幻の永久欠番

永久欠番。なんて素晴らしい響きかと聞くたびに思ってしまいます。他の競技でもあるかもしれませんが、やはり永久欠番といえばプロ野球です。70年近いプロ野球の歴史で永久欠番の栄誉に浴しているのはたったの13人。もっとも13人以外にもファンやオーナーに与えられているものはありますが、選手としてはたったの13人なんです。一部に古すぎて私ぐらいでは経歴もプレースタイルもその名声も知らない選手もいますが、いずれ劣らない大選手であることだけは間違いないかと思います。

それでもプロ野球史上に13人しか永久欠番に匹敵する選手はいなかったんでしょうか。決してそんな事は無いと思います。個人的な思い入れと肩入れが強すぎるところはありますが、永久欠番になれなかった選手たちをムックしてみたいと思います。

消えた永久欠番

稲尾和久 中西太 鈴木啓示
稲尾和久 中西太 鈴木啓示
稲尾、中西以外も大下弘の3番も一時永久欠番であったがこれは'68に返上。'73に西鉄、'05に近鉄が消滅した時点でパ・リーグの永久欠番選手は絶滅した

まず間違いなくその球団史上に残る大選手であり、その働きを讃えて永久欠番になった選手がいます。昭和30年代に黄金時代を築いた西鉄の主力選手である「鉄腕」稲尾の24番と「豪打」中西太の6番です。中西は怪我のため打者としてはやや短命でしたが、その豪打は九州のファンを熱狂させ、稲尾に至っては「神様、仏様、稲尾様」とまでファンに言わしめた大選手で、その全盛時代の記録の凄まじさは、いくら時代が違うとはいえ人間業ではないものです。当然のように西鉄の永久欠番になっていましたが、西鉄自体が黒い霧事件の後、球団経営が低迷し、太平洋クラブに身売りされてしまいます。そのドサクサに永久欠番は失効してしまったのです。

もう一人そんな大選手がいます。最後の300勝投手、近鉄の「草魂」鈴木啓示です。弱小、お荷物球団の代名詞であった近鉄で投げ続け、なおかつホームグランドは本塁打量産球場として名高い藤井寺や日生球場であったにもかかわらず、300勝という大記録を積み上げたあの鈴木啓示です。鈴木もまたその功績を讃えられて永久欠番である1番を与えられましたが、近鉄もまたオリックスに吸収合併され、誇り高い鈴木の永久欠番もまた失効しています。

私は思うのですが、球団が身売りされたり、合併されたりは経営としてやむを得ないとしても、永久欠番は前身球団であってもプロ野球人として褒め称えて、名誉なものとして継承して欲しいと思います。球団を買い取ったオーナーが誰であれ、ファンはオーナーが誰かより、チームを応援しているのです。それに背番号に一つや二つ欠番があったからと言って、チーム運営に支障を生じるわけでもないでしょう。まったく日本のプロ野球オーナーって人種は球団を私物と見なしすぎるのでイヤです。球団とは長い歴史を経て、地域の共有物、公共物に近いとして扱う、アメリカの姿勢を少しは見習って欲しいかと思います。

3000本安打

張本勲
守備以外はイチローに匹敵する大打者であったが、永久欠番には縁が無かった。

張本勲は日本唯一の3000本安打の記録者であり、同世代の強打者王貞治が「世界の王」なら張本は「アジアの張本」と呼ばれたものです。通算安打3085本(歴代1位)、通算打率3割1部9厘(歴代3位)、通算本塁打504本(歴代6位)、通算打点1676点(歴代4位)、首位打者7回。体型からとても俊足とは見えない選手でしたが、通算盗塁319個(歴代20位)と走打に優れた大選手です。守備だけは自他共に認めるお粗末さで、打撃はイチローにも匹敵する「安打製造機」でしたが、守備は「守っても安打製造機」の異名があったそうです。巨人時代にもエラーの言い訳で、長嶋監督に「あれは空中エラーです」の迷言を残しています。

これだけの記録を残しながら、なぜ永久欠番が与えられなかったか。永久欠番取得にはいくつか暗黙の条件がありますが、その中に入団した球団で現役が終わる方が望ましいと言うのがあります。ただし望ましいですが絶対ではありません。13人の永久欠番選手のうち、400勝の大投手金田正一は全盛期を国鉄スワローズで過ごし、晩年になって巨人に移籍しています。それでも二度と出る事は無いであろうと考えられる400勝を讃えて、34番は永久欠番になっています。

張本も移籍歴はあります。あると言うよりもう少し複雑なんですが、まず入団していた東映フライヤーズが日拓ホームさらに日本ハムに次々に身売りされます。日本ハムから巨人に移籍、さらに3000本安打達成を目指して最後はロッテに移籍しています。それでも張本の3000本安打は金田の400勝に匹敵するぐらいの記録ですから、最後の所属チームであるロッテが永久欠番としても良いはずです。また当時は今以上に微妙な影を落としていた在日韓国人問題ですが、その辺は金田も事情は似たり寄ったりであり、ロッテと言う球団を考えれば巨人以上に張本の永久欠番には熱心であって良いはずなんですが、それでもしていません。

張本にしても不運な点はいくつかあります。当時のプロ野球界が注目した記録は張本と同期の王貞治の通算本塁打記録です。これは世界記録ですし、やはり安打より本塁打の方が華があります。また張本は巨人時代の4年間はスポットライトを浴びましたが、それ以外は地味なパ・リーグでひたすら過ごし、スター性はかなり落ちます。もっとも不運だったのは巨人在籍中に記録を達成できなかった事ではないかと思います。巨人でも最初の3年間はその実力を遺憾なく発揮しましたが、4年目には年齢による衰えが現れてきます。3000本安打達成だけのためにロッテに移籍した感が強かったですし、ロッテでも往年の打棒は甦っていません。この辺の尻すぼみ感もロッテ球団の印象を永久欠番まで考えさせなかった原因ではないかと考えます。

3000本安打を記念してプレートが埋め込まれた川崎球場も今はありません。それでも張本は球史に残る大選手であり永久欠番に値する選手であった事だけは間違いありません。また張本の通算最多安打もイチローがアメリカに去った現在、当分これを脅かす選手は出てこないでしょうし、脅かしそうな選手はメジャーに流出しますから、そういう意味で不滅の記録と呼べるかもしれません。

300勝投手

米田哲也 小山正明 別所毅彦 ヴィクトル・スタルヒン
左から米田哲也、小山正明、別所毅彦、ヴィクトル・スタルヒンの300勝投手。200勝投手でさえ、ほとんどもう見る事は出来なくなった現在では、まさに不滅の記録を持つ超人投手たちである。

広島の北別府学が1992年に200勝を達成した時「最後の200勝投手」と呼ばれましたが、最近工藤が200勝を達成して、今度こそ最後の200勝投手になるんじゃないかと呼ばれています。野茂が日米通算200勝を記録していますが、日米通算記録をイチローなんかも含めて今後どう扱うかは課題になるでしょう。松坂あたりも日本いれば200勝に手が届くかもしれませんが、メジャーに行ってしまいそうですからね。

200勝だけでも絶滅危惧種なみの状態ですが、300勝投手となると記録でしか見る事の出来ない絶滅種です。300勝を最後に達成したのは上述した近鉄の鈴木啓示、これが1984年の事になります。あれから20年しても近づく可能性のある投手すらいません。鈴木を含めて300勝以上の投手は6人。6人のうち永久欠番の栄誉に浴しているのは、400勝の金田と失効したとはいえ鈴木の二人だけです。残りの4人は永久欠番になっていないのです。

4人とは「ガソリンタンク」350勝米田哲也、「精密機械」320勝小山正明、「豪腕」310勝別所毅彦、「史上初の300勝投手」303勝ビクトル・スタルヒンです。このうち米田は18年連続10勝以上の日本記録を持ち、スタルヒンはシーズン42勝、38完投の不滅の大記録を持っています。また米田は阪急黄金時代に貢献し、小山も阪神、ロッテの優勝の牽引車となっています。別所も巨人の第2期黄金時代の主力投手ですし、スタルヒンも沢村が兵役で抜けた後の巨人支える大黒柱として巨人の第1期黄金時代の立役者のひとりとなっています。

まず別所ですが、結局欠番と縁が無かったのは2つの要因と考えます。一つは南海からの移籍であった事、もっともこれは後の金田が覆しています。もう一つは南海からの移籍の経緯です。別所の南海からの移籍は後に「別所引き抜き事件」として球界の事件簿に今も残るほどの騒ぎを起しています。当時の球界の覇権は南海が握っていました。巨人は戦後の球団再建に立ち遅れ、'36近畿(この年は南海はこう名乗っていた)、'37阪神、'38南海と3年続けて優勝を逃し、巨人には戦後の初優勝が使命となっていました。そのためにライバル南海のエースである別所を'38のオフに引き抜いたのです。今で言うと江川事件のような騒ぎであったらしく、別所にはベットリとダーティヒーローの烙印が押され、300勝の成績を挙げてなお永久欠番の話にはならなかったと考えます。

米田は阪急入団2年目から積み重ねてきた連続2桁勝利の記録を続けるために、シーズン半ばで阪神に移籍してしまいます。また最後は350勝の記録達成のためもあり近鉄に移籍します。18年連続2桁勝利を達成した阪神が1年半、350勝を達成した近鉄が1年ではどこも永久欠番にしにくい思いがあったじゃないかと思います。もちろん現役時代のほとんどを過ごした阪急も去り際が後ろ足で砂をかけられた様な印象があり、ノコノコ表彰しようとも思わなかったとも言えます。別に永久欠番欲しさに野球をやるわけではありませんが、あのまま阪急で晩節を全うしても良かったんじゃないかと今でも思います。ただし米田は残した記録は偉大ですが、活躍した場所が人気の無いパ・リーグのさらに人気の無い阪急であり、最後までスポットライトを浴びる機会が無かった選手だっただけに記憶に残らない選手と言うことで、永久欠番は難しかったかと言われればそうかもしれません。

小山は不運だったかもしれません。小山は'62阪神優勝を村山実ととに実現させた大エースです。ところが翌年に「世紀のトレード」で大毎の主力打者山内一弘と交換トレードされてしまいます。大毎からロッテに球団が身売りされても小山は黙々と投げ続け、'70には16勝を挙げてロッテの優勝に貢献しています。もっと言うなら'72に引退し、'73に大洋のコーチに就任していますが、弱体投手陣を見かねて突如現役復帰、4勝4敗の成績まで残しています。見事な野球人生ですが、結局「世紀のトレード」でキャリアを中断されたのが痛かったと思いますし、移籍先が地味なパ・リーグであったのも小山の名を歴史に埋没させた可能性があります。あのまま阪神で活躍していたらは見果てぬ夢ですが、それはそれで300勝まで積み上げられたかはまた別の問題となります。結局当時の阪神が投の2大スターであった小山と村山の二頭体制を制御できず、安易に打の山内と交換した犠牲になったともいえます。残った村山実が永久欠番であるのもまた運命の皮肉かもしれません。

スタルヒンは戦前を代表する大投手です。戦前の名投手は沢村を筆頭に兵役のためその活躍を寸断され、通算としてはさほどの成績を残していません。その中で白系ロシア人であるスタルヒンは兵役の義務は無く、唯一活躍を続けて記録を積み上げています。活躍の始めは怖ろしく古く、職業野球聯盟が結成される前の大日本東京野球倶楽部のアメリカ遠征から参加しています。スタルヒンは兵役にこそ行きませんでしたが、戦争の影は確実に彼にも影を落としています。元はロシア人ですから特高の監視の目は常に周りに張り巡らされ、プロ野球自体も戦局悪化のため縮小に継ぐ、縮小を重ねる中での活躍となります。巨人も主力選手を次々に兵役に奪われ、ライバル阪神など他球団もまた同様の状態となります。そんな状態で巨人が5連覇もできたのは、スタルヒンが不動のエースとして君臨できた事がいかに大きかったかは想像に難くありません。

スタルヒンの功績は巨人にとって忘れる事が出来ないもののはずなんです。スタルヒンなくして戦前の巨人の活躍あり得なかったということです。それほどの功労者であるスタルヒンですが、戦後は巨人を離れます。移籍とかトレードなんてものではなくて、強いて言えば退団です。これも正確な表現ではなく、'44の戦時中最後のリーグの後、各球団は解散状態となり、'46にリーグに球団が復活し、リーグが再建されたときにスタルヒンは巨人に参加しなかったと言う事です。なんと言っても戦後の混乱期、よく考えれば終戦の翌年なんかにリーグが再建されただけでも奇跡ですし、スタルヒンにしてみれば再び野球が商売になるかどうか疑問であったらしく、進駐軍の通訳をする事の方が食べるためには有効な手段であると判断したためとされています。

球界に復帰したのは'46ですが、これが何と巨人ではないのです。恩師とも言うべき藤本定義の縁とはいえパシフィック(これは球団名です)、以後は太陽ロビンス、金星スターズ、大映スターズ、高橋ユニオンズ、トンボユニオンズとどれもこれもその後消滅した弱小球団を渡り歩いています。憶測だけですが弱小球団が客寄せのためにスタルヒンの金看板を買い、スタルヒンもまたこれに応じていたのではないかと思われます。そう言えば日本初の300勝も'55の話であり、これを大記録として日本中が注目するなんて世界とは程遠いところであったのは間違いありません。

戦前戦中の活躍は戦争の濃い影の中で広く世間に知れ渡る事も無く、戦後の活躍は弱小球団で誰も見ていない球界の片隅で行なわれたのはある意味悲運であったともいえます。それでも'84に整備された市営球場にスタルヒンの名を冠した、スタルヒンの故郷旭川の人々に私は心を打たれます。これこそスタルヒンの永久欠番ではないかと思っています。

沢村のライバル

景浦将
伝説の強打者であり、沢村の永遠のライバルともされた景浦も、戦火に消えた幻の名選手である。

永久欠番の選手の中である意味一番有名で、謎とロマンと伝説に包まれているのは巨人の14番沢村栄治でしょう。草創期に巨人の不動のエース、伝説の快速球と三段ドロップの伝説は今でも有名です。その沢村と互角に渡り合い、今に続く伝統の一戦である阪神巨人戦の阪神の絶対のスターが景浦将です。水嶋新司の「あぶさん」のモデルであることは名前だけでもはっきりしています。

景浦は投げればエース、打てば4番の名選手で、投手としてはプロ野球創設の年である'36秋には6勝0敗、57イニングスで自責点僅かに5、防御率0.79(歴代2位)、翌'37春には11勝5敗、防御率0.93(歴代8位)の記録を残しています。打者としては'36の優勝決定戦で沢村の3段ドロップを洲崎球場の左翼場外まで運び、太平洋に叩き込きこむ豪打を見せ、通算で首位打者1回、打点王2回もまた記録しています。本塁打に関しては沢村から打った太平洋ホームランが有名とはいえ、、実働4年で通算25本しかありませんが、当時のボールの粗悪さは今では想像すらつかないものがあり、本当に飛ばないボールを、それも沢村の決め球である三段ドロップを場外まで運んだ一撃は球界を震撼させたのでした。もう一つ言えば、洲崎球場の詳細はわかりませんが、阪神の今も変わらぬ根拠地である甲子園ですが、今よりもグランドは遥かに広く、外野だけで余裕でラグビーが出来たとも伝えられ、この辺も本塁打王にはなれなかった原因かもしれません。

草創期のプロ野球は阪神景浦、巨人沢村の2枚看板が人気を支えたと言ってよく、優勝も'36こそ沢村の奮闘で巨人が優勝しとはいえ、続く'37、'38と阪神が連破を飾っています。連覇の原動力はエースで四番の景浦の働きが大きかった事は言うまでもありません。景浦もまた戦争の犠牲者でした。'40には兵役となり、'43にもう一回グランドに帰ってきますが、2回目の兵役の'45フィリピン戦線のカラングラン島で餓死したとも伝えられています。この時29歳、沢村同様幾多の伝説と無限の可能性を秘めた伝説の名選手は戦後のグランドに立つ事は無かったのです。

なぜに阪神は景浦を永久欠番にしないのでしょう。彼こそ後の阪神カラーの典型を為したとも言えます。模範と言い換えた方がより良いでしょうし、理想と言っても言い過ぎではないかと思います。藤村富美男を初代ミスタータイガースとしていますが、元祖ミスタータイガースは景浦です。確かに通算成績、実働期間は戦争のために短かったですが、巨人が沢村を伝説の投手として14番を永久欠番にして讃えているように、阪神も景浦を讃えて何の不思議もありません。と言うかしてないのは阪神の失態と断言できます。まあ阪神は失態の多い球団ですからこれもやむを得ないとはいえ、本当に残念です。

ミスタータイガース

藤村富美男 村山実 田淵幸一 掛布雅之
初代藤村富美男 二代村山実 三代田淵幸一 四代掛布雅之
ミスター・タイガースも初代、二代は永久欠番となったが以後は遠いものになっている。

私は阪神ファンなのでこの辺はお許しください。ミスタータイガースと呼ばれた人間は初代藤村富美男、二代村山実、三代田淵幸一、四代掛布雅之とされます。田淵を入れるか入れないかでやや議論はあるところかもしれませんが、ここでは入れます。このうち藤村の10番、村山の11番は永久欠番です。阪神ファンとしても異存はありません。三代目の田淵はトレードされたことや、残した成績がやや見劣りする点から永久欠番にならなかったのもまあまあ理解できます。ただし掛布は入れても良いような気が今でもしています。

掛布が活躍した時代は阪神にとっても辛い時代でした。徐々に戦力が低下し、優勝争いから年毎に遠ざかる事をやむなくされていた時代です。戦力低下の原因はおいておくとして、その中で阪神を支えた掛布のバッティングをもう少し高く評価しても良いんじゃないかと思っています。当時の阪神の人気を一身に背負っていたのは間違いなく掛布でしたし、弱体化する攻撃陣の中で一人光っていたのも掛布です。残した成績も立派なもので、本塁打王3回、打点王1回、ゴールデングラブ賞6回と一流の成績と、何よりファンに強烈な記憶を残しています。

掛布が永久欠番の対象にならなかった原因は幾つか推測できます。掛布にとっても最高の舞台であった'85の優勝ですが、たしかに阪神の4番に座り、3割40本塁打と目覚しい活躍をしたはずなんですが、この年には3番にプロ野球史上最高の助っ人と今でも呼ばれるバースがいました。バースは3冠王を占め、MVPもまた文句無く受賞しています。バックスクリーン3連発の伝説にも参加していますが、やはりバースの影に隠れている印象は否めません。優勝決定戦の9回の追撃の本塁打などもありましたが、ファンの印象としてはこの年のダイナマイト打線の主役はやはり神様バースであり、掛布はその成績にもかかわらず脇役に甘んじた事は否定できません。

それと引退後の経過を見ると阪神フロントとなんらかの確執があった事は容易に推測がつきます。掛布ほどのスターであれば将来の監督候補とされるはずです。掛布が極端な変人であるとかであれば別ですが、実際の手腕は別にして実績、人柄から監督の有力候補になるのが自然です。ところが引退後はさっさと日本テレビの解説者に就任しています。関西の方以外にはややわかり難いかもしれませんが、日本テレビの解説者になると言う事は、阪神と縁を切ると同意義語に近いところがあります。引退後の掛布は監督は愚か、コーチにさえ就任していません。

当然何かあったと見るのが自然です。私はそこまで情報通ではありませんから、推測と憶測だけですが、将来の監督候補として掛布派と岡田派のふたつの考えがあったのではないかと考えます。岡田は一時オリックスの二軍監督などもしましたが、ほぼ一貫して阪神の監督候補として遇されています。ところが掛布は完全に阪神とは縁切り状態となっており、監督候補の名前にも全く上がってきません。深い事情は知るべしもありませんが、ファンの印象として掛布は阪神伝統のお家騒動の種にもならず比較的爽やかな印象があっただけに、よほどの確執が引退前にあった事は確実です。

どうもその辺が4代目ミスタータイガースの31番を永久欠番にする事を拒んだ気がします。拒んだだけではありません。掛布程のスターであれば引退後も永久欠番にならずとも、その背番号を引き継ぐものにはかなりの配慮をするのが普通です。ところが栄光の31番はごく普通の背番号としてポンポン流用されています。この辺にも掛布と阪神球団の溝の深さをうかがい知る事が出来ます。いろんな事情があるのでしょうが、たんなるファンとしてはつまらぬ確執を超えて、偉大な選手である掛布の31番を今からでも永久欠番にして欲しいと願って止みません。

勇者の伝説

山田久志 福本豊
山田久志 福本豊
無敵阪急を象徴する両選手。永久欠番を打診された福本も、その資格を十分有していた山田も、阪急が消滅してしまい、もう永遠に永久欠番選手に名を連ねる事は無い。

阪急ブレーブスは本当に強かった。憎たらしいぐらい強いとの表現は、当時この阪急と横綱北の湖に用いられ、まさしく文字通りの掛け値なしの内容、実績を残しています。阪急黄金時代を支えた勇者たちは数え上げるとキリがないのですが、その中でも強いてあげれば三冠王のブーマー、盗塁王の福本豊、そして大黒柱山田久志ではないでしょうか。

このうち福本は実際に通算盗塁世界記録を達成した時に永久欠番を打診されています。ところがまだ現役であった事もあってその時は固辞し、その後阪急がオリックスに身売りされて話はウヤムヤになった経緯があるそうです。オリックスは前身球団の阪急をトコトン無視する球団ですが、それでも福本の7番は選手たちにとっては途轍もない重さがあるようで、田口壮やイチローも打診はされたそうですが固辞したエピソードが残っています。今は普通に使われているようです。

一方で山田は不思議です。阪急黄金時代を支えた名投手は数多くいます。その中でも一番強い時期にエースとして支え、常に安定した成績を残しているのが山田です。阪急のエースといえばやはり山田久志以外はないと言ってよいと思います。通算成績は284勝(歴代7位)166敗43セーブ、防御率3.18、2058奪三振、最多勝3回、最優秀防御率2回、最高勝率4回、シーズンMVP3回。さらに12年連続開幕投手、17年連続2桁勝利は山田の活躍が瞬間燃焼型ではなく、長期に安定していた証明でもあります。また永久欠番認定のためにしばしば障害となる移籍やトレードも無く、阪急一筋の現役生活でもあります。これほど条件がそろっていて永久欠番にならなかったのは首を傾げざるを得ません。

強いて言えば山田は大舞台にやや弱かったのが難点かもしれません。日本シリーズでも1度MVPはありますが、通算では負け越し、地味であったパ・リーグの選手に唯一スポットライトが当たる日本シリーズでの活躍に、見る物が少なかったのは存在感を薄めさせているような気はします。それとこれが真の原因であったと思うのですが、山田の引退は'88。この年は10.19のあった年としても有名ですが、パ・リーグの老舗球団であった南海と阪急が身売りされた年であります。阪急の身売りが発表されたのは運命の10.19と同日。この日はレギュラーシーズンの最終日でもあったわけですから、山田の引退発表は身売り発表の前であったはずです。山田の引退発表後に身売り発表があると言っても、身売りの水面下の交渉はそのはるか以前から進んでいたはずであり、山田の引退発表時点では身売りは確定状態であったはずなんです。

さらに考えると阪急球団が身売りを決意したのはもっと前であるはずです。相手がオリックスに決定したのはもう少し遅かったかもしれませんが、少なくとも'88シーズン前には身売り相手を探し始めていた可能性があります。身売りする予定であったがゆえに大投手山田の17番を永久欠番にするも何も、関心が失われていたと考えます。永久欠番を打診されていた盗塁王福本豊の引退もまた'88であり、身売り時点で永久欠番話は立ち消えになったと考えます。

西本阪急時代からの勇者の生き残りであり、西本子飼いの最後の勇者たちは永久欠番に相応しい活躍と実績を残しながら、それを顕彰する機会はついに与えられなかったのです。

はぐれ狼

江夏豊 落合博満
江夏豊と落合博満。プロ野球界でも屈指の個性派であり、群れを作らない一匹狼が魅力の名選手であった。江夏は記憶に残る快投を、落合は記録に残る打棒を振るった。

日本はアメリカに較べるとトレードや移籍に負の印象を与える事が多いようです。不要な選手の整理と見られる傾向があると言えば言いすぎでしょうか。そんな風潮の中でドライに移籍を繰り返し、また移籍先の球団でしっかり足跡を残した大選手がいます。アメリカはその点おおらかで、複数の球団で違う背番号で永久欠番なんて選手もいます。日本もそういう点は見習っても良いんじゃないでしょうか。

日本でまず思い浮かぶのは「優勝請負人」とまで呼ばれた江夏豊です。江夏の阪神時代の活躍は未だにファンは忘れていません。ファンは今でも江夏は阪神OBであると考えています。先発としては行き詰った江夏ですが、南海でリリーフとして再生されます。そこから広島では「江夏の21球」伝説を生み、日本ハムでは球団唯一の優勝をもたらしています。

阪神なら28番、広島、日本ハムなら26番を永久欠番にしてくれないかと常に考えています。実績も206勝158敗193セーブ210セーブポイントなら十分ですし、なによりファンに与えたインパクトは凄いものがあります。阪神時代の快刀乱麻のピッチング、リリーフに転向してからの貫禄十分のマウンド姿、あの江夏が永久欠番のリストに無いのは本当に寂しいです。

もう一人は落合博満。2年連続を含む3度の三冠王を獲得した大打者です。この記録に並ぶ打者が今後も出現するかどうかは疑問です。落合もまた球団を渡り歩いています。中日でも主砲として優勝に貢献し、巨人でもまた主砲として4番に座っています。たしかに「オレ流」と呼ばれた個性は際立っていましたし、時に問題児視されましたが、その答えをバットで示した生き方は日本の風土の中では馴染めないものがあるかもしれませんが、三冠王3度のロッテ、主砲として優勝をもたらした中日、巨人は是非栄光の6番を永久欠番に考えて欲しいと思います。

守備

吉田義男は「牛若丸」と呼ばれた華麗な守備で永久欠番に名を連ねる貴重な存在である。

守備の名手として永久欠番に名を連ねているのは吉田義男ひとりです。「牛若丸」とまで称された吉田は他の追随を許さず、「華麗なるフィールディング」と呼ばれた広岡達朗をして、一度も吉田を抜く事が出来なかった事でも証明されています。さすがに私でも吉田を知っているのは監督時代のみで、時代的にもそんなに記録映像が残されている訳でもないのですが、今もって吉田の守備があれほど讃えられるのは、時代を超越した凄みがったであろうぐらいで想像しています。

守備と言えば要となる捕手が一人もいません。捕手こそ投手をリードし、グラウンドの統率者として、その優劣はチーム力を直接左右するほどの重要なポジションですが、誰も永久欠番に名を連ねていません。日本ではそんなに捕手がいなかったんでしょうか。たしかに地味なポジションで、縁の下の力持ち的な性格があり、自分が目立つと言うより、投手以下、他の選手を引き立たせるのが役割とはいえ、あまりに寂しいとは思います。

ただしその地味な性格のためかパッと浮かんでくる選手は案外少ないのも間違いありません。強いてあげれば「ささやき戦術」で有名な野村克也。野村の場合は守備も優れていましたが、その打撃も桁外れなものがあり、さらに監督になってからも実績を残していますので、十分資格はあるはずです。しかし古巣南海は石もて追われた経緯がある上に南海自体も消滅、野村を永久欠番にするのにふさわしい球団がありません。

次に浮かんでくるのは巨人の9連覇を支えた森祗昌。一部には野村より高く評価する声のある名手ですが、同時期に長嶋、王の超スーパースターが君臨しており、野村が「俺は月見草」とボヤいたように、王、長嶋のまぶしすぎる光の前に、完全に影に隠されてしまった観があります。他にも西武黄金時代を支えた伊藤勤も捕手としては候補に挙がるでしょうが、「永久欠番に」の声は全くないといってよいかもしれません。

ヤクルトの古田敦も掛け値なしの名捕手ですが、選手としてのプレーだけでは永久欠番にやや足りないような印象です。守備の永久欠番である吉田も'85の優勝とあわせ技で永久欠番となった事を思えば、古田も今後の監督活動次第でヤクルト初の永久欠番の声がかかる可能性はあります。ただしヤクルト初となれば、「小さな大打者」若松勉との兼ね合いが発生するためなかなか難しいかもしれません。

監督

川上哲治 西本幸雄 仰木彬
川上哲治 西本幸雄 仰木彬
この3人以外にも「親分」鶴岡一人(南海)、「元祖魔術師」三原脩(西鉄、大洋)、「伊予の古狸」藤本定義(巨人、阪神)、「ダンディ」水原茂(巨人、東映)、森祗昌(西武)、野村克也(南海、ヤクルト)らが監督の永久欠番候補には挙げても良いかもしれない。

日本ではありませんがアメリカでは監督もまた永久欠番として讃えられています。ジョン・マグローやスパーキー・アンダーソン、ケーシーステンゲル、トム・ラソーダなどが日本でも名が通っていますが、全部で19人を数えます。日本では永久欠番に値するほどの名監督、大監督はいないと言うのでしょうか。日本にだって大監督、名監督はいます。

筆頭は阪神ファンとしては悔しいですが川上哲治である事は論を待ちません。川上は選手としても超一流で、「弾丸ライナー」「赤バット」の異名を残し、「ボールが止まって見える」の名言もまた残しています。巨人の不動の4番として活躍し、その背番号である16番は文句なしの永久欠番です。川上がそのまま16番をつけて監督をしていれば監督の永久欠番論議は出さないのですが、監督になってからの川上の背番号は77番です。

川上の成績は歴代プロ野球監督の中で頭抜けています。監督14年で優勝11回、日本一が同じく11回、その中には不滅の金字塔である9連覇が含まれます。これに辛うじて肩を並べるのは、優勝回数では南海を20年間率いた「親分」鶴岡一人ですし、、連覇は次に続くものとして森祗昌が全盛の西武を率いての5連覇がやっとです。これほどの成績を残す監督が二度と出るとは思えません。優勝11回もすごいですが、9連覇となるともう二度と近づく事も不可能な記録と言っても良いと思います。

であれば選手時代の16番に加えて監督時代の77番も永久欠番にしても決して過剰な顕彰ではないと思います。

もう一人強いてあげると「悲運の闘将」西本幸雄です。西本の功績は川上と別の意味で偉大です。灰色阪急もお荷物近鉄も西本が熱血と鉄拳で優勝させたのです。西本がいなければ阪急黄金時代ありえず、近鉄になると優勝さえありえたかどうか分かりません。これほどの業績であれば十分すぎるほどに永久欠番の資格はあるんじゃないかと思います。ただ南海の鶴岡も同様なんですが、西本も自らが率い優勝させた球団が消滅しています。毎日オリオンズ、阪急ブレーブス、近鉄バファローズ。球団無き今となっては永久欠番もまた夢としか言い様が無いかもしれません。そういうところもまた悲運の色彩をより色濃くしているのは川上と対照的といえるかもしれません。

それとこれは別枠ですがオリックスも仰木彬を永久欠番にしておけば良いのにと他人事ながら思ってしまいます。オリックスに優勝をもたらした監督は仰木だけですし、最後の監督もオリックスが頼み込み、成績は4位でしたがその手腕は感嘆すべきものがありました。またオリックスの無理な願いを聞いたがゆえにその寿命を確実にすり減らしています。近鉄との合併の絆の象徴として、旧両球団の優勝監督である仰木を永久欠番として顕彰するのは、ケチックスとして評判の悪い球団のイメージアップにどれだけ貢献するかわからないのですが。

番外編

サチェル・ペイジ
リーロイ・バレル”サチェル”ペイジ
彼こそが史上最高の投手であり、彼をエベレストに例えると、サイ・ヤングで富士山ぐらい、その他の超一流投手で六甲山ぐらいの差がある。

メジャーの永久欠番は質量ともに多彩です。監督だけでも19人。ヤンキースだけでも17人、複数球団で永久欠番になった選手や、一つの背番号に複数の選手が永久欠番として残されているのもあります。20世紀の初頭の選手で背番号がない時代の選手なんかも含まれています。もっと凄いのはジャッキー・ロビンソンの全球団共通永久欠番の「42」です。道理で日本に来るアメリカ人選手が日本で42を好んでつけるかの謎が分かるような気がします。

ジャッキー・ロビンソンは黒人初のメジャーリーガーであり、そのパイオニアとしての偉業を讃えたものである事は言うまでもありません。今ではどの球団にも普通に主力選手として活躍する黒人選手へのメジャーへの門戸を切り開いた偉大な功績に対してです。いかにもアメリカらしくて良い話であると思います。ついでと言うわけではありませんが、もう一人伝説の名投手、名投手というより大投手、大投手でもまだ言い足り無すぎるので「稀代の超人投手」であるサチェル・ペイジも加えても良いんじゃないかと密かに思っています。

日本にも沢村賞がありますが、アメリカにもサイ・ヤング賞があります。サイ・ヤングは実働22年、906試合7356イニングを投げて511勝316敗、完投749試合(うち完封75試合)、奪三振数2803。通算防御率2.63の記録を残した大投手です。サイ・ヤング賞ができるぐらいですから、彼こそ日本の沢村に匹敵する伝説のNo.1投手かと言えば、そうとは言えないとされています。サイ・ヤングの記録だけでも十分とんでもない記録なんですが、サチェル・ペイジとなるとサイ・ヤングの記録と並べても桁が違います。

これから並べる数字をにわかに信用できないのは私も同じ思いですが、それなりの部分は裏づけの検証が行なわれており、それなりの信憑性がある数字とされます。登板試合数2600、勝利数2000、奪三振3万個、完封試合300、完全試合55回。これが一人の投手の記録です。またよく酷使という表現が投手には使われます。日本の代表的な酷使投手は「鉄腕」稲尾です。稲尾が最も酷使されたのは'61であり、'05に阪神の藤川に更新されるまで最多試合登板78試合として残されています。投球イニング404、先発30試合、完投25(うち完封7)、連投26試合、中1日12試合、中2日22試合で日本記録のシーズン42勝14敗をマークしています。まさに酷使なんですが、ペイジとなると想像を絶する酷使となります。'34のシーズン成績が完全に調べ上げられていまして、登板試合105、104勝の記録を残しています。

当時のアメリカ野球ではローテーションと言う発想はまだまだ導入されておらず、投手は調子がよければドンドン投げるシステムであったそうです。またペイジが所属した黒人大リーグでは完全なスターシステムの投手起用であり、ペイジが投げる事で観客を集めていたので、ほぼ連日のように先発完投するのは当たり前であったようです。投げると言ってもダブルヘッダー、トリプルヘッダーなんてのもいくらでもあり、ペイジがそのすべてを投げるのまた珍しくも無く、普通の事であったと伝えられます。

想像すら絶する登板数ですが、ペイジはこれを平然と投げぬき、まったく衰えを知らない快投を続けることになります。その抜群の実力はペイジが本気で投げた投球を打ち返させるものは誰もいないと言われ、その実力を年間100試合以上も持続し、さらに数十年にわたって保つ事が出来た超人です。ペイジのよくやったショウに、9回の裏にわざと四球で無死満塁にし、そのうえ野手を全員ベンチに下がらせ、ペイジと捕手だけで対決すると言うのがあったそうです。そこでも必ず残りの打者を余裕で三者三振切って取れたと言うから実力の凄さは身震いするほどです。

ジャッキー・ロビンソンがメジャーの門戸を開け放つまで、黒人選手は黒人リーグで活躍するしかなかった時代です。それでも白人メジャー選手と対決する機会はありました。オフシーズンに白人オールスターチームと黒人オールスターチームの対抗戦がよく組まれたそうです。当時の選手には良い副業であったようで、有名選手が多数参加しています。選手主催ですので、興行の収入は今よりはるかに年棒の安かった選手には貴重なもので、白人チームと黒人チームで勝ち負けで分配が大きく変わるシステムだったのでどの選手も目の色を変えてやったと言われています。

もちろんペイジは常に黒人チームのエースです。実際にペイジと対決した白人選手のコメントが断片的に残っています。ベーブ・ルースもチャーリー・ゲリンジャーも誰もペイジを打つことが出来なかったと証言しています。その球速は、当時の白人メジャーの代表的速球投手で、「火の玉」とまであだ名されたボブ・フェラーと較べても、「フェラーの珠がチェンジアップのように見えた」との証言も残されています。

ペイジも晩年の'48になってようやくメジャーに参加が許されています。年齢は諸説ありますが一番有力な説でなんと52歳。56歳の時に12勝10敗の成績を残してメジャーから一度去りますが、12年後の'65に68歳になったペイジはメジャーに再び復活しなんと先発をします。3回を投げて被安打1、奪三振1、無失点に抑える投球を見せる事になります。球場は伝説の老雄ペイジの投球に感動し全米中のトップニュースとして駆け巡ったと言われます。

ベーブ・ルースやゲリンジャー、チャーリー・フォックスを手玉に取ったペイジが、ピート・ローズやハンク・アーロンと同じリーグの舞台に立ったのです。70歳になってもメジャーで十分通用するのであれば全盛時の実力は想像すら出来ないものがあり、年間100勝、通算2000勝も夢物語ではないと思います。残念ながら全盛時の活躍は黒人大リーグであったがゆえに歴史の闇に埋まり、現代でもなお地方新聞の縮刷版の片隅から発掘されつつありますが、全貌解明にはどれだけかかるか、果たしてそれが可能なのかはわかりませんが、アメリカならこの「稀代の超人投手」を永久欠番の一角に刻み込んでも許されると思うのですが。

エピローグ 〜忘れられた永久欠番〜

書き出してから少し後悔しています。本当にきりがない。広島黄金時代を支え、広島一筋で200勝を挙げた北別府学、「元祖魔術師」三原脩、神様バース、ブーマー、スタンカ、バッキーなどなどまだまだ幾らでもいます。その中で永久欠番となる条件とは何でしょう。永久欠番として顕彰されるには成績だけでは必ずしもないようです。ここに忘れられた一つの永久欠番伝説があります。

あらためて書き記しますが、日本のプレイヤーの永久欠番選手は年代順では下記の通りです。

選手名 背番号 球団名 登録年月日
沢村栄治 14 巨人 1947.7.19
黒澤俊夫 4 巨人 1947.7.19
藤村富美男 10 阪神 1958.11.30
西沢道夫 15 中日 1959.3.20
服部受弘 10 中日 1960.3.20
川上哲治 16 巨人 1965.1.18
金田正一 34 巨人 1970.4.2
村山実 11 阪神 1972.11.2
長嶋茂雄 3 巨人 1974.11.21
山本浩二 8 広島 1986.10.27
衣笠祥雄 3 広島 1987.9.21
吉田義男 23 阪神 1987.10.13
王貞治 1 巨人 1989.3.16

冒頭にいずれ劣らぬ大選手と書きましたが、一人だけ成績も活躍も欠番理由もよくわからない選手がいます。正直言いますが中日の永久欠番である服部受弘もよく知らないのですが、この選手は調べれば中日球団史に残る大選手であることは容易に確認できます。西沢道夫もまたそうなんですが、これも業績は調べればすぐわかります。他の選手であれば顔まである程度浮かんできます。ところが沢村と並んで、第1号の永久欠番顕彰選手である巨人の永久欠番4番を刻む黒澤俊夫選手がまったくわからないのです。永久欠番選手の中で謎の選手であると言えます。

私が知っている範囲では、4番をつけていた黒澤がシーズン中に腸チフスで急死したため、「4は死に通じ縁起が悪い」ので永久欠番になったとの話が伝えられています。日本人にとって4という数字はたしかにあまり縁起の良い数字とはされていませんが、それだけの事で、沢村と並んで永久欠番に名前まで含めて刻み込むのはよく考えると不可解です。「縁起が悪いだけ」であれば単に欠番として誰もこれをつけないの不文律を作ればよいだけであり、選手名まで麗々しく挙げる必要はさらさらないはずです。やはりそれ以外に沢村と並び称するぐらいの活躍、実績があったと考えるのが妥当だと考えます

私も含めて大多数の人が黒澤の名を知っているのは、プロ野球通として彼が永久欠番に名を連ねているだけしかありません。左打ちの主力選手でレギュラーで外野手であった事は間違いありませんが、まったくと言ってよいほどイメージが湧いてこない選手です。50年以上も前に活躍した選手なので、中日の服部や西沢なみに知らなくても不思議はないのですが、巨人の主力選手であり、沢村と並んで永久欠番になったぐらいですから、それなりの偉大な活躍をしていてるはずなんですが、これが容易にはわかりません。巨人のHPを見ても他の永久欠番選手たちの記録やコラムは詳しく掲載されていますが、黒澤については通算成績と背番号が永久欠番になった事以外は書いてありません。ついでに言うと探し回りましたが、ついに写真は見つかりませんでした。

成績だけはさすがにプロ野球、さがしたら出てきましたので記します。

年度 所属 試合 打数 安打 本塁打 打点 盗塁 四死球 三振 併殺打 打率 長打率 失策
'36春夏 金鯱 12 48 15 0 5 3 9 3 0 .313 .375 2
'36秋 金鯱 25 89 22 0 7 4 20 14 0 .247 .281 1
'37春 金鯱 56 200 59 1 16 17 51 15 0 .295 .365 2
'37秋 金鯱 48 165 46 2 26 15 34 12 0 .279 .436 4
'40 金鯱 53 191 43 1 28 2 27 13 0 .225 .272 4
'41 大洋 40 147 29 0 5 3 17 12 0 .197 .224 1
'43 西鉄 84 306 58 0 32 4 42 20 0 .190 .235 2
'44 巨人 35 135 47 0 17 14 24 7 0 .348 .452 2
'46 巨人 105 393 121 3 60 18 70 31 0 .308 .392 5
'47 巨人 26 95 19 0 5 0 11 8 0 .200 .232 0
通算 484 1769 459 7 201 80 305 135 0 .259 .329 23

これを見てまず驚くのは黒澤が巨人の生え抜きでない事。生え抜きで無いばかりではなく、巨人在籍期間が'44〜'47の4年間しかないのです。4年間と言っても'44は戦争の影響によりたった35試合しか行なわれず、'45となるとリーグも中止されています。最後の'47もシーズン中の急死のため26試合しか出場していません。黒澤の通算成績は表の通りですが、巨人在籍期間中の通算成績は166試合に出場、623打席で打率.300、打点82、本塁打3、盗塁32となっています。

残された成績からしか黒澤の活躍を推測するしかないのですが、'37は活躍し春季リーグでは打撃成績3位になっています。ところが'38、'39は記録に無いところを見ると当時の常識として兵役だったと考えるべしでしょう。'40はリーグ戦が104試合、'41は87試合あったにもかかわらず出場試合が半分程度の留まっているのは、兵役の影響で不振であったかもしれませんし、'40なかばに兵役から復帰し、'41半ばから再び兵役であったかもしれません。'42もまた記録が無いのでおそらく兵役、'43に復帰していますがこの年打率わずかに.190です。これだけの低打率でも全試合出場しているのは選手不足が深刻であったためとも推測されます。

'44に巨人に移籍していますが、これがなんと巨人への移籍第1号選手であったとされます。当時の詳細な事情は断片的にしか分からないのですが、どの球団も兵役にゴッソリ主力選手を取られ、戦力不足を通り越して、チームが組めないほどの状況に陥っていたとされます。リーグを維持するために比較的選手が残っているチームから供出選手として他のチームへ選手を送り出して、リーグ参加チームを確保しようとした経緯があったようです。

黒澤もその一人であったようですが、前年度の成績を見る限りでは供出した西鉄も主力を身を裂くように譲り渡した訳ではなく、比較的不要の選手を譲渡したと考える方が妥当です。移籍した黒澤は背番号4を与えられますが、これも一説には「当時の背番号を決める時の慣習に打順で決めると言うのがあり、黒澤は四番打者であることを期待され、そのときに空き番であったので4番になった」とありますが、前年度の打率.190、本塁打0本の打者にいくら選手不足が深刻であったとはいえ、そこまでの期待を懸けるかはやや疑問です。ただし選手不足は本当に深刻であったらしく、この時巨人のエースであった藤本英雄は投手として投げない日には外野手として14試合も出場していますし、'43の打撃成績10位が打率.229しかなかった事を思うと、移籍してきた黒澤に「四番の活躍をしてくれ」との願望ぐらいは込められた可能性はあります。

川上も青田昇も千葉茂もいない、誰も残っていない巨人の期待を背負って黒澤は活躍します。この年の黒澤は生涯最高の打率.348、また打点17の成績を残し、打撃成績は2位、打点も同じく2位、盗塁もたったの35試合で14個を数え四番打者の責任を立派に果たす事になります。'46は巨人の不動の四番川上が復帰しますが、川上の出場試合がリーグ106試合中70試合しかなかった事を考えると、この年も打率.308(打撃成績8位)、打点60の黒澤の打棒が巨人を支えた事は十分推測されます。どれほどの人間が黒澤の活躍を実際に見たか、そんな人間がどれほどこの世に存在しているかはわかりませんが、戦中最後のシーズンと戦後最初のシーズンは黒澤が巨人の主力打者として間違いなく君臨していた事だけはわかります。また黒澤は巨人に移籍するまでは平凡なレギュラー選手クラスでしたが、移籍後人が変わったように猛打を振るっています。もちろん主力選手が兵役でいなくなってリーグのレベルが落ちていた事を差し引いてもです。

ところで'47に巨人はメジャーにならって永久欠番制度を作る事にしました。とは言うものの球団が出来て10年余りであり、この時念頭にあったのは当時でさえ伝説になりつつあった沢村栄治の栄誉を讃えようと考えていたに違いありません。他の主力選手たち、川上や青田昇、千葉茂、藤本英雄などは幸いにも戦火を生き残り、他に有力候補としては捕手の吉村正喜がいるぐらいです。沢村が永久欠番となり、吉村がならなかった理由は今となってはよくわかりませんが、永久欠番制度第1号に沢村がまず内定しました。きわめて妥当な選択と言えます。

そんな中、黒澤は急死します。死の間際の黒澤はこう言い残したとされます。

「私が死んだら、死体に巨人軍のユニフォームを着せて欲しい、巨人軍の一員のままで死にたい。」

黒澤が亡くなったのが6月23日。数日中に異例の事ながら球団葬が行なわれています。この時に選手たちは黒澤の遺言を聞き、黒澤の活躍を偲んだはずです。また主力選手を兵役に取られ、戦力が払底した中で巨人支えてくれた事に強い感謝の念が沸き起こったに違いありません。また黒澤は巨人への移籍1号選手なんですが、復員した巨人の主力選手にとっては、外様だとか他所の球団の選手という意識は全く無く、「よくぞ苦しい時期の巨人を助けてくれた」との思いしか存在しなかったようです。それも助っ人なんてものではなく、舞い降りてくれた救世主としか思えなかったのです。意を決した主将の千葉茂が選手を代表して球団に異例の申し込みをする事になります。

「黒澤選手の4番を永久欠番にして欲しい。彼は巨人軍の危機を救ってくれた。欠番にする事で功績を後世に残したい」

黒澤の巨人での活躍時期は実働で2年少々。葬儀直後と言う事情があったにせよ、巨人もこの異例の申し出を受け入れる事になります。もちろん戦中戦後の苦しさ、大変さは実際に体験しないと分からないものであり、決して情緒にのみ流されてのものでなかったはずです。さらにそれだけの人望を一身に集めるだけの物が黒澤にあった事だけはわかります。

かくしてプロ野球第1号の永久欠番選手は「不世出の大投手」沢村栄治の14番と、黒澤俊夫の4番が刻まれる事になります。時に1947年7月4日、沢村とともに巨人が続く限りこの永久欠番は残ります。しかし沢村の天才伝説は語り継がれても、黒澤の救世主伝説は球史の中に埋もれてしまうのは全く持って残念な事としか言い様がありません。私も知らなかった事を恥じます。ささやかながらこのエピローグで紹介し、一人でも多くの人に、永久欠番制度発足時に沢村の天才伝説に匹敵すると認めた黒澤の救世主伝説を知って欲しいと思います。