アンダースローへの哀歌

アンダースローの投手が少なくなりました。もちろんプロの現役のエース級の投手としてロッテの渡辺俊介投手がいます。残念ながらまだテレビですら見た事がありませんが、話に聞く限り素晴らしいアンダースローだそうです。渡辺投手の活躍は日本でもアンダースロー投法が滅んでいない証拠ではありますが、見回せば現在の球界でアンダースローを駆使するのは彼一人だそうです。そう言えば我らが阪神はヤクルトの高津には散々苦しめられましたが、彼がメジャーに去った瞬間、セ・リーグのアンダースローの歴史が途絶えた事になります。

投手の投法はおおまかに分類して真っ向上段から投げ下ろすオーバースロー、やや斜めに腕を下げるスリークォーター、ほぼ真横から繰り出すサイドハンド、そしてアンダースローです。最近の投手はほとんどがオーバースローかスリークォーターで、サイドハンドさえ少なくなっています。人間の体型からして素直に考えてオーバースローかスリークォーターが一番投げやすそうなのは確かですし、一番華々しそうに見えるのは確かですが、球史に残る名投手、大投手を輩出したアンダースローの投手がいなくなるのは個人的には寂しい限りです。

投げ方の見た目から変則投手として昨今では見られてしまうかもしれませんが、百年以上の歴史をもつ由緒ある投法について今回は触れたいと思います。

起源

Babe Ruth
ベーブ・ルース
ボストン・レッドソックス時代は投手としても活躍し、94勝46敗、防御率2.28の成績を残している。

日本でも絶滅しそうなアンダースローですがアメリカではもっと早くに絶滅しています。日本で山田久志や足立光宏が健在で、各球団にもまだまだアンダースロー投手が勢力を残している頃には、「アメリカにはアンダースローピッチャーはいない」と言われ、「アンダースローは腰高のアメリカ人にはあわないんだ」とし、「この投法自体が日本人の発明だ」とまで言われた事があります。そのため南海の武末悉昌投手が兵役で肩を痛め、それを補うために編み出された投法なんて伝説が実しやかにささやかれたりもしています。

日本人が発明した投法なんて話は真っ赤な嘘です。この投法は19世紀以前から存在し、そこ頃のメジャーではごくスタンダードの投法であった事は明らかです。本塁打王として一世を風靡したベーブ・ルースが投手をしていた事は有名ですが、彼も投手時代はアンダースロー投法を駆使しており、その投球ホームが記録フイルムに残されています。これだけの事実でアンダースロー日本人は発明説はごく簡単に否定できます。つまりアンダースロー投法の歴史は野球が生まれた頃から始まり、オーバースローやサイドハンドが誰に発明されたか分からないのと同様に、昔から当たり前に存在し、それを駆使する投手が他の投法と同様に普通に存在していた事が分かります。

起源となるともう神話の彼方ですので、もう推理するしかありません。まずアメリカの野球の歴史を紐解くと19世紀と20世紀で区別されている事が分かります。20世紀の初頭に混在していたルールが整理統一され、ほぼ現在に近い野球となったからです。そのためメジャーでも20世紀以降の記録は現在の記録と同様に扱いますが、それ以前はルールが違いすぎて比較できないと参考記録扱いとなっています。

非常に断片的な知識で申し訳ありませんが、本当に初期の野球は単なる打撃戦であったようです。つまり打者が打つことにより展開する野球で、投手は打者に打たせるのが前提であったようです。卑近な話で申し訳ありませんが、子供の時にソフトボールをしたとき、打者はスイングしてストライクを3つ取られるまで打つようなルールでやってました。ボールは投手のコントロールの関係もあっていくつでもOKだったのです。アメリカでもナインボールなんて時代もありましたし、もっとすごいのは打者が高さを指示して「このあたりに投球しろ」なんてのもあったそうです。ひょっとすると私の子供の時ではありませんが、打者が空振りするか、前へ飛ばすまで投手は投げ続けるルールもあったかもしれません。

打者が打たないとゲームが進まないルールなら、投手に速球や変化球は不必要で、それこそソフトボールのスローピッチみたいな状態の野球だった可能性があります。打たせるだけならオーバーハンドで投げ込むよりも、スローピッチのソフトボールの投げ方のようにフワッとした投球をするほうが相応しいからです。つまり19世紀の初期の野球ではソフトボールのような純下手投げが投法の主流であった可能性があるのです。ところが同じ打たせるでも、少しでも打球の勢いを殺せれば守備側に試合は有利に進みます。また打たせるよりも空振り三振に終わったほうが守備側はもっと有利です。そのために投手は速球を投げる必然性が出てきたのではないかと考えます。野球が単なる打撃戦から守備も重きに置いた競技に進化したと言う考えかたです。

ソフトボールの投げ方でもかなりの速球が投げられる事は五輪の女子ソフトを見れば明らかです。しかしソフトの純下手投げと野球のアンダースローでは威力が違います。すなわち野球の投法の進化は純下手投げからアンダースローに進化したという可能性を考えます。純下手投げからフワッした投球を打ちにくい速球に変化させるための進化です。アンダースロー投法は一般に速球を投げるのには不利で、変化球中心の技巧派の投手のイメージがありますが、必ずしもそうとは言い切れず、ある程度の水準まではオーバーハンドの投手と変わらない威力の球が投げられます。150kmとか160kmのレベルの話になるとアンダースローでは無理かもしれませんが、140kmぐらいまでなら十分可能な範囲です。

当時の速球のレベルは分かりませんが、今のように140km程度は当たり前の時代でなかったことだけは確かです。戦前戦後の時期に大活躍した若林忠志と言う名投手がいます。「七色の変化球」を操ると言われた若林ですが、ストレートは120km程度であったと言われています。19世紀のアメリカ野球の速球も同程度であった可能性が高く、そのレベルの速球であればアンダースローでも十分可能です。

つまり19世紀のアメリカでは純下手投げのフワッとした投げ方が投手の常識の時代があり、それが守備を重視するような野球に進化する過渡期に、速球を投げる必要性から純下手投げを変形させたアンダースロー投法が編み出され、この投法が当時の守備側の要求を満たす水準の威力があったため、スタンダードな投法として定着したと言うのが起源ではなかったかと思います。オーバースローのほうが力学的に有利で投げやすいので徐々に主体は変わって行ったにせよ、19世紀から20世紀初頭になっても「投手はもともとアンダースローから始まった」との常識が野球をするものにはあり、投げれば十分通用する投法でもあったので確立した投法として存在していたと考えます。

そんなアメリカでアンダースロー投法が絶滅したのはある事件がキッカケになっと言われています。ベーブ・ルースやルー・ゲーリックなどそうそうたるメンバーをそろえ、アメリカ野球史上最強のチームに数えられる'20代のニューヨーク・ヤンキースを支えた投手にカール・メイズがいます。彼の通算成績は208勝128敗、防御率2.92を残し、大リーグでも十分名投手としての実績を残している選手です。彼もまたアンダースローでした。

彼が'20のシーズン中のある試合で打者の頭部にデッドボールを与え、相手を死亡させる事件を起します。デッドボールによる死亡事故は当時で初めてのことであり、全米中の非難をメイズは浴びる事になります。過失致死容疑で取調べまで受けましたが、結局彼を罰する事は出来ず、激昂した世論は今度は彼の投法を目の仇にしたそうです。つまり「アンダースローは危険な投法である」と。これが当時の野球を目指すアメリカ人すべてに広がり、投げるものがいなくなり、ついには滅んでしまったという伝説です。

この伝説の真偽はわかりませんが、この頃より以後メジャーでアンダースロー投法で活躍した投手はなく、投法自体も野球歴史教科書の中に忘れ去られていった事だけは確かなようです。たった一球の四球で滅んだ悲劇の投法アンダースロー、なぜか海を渡った日本で再び花が咲く事になります。

日本の起源

沢村栄治
沢村栄治
彼こそアンダースローを日本のプロ野球で初めて投げた元祖かもしれない。

これも真相は良く分かりません。先にあげた武末悉昌説ですが、武末のプロ入団が'49です。この時点にはアンダースローであった事は間違いありませんが、それ以前の投手でアンダースローで投げた投手はいなかったのでしょうか。なんと言っても大昔の話なので、反証する資料を探すのも容易ではないのですが、私の知識の範囲で一人だけ武末選手の前にアンダースローで投げたと記憶している投手がいます。日本プロ野球伝説の大投手沢村栄治です。

沢村の投法は有名です。足を高々と上げ、真っ向上段から投げ下ろす文句なしのオーバースローです。ところが沢村もまた兵役により肩を痛める事になります。沢村は計3度の兵役に従事し、3回目に台湾沖で戦死する事になるのですが、2回目の兵役の後の'43にマウンドに立っています。2度にわたる兵役で肩をすっかり壊していた沢村はもはや腕を上げることさえままならず、やむなくアンダースローで投げたと言う話です。とすれば日本での元祖もまた武末ではなかったと言えるんじゃないでしょうか。

ところで日本の野球はアメリカから伝来しています。1871年に米国人教師H・ウィルソンが開成学校(現在の東京大学)で教えたのが最初だとされています。その後よほど日本人の好みに合っていたのか普及し、1890年頃には東京大学、駒場農学校(駒沢大)、慶応クラブ(慶応大)、白金クラブ(明治学院大)など学生主体のチームが次々と誕生し、さかんに対抗戦が行なわれ、やがてこれが花の六大学に発展していったとされています、

細かな経過を追うのが目的ではないのですが、日本に野球が伝わり広がった年代に注目したいのです。当然アメリカ人が原型を伝えています。彼らは教師として教えていますから、当時の最も正しいと考えられる野球を日本人に教えたはずです。正しいのなかには当時最もスタンダードであるものも伝えようとしたはずです。投球法もまたそうです。教師としての彼らは投法としてオーバースロー、サイドスローなどとならんで、アンダースローもまた伝えたと考えられるのが自然だと思います。アメリカでアンダースロー排斥運動が起こったのが'20のメイズ事件であったとすれば、それ以前のアメリカ人はアンダースローには偏見を持っておらず、さらに19世紀のメジャーではスタンダードな投法であったとすれば伝えない方がむしろ不自然です。

ただし教えられた日本人はかなり面食らったとは思います。オーバースロー(スリークォーターも含む)やサイドスローは見ればわかります。投げ方としてごく自然なものです。ところがアンダースローとなれば日本人にとって前代未聞の投法で、あんな投げ方でどうするんだとビックリしたのではないかと考えます。つまり当時にアンダースロー投法は伝わったが普及しなかった。普及しなかったがアメリカ人の教師が伝えたものとして大事に保存はされていた、と言うのが真相ではないかと思います。

一方で日本中に野球が伝わり中等学校野球が盛んになったのは、体操伝習所で養成された教師が全国各地で野球を教えたためだとされています。体操伝習所の野球の授業でも投法のひとつとしてこの不思議なアンダースロー投法が教えられた可能性があります。なにせ授業で教えるのですから、アメリカ人に伝えられたとおり学んだ事を教え、それを学んだ学生はできるだけそのまま地方の生徒にまた教えたと容易に想像されます。おそらく教えられた教師も学んだ生徒も野球とは不思議な投げ方をするものだと思いながら、一生懸命体を折り曲げて投げる練習をやったのだと思います。

ただしそこまでやって、野球そのものが普及し、熱中され始めても、アンダースロー投法は初期にはやはり広がらなかった。ただしそんな投げ方が世の中にあることぐらいは当時の野球をする人の中には知識としてあったと言うのも想像の範囲としてあっても良いとは思います。

ところで沢村のアンダースローですが、彼は実際にアンダースロー投手をその目で見ていた可能性があります。沢村は巨人のアメリカ遠征に参加しています。この遠征は'35、'36の2回にわたって行なわれています。アメリカでは'20のメイズ事件以降アンダースローは衰退の道を転がり落ちていますが、まだ完全には滅び去っていなかったと考えます。巨人の相手は今で言う1Aからせいぜい3Aまでのマイナークラスが相手です。アメリカにも変わり者がわんさかいますから、メジャーはともかく、マイナーなら(現在でも少数ですが存在します)まだアンダースローで投げる投手が健在でも不思議ありません。

2度の兵役で肩が上がらなくなった沢村が、かつてのアメリカ遠征で見たアンダースローピッチャーを思い出して真似した見た可能性は十分あると思います。残念ながら球威もコントロールも失われた沢村は滅多打ちされ、失意の中、巨人にも解雇され、3回目の召集中に台南沖で戦死する事になります。さすがに沢村以前の記録となると個人の調査の範疇を超えていますのでどうしようもありませんが、もし沢村が日本のプロ野球で初めてアンダースローで投げた投手であるなら、日本でもアンダースロー投法は悲劇の投法の影を伴っているのかもしれません。

パイオニア武末

武末伝説は否定しましたが、日本でアンダースローが普及したのは彼の活躍無しでは語れません。デビューした'49には21勝17敗、最多奪三振の183を奪い新人王に輝いています。実はこの年は戦後初めて巨人が優勝した年なんですが、前年度のオフにライバル南海からエース別所を引き抜くと言う、世に言う「別所引き抜き事件」を起しています。武末はエース別所の穴を十分に埋める活躍をしましたが、前年度チャンピオンであった南海は4位に沈んでいます。

武末が新人王を取るほど活躍した事によって、初めて日本でアンダースロー投法が市民権を得たのではないでしょうか。武末が伝説どおり自分でアンダースロー投法を生み出したのか、それともどこかで伝え聞いてそれを自分のものにしたのかの真相は分かりません。ひとつだけ言えるのは彼の活躍によって「俺もアンダースローで投げてやろう」との思いを抱いた投手が出てきたことだけは間違いなく、これが日本でのアンダースロー投法普及および発展に大きな影響を及ぼした事だけは断言できます。沢村は元祖だったかもしれませんが、その影響は後世には伝わらず、日本のアンダースロー投法の源流をたどれば武末にたどりつきます。武末から先にも沢村を含め先人がいたかもしれませんが、武末こそ日本のアンダースローのパイオニアであると考えます。

武末は翌年2リーグ分裂騒ぎの中で、新興の西鉄に移籍します。移籍後も'50が12勝6敗、'51が11勝7敗と確実に成績を残しています。ところがある日、女性ファンの花束を受け取らなかった事がもとで右腕を刺されるという事件を起しています。以後その右腕は回復することなく静かに球界を去っています。武末の通算在籍期間や通算成績など調べまわったのですが、残念ながら不明です。以後に与えた影響の大きさからすると、武末の業績はもっと大事されても良いかとは思うのすが、そういう面の評価はほとんどないようです。パイオニア武末もまた悲劇の名選手だった思います。

アンダースローの原型

一口にアンダースローといってもかなりのバリエーションがありますし、そもそもアンダースローとはサイドハンドより下手に投げる投法すべてを含みます。いったいアンダースローの原型とはどんなものだったのでしょうか。これもまた歴史の彼方の闇の中にあるので推測と想像の産物になってしまいますが、これをある程度確定しないと「原型」なんて大層なサブタイトルの意味が無くなります。

原型はやはりアメリカに求めたいと考えます。アメリカではアンダースロー投手は非常に稀です。それでも私は一人だけテレビで見た事があります。ピート・ローズが現役で頑張っていた頃にシンシナティ・レッズが来日した事があります。その時の中継投手にアンダースローがいたのです。大変珍しいと言う事で、小さな話題になったと記憶しています。その投げ方は日本人にとって大変異質なものでした。

アメリカ人の投手多くは上半身が日本人比べて非常に強いので、突っ立ったまま上半身で投げ込むと言う印象があります(もちろん足が長いと言うのもその理由だとは思いますが・・・)。レッズのアンダースロー投手もまた棒立ちスタイルから投げるのです、素直な印象としてサイドハンドがもう少し下がったような感じです。非常にギクシャクしたもので、日本の投手の流れるようなアンダースローとは別物の受け取らざるをえない代物でした。ベーブ・ルースもアンダースローであったエピソードも既に紹介しましたが、記録フィルムに残る彼のフォームも思い出してみればそんな感じでした。

アメリカでは'20のメイズ事件以降、アンダースローは非常にマイナーな投法となっています。野球技術は進歩しますが、アメリカのアンダースローはマイナーになりすぎて、生きる化石のように進化が止まっている可能性があります。やや無理がある推理ですが、アメリカで滅びる前に確立したアンダースロー投法とは棒立ちでサイドハンドよりやや下目に投げるものだったのではないかと思います。そう考えればアンダースローがサイドハンドに進化したと言う仮説も成立します。もちろんこの仮説は相当無理があり、アンダースロー以前にサイドハンドが存在しなかった事になり大きな矛盾を生じてしまいます。

むしろ逆で初期はもっとかがんで投げていたのが段々棒立ち姿勢になり、棒立ちになったがゆえにサイドハンドとの境界線が曖昧になり、やがてアンダースロー自体がサイドハンドに吸収されてしまったと考える方が自然です。とくにメイズ事件以降、サイドハンドより腕が下がってアンダーハンドになると「危険な投法」として非難を浴びる事にもなり、やがて誰も積極的に投げなくなったと考えます。

それで日本に伝わったアンダーハンドはどんな形であったのかが問題となります。ここの伝来部分自体が憶測と推測の塊になっているので全く不明です。ただ沢村が投げたアンダースローは棒立ち型を基本として投げた可能性があります。沢村はその目でアメリカのアンダースローを見ているはずですし、その当時のアメリカのアンダースローも推測として棒立ち型の可能性が高いからです。

パイオニア武末はどうだったのでしょう。どこかの古いニュース映画を探せばあるかもしれませんが、これまた不明です。憶測する材料としては武末の後に出現したアンダースローが参考にはなるはずなんです。パイオニアはともかく後に続く人間は先人のやり方をまず真似するところから始めるのが常識だからです。ところがこの武末に続いて出現したアンダースロー投手の特定が非常に困難なんです。プロ野球の記録は様々な形でまとめられており、ネットでも非常に見やすく編集したものや、本当に細かいデータまでまとめた労作も数多くあります。

個々の選手の記録もそうで、その気になればソコソコ有名な選手であれば、年度別や通算の成績、誕生日から、左右どちらで投げていたか、身長、体重まで調べるのは不可能でありません。しかしそこにどんな投げ方をしていたかの記録がまったくないのです。投げ方まで記録に残さなかったのは、それがあまりにも日常的で、リアルタイムで見るものすべての常識以前の問題で、記録にする価値を認めなかったからだと考えます。

記録上では空白ですが、やがて'50年代後半から'70年代前半まで続くアンダースロー全盛時代がやってきます。

列伝1 〜杉浦忠〜

杉浦忠
杉浦忠
彼の超人的な活躍により南海球団史上唯一の打倒巨人を果たしている。

'59に南海の杉浦忠がシーズンでのアンダースロー最高成績を残します。この成績はべつに「アンダースロー」と但し書きをつけなくも日本球史でも最高の部類に位置する成績であり、その成績は確かな事実でありますが、今のプロ野球からは想像もつかない途轍もない記録です。

杉浦は立教大学で長嶋茂雄の同窓であり、ともに立教大学全盛時代を作り上げた名投手です。杉浦は'58南海入団、その年に27勝12敗、防御率2.05という抜群の成績を上げてまず新人王を獲得しています。そして'59を迎えます。当時南海は「鉄腕」稲尾和久、「豪打」中西太を中心した西鉄ライオンズに3連覇を許しており、王座奪回を虎視眈眈と狙っていました。また日本シリーズでも2リーグ分裂以降4回の出場を数えていますが、いずれも巨人の前に敗退、「ナンカイやっても勝てない」と酷評され、リーグ王座奪回だけではなくシリーズで宿敵巨人を破っての日本一もまた悲願となっていました。

リーグ王座奪回のため杉浦はフル回転します。残した成績が38勝4敗、防御率1.40、奪三振336個と言うものすごさです。さらにシーズン中、8/26から9/9の間にも45イニングス無失点、その後も9/15から10/20までの間に54イニングス2/3無失点と、目もくらむような快投を続け、南海に4年ぶりのリーグ優勝をもたらします。よく超人的な活躍と表現されますが、この時の杉浦の活躍こそ文字通りの掛け値なしの「超人的」な活躍と言えます。

リーグ王座奪還を果たした次の目標は打倒巨人です。シリーズはまさに「杉浦のシリーズ」と言い切っても良いほどのものになります。シリーズ前に「巨人に勝つためなら腕の一本や二本失くしてもよい」とまで監督である鶴岡に誓った杉浦は文字どおり鬼気迫る活躍を示す事になります。第1戦が先発して8回まで投げ、第2戦も4回からのロングリリーフ、中1日おいての第3戦またもや先発で延長10回を投げぬき、雨で1日置いた第4戦もまたも先発、驚くなかれ完封で飾り、ついに宿敵巨人を破ったのです。杉浦以外の南海の投手で投げたのは、第1戦で9回にリリーフに出た祓川、皆川、第2戦で先発した田沢、2回から2イニングをリリーフした三浦だけです。シリーズ全37イニングのうち杉浦は実に34イニングを一人で投げぬき、4連投4連勝の伝説を残すことになります。

杉浦は翌'60にも31勝を上げ、プロ1勝目からわずか3年1ヶ月で100勝という空前絶後の記録を打ち立てます。しかし酷使のツケは確実に杉浦に襲いかかります。4年目の'61から右腕の血行障害に悩まされる様になり徐々に成績は低下、'70に引退しています。それでも通算187勝106敗の成績と、ホークス史上(後身のダイエーを含めて)唯一の打倒巨人を果たすという燦然たる結果を残しています。

列伝2 〜秋山登〜

秋山登
秋山登
弱小大洋を一人で支えた快腕。彼なくして大洋の優勝はありえなかった。

つづいて'60に大洋(現横浜)の秋山登が奮闘する事になります。秋山は杉浦の2年上であり、当然2年早く'57にプロ入りしています。当時の大洋はチーム打率がなんと.208しかなく、打者にも投手にもめぼしい選手はおらず、打てず守れずで「弱小」を絵に描いたようなチームでした。そんなチームの中でダントツの実力を持つ秋山は当然のようにチームの大黒柱として酷使に耐える事になります。先発、リリーフとシーズンを通して文字どおりフル回転し25勝を挙げ新人王に輝きましたが、同時に余りにも貧弱なバックでは負け星も同じように積みあがり25敗。この年の大洋が43勝87敗で、秋山の次に勝ち星を挙げていた投手がたったの9勝ですから、もし秋山がいなければ楽々と100敗ラインを超えていただろうという成績です。

翌年になってもチーム事情が改善されるはずもなく、65試合に登板し、27試合に完投するというまさに孤軍奮闘の活躍で24勝を挙げていますが、負け星もまた同じように積みあがりセ・リーグ記録の27敗。さらにその翌年が17勝23敗、またまた翌年が14勝22敗と、投げても投げても大して報われる事がないプロ野球人生に転機が訪れます。西鉄を3連覇に導いた「知将」三原脩の監督就任です。三原は負け犬根性が染み付いた大洋ナインの意識改革を行うと同時に、乏しい戦力を巧みに活用し万年Bクラスの大洋を優勝戦線に躍り出させます。

まさに魔術にかかった大洋ナインは前年までの低迷が嘘のように大活躍を始めます。秋山も当然そうであり、エースとして獅子奮迅の活躍をし、21勝10敗、防御率1.75でMVPに輝く事になります。さらに日本シリーズでもミサイル打線の大毎(現ロッテ)絶対優位の前評判を覆す戦いぶりを見せます。第1戦は1回1死1、2塁からリリーフして実質完封、第2戦は8回の1死満塁から無失点リリーフ、3戦目は先発して1失点のみ、4戦目は5回2死2塁からまたも無失点リリーフとシリーズをすべて1点差勝ちで4連勝としています。この間にリリーフに先発に4連投した秋山はミサイル打線に1点しか与えず大洋日本一のまさしく原動力になっています。

秋山と言う投手は異常なぐらいタフな投手で、9年連続50試合以上登板。今ではほとんど見られなくなったダブルヘッダーでの連続登板も数多くあり、一日2勝の離れ業を5回も記録しています。とくに'62には優勝を争っていた阪神の村山実、小山正明相手に連続完封と言う2リーグ分裂後唯一の大記録まで残しています。これだけ酷使され、肘に大きな負担がかかるとされるシュートを多投していたにもかかわらず、肘や肩を痛めた事がなく、「投げて痛いと言う奴が信じじられん」のコメントが伝えられています。

秋山の通算成績は実働12年で193勝171敗、防御率2.60。当時はセーブポイントなんてものは記録されていませんが、おそらく余裕で100は超えていたともされます。さらに野球生活のピークの期間を弱小大洋で過ごした事を考えると、強豪チームであればそのタフネスさから「鉄腕」稲尾和久なみの成績を残しても不思議はなかったでしょう。

列伝3 〜足立光宏〜

足立は日本のアンダースローの完成者と言われています。大きく伸ばしたテークバックからの地を這うような姿勢からのリリース、まさに流麗と言う言葉が相応しいピッチング・フォームはアンダースローの芸術とまで評価されます。実働21年、187勝153敗3セーブ、防御率2.91という成績は決して突出したものではなく、当時全盛を誇る阪急投手陣では米田哲也、梶本隆夫、石井茂雄らの影に隠れて2番手、3番手以下の位置に甘んじなくてはなりませんでした。

足立は常に帽子を目深にかぶり、どんなピンチにも顔色ひとつ変えず、また味方のエラーには露骨に顔をしかめる職人肌の投手でしたが、大舞台には異常に強いという特徴がありました。闘将西本幸雄に率いられた阪急はV9川上巨人と5度の日本シリーズを争う事になります。とくにV9時代でも巨人が最強であった、'67〜'69の3年間の阪急-巨人の戦績は2-4、2-4、1-4でしたが、阪急の勝ち星のすべてを挙げたのが足立であり、足立のために巨人の4タテ優勝がついに実現しなかったとも言われています。

さらに晩年になり'76に記憶に残る快投を演じる事になります。この年のセ・リーグ覇者は前年最下位から巻き返して優勝した球界随一の人気者長嶋茂雄率いる巨人。前年度に広島を下して悲願の日本一を達成していた阪急にとって、V9時代どうしても越えられなかった厚い壁への挑戦です。日本中のほとんどの野球ファンが、スーパースター長嶋が監督としてもまた偉大な成功を収める一里塚として、このシリーズを位置づけました。

ところがシリーズの展開は思わぬ方向に転がって行きます。エースとして貫禄を示す山田久志、「前の晩から振らないと間に合わない」とまで言われた速球王山口高志の前に巨人は3連敗を喫する事になるのです。世論は動揺し、巨人のびいきのマスコミも悲鳴をあげて書き立てます。打倒巨人までもう一歩というところで阪急ナインに大きなプレッシャーがかかります。ストライクさえ入れば誰も打てない山口高志が四球を乱発して崩れます。山口の四球はシリーズ14個を数える事になります。プレッシャーの中で阪急ナインは萎縮し瞬く間に3勝3敗のタイに持ち込まれてしまいます。最終戦は後楽園、戦前の予想は3連勝の巨人が圧倒的に有利で、'68に西鉄が巨人相手に演じた3連敗4連勝をきっと飾るであろうとの予測記事が乱舞する事になります。

後楽園中、日本中を敵に回したような環境で足立は先発します。当時の足立には往年の球威は失われていました。それでも絶妙のコントロールと長年鍛えた投球術で勝利に逸る巨人打線を手玉にとっていきます。ファールでカウントを巧みに稼ぎ、決め球はど真ん中から微妙に沈む伝家の宝刀シンカーです。素人でも打てそうなスローボールに手こずる巨人への応援は悲鳴に様に変わっていきましたが、終始足立のペースは変わらず4-2、阪急は宿敵巨人をついに破っての日本一を達成する事になります。またこの時、後楽園中から浴びせられる怒号、悲鳴を聞きながら百戦錬磨のこの名投手は心の中で「もっと騒げ」と念じていた事もまた有名なエピソードです。騒ぐ事により巨人打者がプレッシャーを感じ、自分の緩い球を力みかえって凡打する事を計算した上でのことで、なみの投球術ではとてもできない芸当です。

敗れた長嶋巨人は翌年にも阪急に一蹴され、更にその翌年リーグ優勝まで逃した長嶋は監督を更迭され、長い浪人生活に入る事になります。もしあの最終戦に足立がいなかったら、長嶋の監督人生もまた違ったもになった可能性があります。常に日の当たるところで活躍し、ミスタープロ野球の名を欲しいままにしていた長嶋への、日陰を強いられ、負け犬を味あわされてきた足立の執念の投球であったと言えるかもしれません。

列伝4 〜山田久志〜

山田久志
山田久志
これは引退試合でのもの。今はなき阪急ブレーブスのユニフォームと西宮球場が懐かしい。

足立をアンダースローの完成者とするならば、山田はそれをさらに発展させ、山田久志のアンダースローを完成させたと評価すれば良いかと思います。足立のアンダースローは完成者らしくまさに流麗なフォームでしたが、山田のものはこれをダイナミックに躍動的なものとし、「華麗」との言葉で表現すれば相応しいでしょうか。「蝶のように舞い、蜂の様に刺す」とは山田のためにある言葉で、どれだけの投手があのフォームを真似ようとしたかは分かりません。ドカベンのエース里中のモデルが足立と山田であるのもうなずけますし、それ以外の適任者はいません。

とかく技巧派のイメージが強いアンダースローですが、山田は140kmを越える速球を楽々と投げ、自他共に本格派を任じていました。そんな山田に転機が訪れます、球史に残る速球王であり、剛球王である山口高志の登場です。山口の速球はスピードガン時代以前でしたので記録には残っていませんが、おそらく日本球史で随一、少なくとも3本の指に入るものであったことは間違いありません。伝説では楽々と160kmを越えているとしていますが、他の投手とは次元の違う速球を投げており、全盛時にはストライクゾーンさえ通れば誰も打つことは出来なかったのは事実です。

この山口の快速球の前では山田は自分の速球が逆立ちしても及ばない事を知り、投球術を磨く技巧派に転向したとされます。とくに先輩足立から盗んだシンカーは伝家の宝刀として有名で、足立とともにアンダースローといえばシンカーを定着させたものです。山田は列伝に上げた、杉浦、秋山、足立のような一世一代の晴れ舞台には恵まれませんでした。オールスターでこそ7勝0敗の記録を残していますが、日本シリーズでは'77に2勝を挙げてMVPになったのが唯一の好成績で、宿敵巨人相手では3勝5敗、通算でも6勝9敗に留まっています。どうも短期決戦は苦手としたようですが、シーズンとなると安定した投球で成績を積み上げています。17年連続10勝以上(日本記録は米田哲也の19年連続)、12年連続開幕投手(世界タイ記録)と地味ですが、不動のエースとして長期間安定した活躍した者のみに与えられる記録を残しています。

実働19年のほとんどを西本幸雄から上田正治へと続いた阪急黄金時代のエースとしてすごし、284勝166敗43セーブ、防御率3.18、2058奪三振。この通算成績はアンダースローとして歴代1位の成績であるのはもちろんの事、投手全般を含めても飛び切りのもです。通算勝ち星で山田を上回るものはわずかに6人。文字通り最高のアンダースロー投手であり、今もってアンダースローと言えば山田久志であるとの声は全く変わりません。

エピローグ

山田が活躍した世代がどうもアンダースロー最後の世代であった気がします。4歳下には江川との電撃トレードで男を挙げた小林繁がいます。3歳上には日本ハム、西武で活躍した高橋直樹がいます。南海から広島で活躍した金城基康もリリーフで大活躍していました。この辺りはまだまだ各球団のエース級として普通にアンダースローは存在しています。ところが次の世代となると活躍が見る見るうちに小粒化します。いなかった訳ではありませんが、どうにも印象に残る投手がいないのです。辛うじて覚えているのは阪神ファンなので大町、葛西、川尻はいますが、いずれもパッとしない成績であった事だけは間違いありません。他球団にもいたかもしれませんが、どうしても思い出せません。高校野球レベルで見ても、全国大会では見ることはめっきり少なくなりました。

理由はいろいろあるでしょうが、まずアンダースロー投法は下半身に負担が強く体力の要る投法なので、少年野球や中学レベルでは指導しなくなったそうです。そうなると始めるのは高校以降で、他の投法で行き詰った投手が転向してなることになります。行き詰らなかった他の投手はそのまま育ちますから、アンダースロー投法を行う投手に才能のある投手が集まらなくなってのはひとつあるそうです。またマイナーな投法になってしまうと、これを的確に指導育成する指導者もいなくなり、誰かがアンダースローで投げたいと思っても独学でやらざるをえなくなっているのも影響しているとされます。アンダースローでも140kmの速球は可能ですが、それ以上の150kmとなると歴代の名投手でも投げられたものがいるかどうかは疑問です。現在のプロ採用基準はとりあえず140km以上の速球が投げられる事が必要条件となっており、130km台のアンダースロー投手をあえて入団させようとはなかなかならないとの事です。

こうやって考えると'50代後半から'80代半ばまでアンダースローの好投手が切れ目なく続いた事の方が、かえって異常な状態であったと言えるかもしれません。メジャーでの終焉は'20のメイズ事件であるとされていますが、メイズ事件のような象徴的なことのない日本でも消えつつあるのは、人間の投げ方として最終的に無理が潜んでいると考えざるを得ません。球界に徒花のように咲いて静かに散っていく投法のような気がしてなりません。

それとそういう眼で見るからそう感じるのでしょうが、アンダースローを駆使する投手にはどこか哀愁を感じます。酷使により短命に終わった杉浦、弱小大洋をバックに負け星を積み上げざるを得なかった秋山、V9巨人の厚い壁に塞がれた足立、山田。彼らは活躍の場が今から想像も出来ないマイナーなパ・リーグであったり、セ・リーグでも優勝争いに縁のない球団であったりとです。それだけ日陰であったがゆえに、わずかにスポットライトが当たった時には、眩いぐらいの活躍を記憶に残しています。杉浦の4連勝4連投もそうですし、晩年の足立の日本シリーズにおける快刀乱麻のピッチングです。

それでも私はアンダースローが好きです。体を深く沈めて、流れるような華麗なフォームから繰り出される投球は私の瞼にしっかりと焼き付いています。望むらくは唯一の生き残りの渡辺俊介投手にがんばってもらい、彼に続くアンダースローの系譜が再び出現する事を願ってやみません。

もうひとつのエピローグ 〜勇者たちの伝説〜

今回の作品を書くのに、各球団のHPを参考にしたのは言うまでもありません。杉浦忠のエピソードを探すためにはソフトバンクのHPを、秋山登の記録を調べるには横浜のHPが大いに参考になりました。ソフトバンクは南海を買収したダイエーの継承球団、横浜は大洋を買収したTBSの所有になっていますが、どちらの球団も前所有者時代の記録でも栄光の記録として大切に保存されています。

ところが阪急ブレーブスを買収したオリックスは完全に記録から抹殺しています。'60年代から'70年代にかけ4連覇を含む10回のリーグ優勝と、3年連続の3回の日本一を達成した燦然たる記録はオリックス球団史にはまったく記録されていないのです。山田が投げ、福本が走る、加藤が打ち、ブーマーが爆発する。闘将西本が指揮し、名将上田利治が率いて「憎らしいぐらい強い」とまで言われ、前後期の2シーズン制を行なっても前後期とも優勝してしまう圧倒的な強さを誇った、あの阪急の記録をオリックスは継承していないのです。

足立は'76に巨人相手に球史に残る快投を行なった後、'78にもう一度同じような場面に立つ事になります。相手は広岡ヤクルト。戦前の予想では3連覇中の阪急が絶対有利とされましたが、リーグ優勝後、間隔が空き過ぎていたのと、主力選手に衰えが忍び寄ってきた事もあり、3勝3敗の五分で最終第7戦までもつれこむことになります。この試合を託されたのが老雄足立。足立は膝の故障もありシーズンは4勝6敗とふるいませんでしたが、シリーズ2戦目を完封シャットアウトで飾り、決戦のマウンドに再び立つ事となったのです。

勢いはヤクルトにあり、1点のリードを許した6回の裏、打者にヤクルトの主砲大杉勝男を迎える事となります。大杉のライトへの一撃はポールを巻くようにスタンドに吸い込まれます。打球が良く見えるヤクルトベンチは一瞬立ち上がった後、落胆したように座り込みました。それを見た阪急ベンチはファールを確信したのですが、なんと線審富沢は本塁打をコールします。監督の上田は激怒して抗議に向かいます。日本シリーズ史上最長の1時間19分の抗議です。途中選手をすべて引き上げさせた上田はこの時点で放棄試合はもちろん、自らの引責辞任の腹を固めていたと言われています。

長引く中断に業を煮やしたコミッショナーは説得に赴きます。

金子コミッショナー 「この僕が頭を下げて頼んでいるんだ。それでもダメか」
上田監督 「それがどうしたっていうんですか」

見るからに無愛想で見た目どおり怖かった前監督西本に較べ、比較的マイルドな印象がある上田でしたが、この時見せた闘志こそが阪急を全盛に導いたと言えるかもしません。最終的に阪急本社首脳陣の説得に折れて試合は再開、もうマウンドには足立はなく、試合も敗れ、無限に続くかと思えた阪急の黄金時代も静かに終焉を迎える事になります。すでに夕暮れが迫り、後楽園球場を真っ赤に染め上げた夕陽は、無敵阪急の伝説の終わりを告げる落日であるかのようでした。

これほどの偉大な球団を抹殺したオリックスを憎みます。オリックスは同様の手法で近鉄-広島日本シリーズでの「江夏の21球」をすでに抹殺しています。オリックスにとっての球団史とは阪急を買収した'88から始まり、それ以前は無関係の前身球団であるとの立場のようです。鈴木啓示の300勝も、福本豊の1000盗塁も継承し記録する球団は世の中になくなったのです。

嗚呼・・・。

*'78の阪急-ヤクルトの日本シリーズは神宮球場が改装中だったとかで、ヤクルトは後楽園球場を本拠地としました。私もすっかり忘れていましたが、読書の方よりご指摘があり、謹んで訂正させて頂きます。