以後思うような成績が上げられず、1999年5位に終わると勇退を余儀なくされています。

上田の野球の師匠は言うまでもなく西本ですが、西本に比べはるかに陽性な面がありました。用兵も西本流の頑固一徹采配ではなく、意表をつく采配をしばしば行い、上田節と呼ばれた「エエデ、エエデ」で選手を乗せていく巧みさを持っていました。その辺が阪急で黄金時代を築かせた要因であったと考えますが、上田の情熱はやはりブレーブス時代に燃え尽きたのではなかったでしょうか。1996年の突然の休養の事情はわかりませんが、かつての上田であれば何があっても考えられない事だからです。

そして仰木です。近鉄はその後、超大物新人である野茂英雄を獲得し、ストッパーにも赤堀が台頭しましたが、ついに西武を脅かす事は出来ませんでした。それぐらいその後の西武には圧倒的な戦力があったと言う事です。1991年には77勝48敗5分、勝率.616でも西武と4.5ゲーム差、1992年にも74勝50敗6分、勝率.597でもやはり西武と4.5ゲーム差と、どう歯噛みしても、とても追いつけるような戦力差では無く、ついに覇権奪回は果たせずこの年仰木は近鉄を去ります。

仰木も1994年にオリックスからオファーが来ます。当時のオリックスは上田の後を継いだ土井正三が阪急カラーをぶっ壊し、ついでにチームもぶっ壊した後での再建を託されての監督就任です。オリックスで仰木はその名将の名を不滅にした大抜擢を行ないます。イチローの登用です。あの阪神大震災の年、打ちまくるイチローに引っ張られるようにオリックスは大躍進を遂げ、王者西武の6連覇を阻み優勝を飾る事になります。翌1996年もオリックスは連覇を飾り、今に伝えられる「仰木マジック」「魔術師仰木」の評価を残し、2001年オリックスを去ります。

2005年、70歳になった仰木に再びオリックスからオファーが来ます。オリックスはこの年近鉄と合併しましたが、内情はガタガタで、オリックス内にめぼしい選手が払底しただけではなく、合併で当てにしていた近鉄の主力選手たちも、エース岩隈、選手会長磯辺は楽天に去り、主砲中村紀はメジャーに、ローズも巨人に移籍し、正直なところオリックスにあったのは、残りかすの選手と、旧球団間の選手のわだかまりだけと言っても良かったかと思います。

70歳になり健康に不安(このとき肺がんを患っていた)を抱えていた仰木にオファーが来たのは、かつて両球団を率い優勝させ、なおかつ選手間に声望が保たれていたからです。仰木は何を思っていたのでしょうか、自分しか適任者がいないという使命感もあったでしょうが、それより師匠である三原脩が近鉄を率いた時の事を思い出していたように思われてなりません。「師匠もあれだけやった、果たして俺はどれだけやれるだろうか」と。

さすがにいきなり優勝は無理としても、2004年からパ・リーグにはパラマス式のプレイオフが導入されています。なんとか3位に潜り込めば、プレイオフの舞台に選手を送り込むことが出来る。プレイオフまで行けば短期決戦ですから何が起こるかわからないと考えていたようでしたし、周囲にも漏らしていたようです。最後の「仰木マジック」が展開されます。しかしシーズンはダイエー、ロッテの2強が他を引き離し、3位の座を争ったのはは前年度優勝チームである宿敵西武です。肺がんは確実に仰木の体を蝕み、シーズン終盤にはダッグアウトの階段の昇り降りさえ支障をきたす事になったと言われています。

死力を振り絞っての采配でしたが、またもや西武に阻まれてプレイオフ進出は叶わぬ夢となってしまいます。仰木は思ったに違いありません「あと2年、いやあと1年でもいいから時間が欲しい」と。後1年あれば現有戦力は数段レベルアップできるだろうし、トレードで大型補強も不可能ではありません。構想自体は仰木の頭の中にはあったにちがいありません。清原や中村紀の移籍も「俺なら使いこなせる」の自信以外何者でもなかったはずです。「もう一度優勝を」の執念の炎は最後までメラメラと燃え盛っていましたが、悔しいかな命の方が先に燃え尽きてしまいました。享年70歳、死の床にあった仰木は最後に何を思ったのでしょうか。

あとがき

悔しいですが書き切れません。もう少し手際よくまとまるはずだったのですが、程遠いものになってしまったのは無念でなりません。正月明けに近鉄ファンの友人に「資料もビデオもあるから貸したろか」との温かい助言がありましたが、あえて見ずに書いたのが果たして良かったのか、悪かったのか。読んでおけばもっと出来がよくなったかもしれませんが、逆に原作に引きずられたかもしれないのですが、仕上がりを見る限り「悪かった」とどうしても感じてしまいます。

それにしても10.19ですらネットの中では古代の記録になりつつあるようで怖いです。10.19は幸い熱心なファンが断片的ですが書き留めてくれるものがあり、まるで古文書を読むような気分で蒐集できましたが、翌年のブライアント3連発となると格段に資料が少なくなります。なんとか物語りは紡ぎましたが、それでも現場の雰囲気と言うか気分と言うか匂いみたいなものが書けたかと言われれば、はなはだ疑問です。

出来上がった後もCoffee Breakに上梓するかどうか相当悩みましたが、近鉄ファンの皆様に申し訳ないと思いながら、「許して」と心で頭を下げながら上梓させてもらいます。