鎌倉武士は武士の理想像とされます。鎌倉時代が終わって南北朝の動乱、室町期、戦国期、江戸期を通じて「古の鎌倉武士を見るような」との賛辞は武士を褒めるのに最大級のものであったことは確かです。武士の精神は鎌倉期に極限まで高揚し、南北朝、室町期に低迷し、もう一度戦国期に高揚しますが、戦国武者をもってしても鎌倉武士の下位におく人が多いです。鎌倉武士の成立と鎌倉武士がその真髄を発揮した元寇、とくに文永の役での奮戦を今回は書きたいと思います。
鎌倉武士の精神
鎌倉武士の実態は自作農です。自作農と言っても時代劇で「お慈悲をくだせぇ、お代官様」みたいな情け無いものを想像してはいけません。農民とは言っても自らの手で荒地を開墾した開拓農民なのです。どうも農民と言う言葉が日本ではしょぼくれたイメージになってしまうので困るのですが、ちょうど開拓期の西部で大牧場を切り開いた牧場主やカウボーイみたいなものを想像してもらうと良いと思います。
彼らは自分だけの力で農地を切り開き、そこでの収穫で自立していました。とくに関東ではそういう開拓農民が続々と集まり、自らのコロニーを次々と開いていました。時代は平安も後期から末期にさしかかる頃、平安政府が政治をしていたのは実質京都近辺のみ。お膝元の京都でさえ盗賊が跳梁跋扈し、それを取り締まる力さえありませんでした。ましてや遠く関東になるともはや化外の地の感覚で、無政府、無警察状態と言っても良い状態でした。
開墾も初期のうちはいくらでも土地があるように見えましたが、時代が進むと当時の技術で開墾できる所はやり尽くしてしまい、点在していた開墾地も境界を接する事になります。境界を接するようになれば争いが起こります。境界争い、水争いが頻発し、それを仲裁する機関など平安政府に求めるだけ無駄なので、武力の衝突となります。自らのコロニーの命運をかけての戦いです。仲裁機関がないのですから、勝った方は境界を自分により有利にひき直す事も出来ますし、場合によっては相手のコロニーを併呑する事も可能です。新たな開墾地が乏しくなれば、自らの勢力拡大のためにわざと争いをふっかけて戦い取る様なことも横行していたに違いありません。こんな中で「一所懸命」という言葉が誕生する事になります。現在では「一生懸命」として使われる事が多いですが、本来はニュアンスがかなり異なり、自分の領地(一所)を命懸けで守り抜く姿を表した言葉です。
そんな環境では力こそ正義になります。平和主義の非武装勢力では瞬く間に一族は死滅します。自らのコロニーの安全保障のためにはいかに自分のコロニーの武力が強大であるかを喧伝する必要があります。武士の自衛力の象徴は言うまでもなく武芸です。喰うか喰われるかの争いを繰り返していくうちに彼ら独自の美学がはぐくまれます。常に勇敢である事を至上の価値観に置き、対極に卑怯な振舞いを蔑む精神です。戦いを挑まれればこれを受けて立ち、正々堂々己の武勇の限りを尽くすのが美学とされたのです。こうして生み出された武勇の名は武士の誉れとして称えられ、その名が知れ渡ると周辺のコロニーから一目置かれる事になり、領地の安全保障と直結します。武士が自分の武勇の名を守るのに命を懸けたのは、これがあからさまなほどの実利と裏表になっており、鎌倉武士の有名な精神である「名こそ惜しけれ」が培われる事になります。
「一所懸命」、「名こそ惜しけれ」と鎌倉武士の2大精神の背景を書きましたが、このふたつの精神だけで常に合戦を戦えば誰も生き残れません。「一所懸命」精神にやや連動するかもしれませんが、生き残る事もまた重要な精神です。合戦で敗れて敗走する時、「名こそ惜しけれ」とばかり踏みとどまって戦えば一族郎党一人残らず死滅します。そこで落ち延びて、生き延びて再起を期すことも当たり前のように行なわれました、「命あっての物種」精神です。もちろん逃げれば武勇の誉れは失われますが、後日この時の恥を雪げば帳消しなると見なす事で「名こそ惜しけれ」と整合性を保っています。
「命あっての物種」精神の延長線上で、裏切りもまた「帰り忠」として認めています。ただし裏切り行為は今も昔も歓迎される行為ではなく、潮時と状況を巧妙に見極めて行なわないと最悪の結果を招く可能性はあります。それでも「名こそ惜しけれ」の精神が高々と掲げられる一方で「命あっての物種」からの裏切り行為まで認めているところに鎌倉武士のリアリズムを私は感じます。
以後の用語が混乱しないように定義しておきますが、鎌倉武士とはコロニーの領主の事です。領民も戦いに出るでしょうが、戦国期以降のように刀を持てば武士と言うわけではなく、領主当人かその子供ぐらいまでが武士です。領主の一族であっても直系以外のものは家の子とされ家臣扱いですし、一族以外のものは下人とされ、従者程度の扱いでした。下人の中でも頭立つもの、優秀なものは郎党と呼ばれましたが厳密には武士とは区別して考えた方が良さそうです。本編では武士はあくまでも小領主を指し、精々拡大して跡取り辺りまでとします。
当時の合戦模様
最初はごく小規模の小競り合いが合戦でしたが、コロニー同士の合従連衡が進むと、連合体同士の規模の大きな合戦が行なわれるようになります。大きいといってもせいぜい100人単位が精々でしょうが、それまでの10人単位とは桁が違う合戦です。合戦に動員されるのは直接の当事者やその連合体の構成員はもちろんですが、他の連合体にも出兵を要請する事になります。合戦は数が物を言いますから、出来る限りたくさんの武士を集めることが勝敗の鍵を握る事になります。
いざ合戦となったとき、当事者や連合体の構成員はともかく、応援に来た武士たちはそのままでは働いてくれません。応援の武士たちにとってこの合戦では一所懸命をしなければならないわけではないからです。そこで応援の武士たちのモチベーションを上げるシステムが生み出されます、功名手柄です。大きな規模の合戦となればその結果は周辺に知れ渡ります。そこで目立つ武勇を挙げれば、武士の名が上がり武勇の誉れが高まります。武勇の誉れは自分の領地の安全保障に直結します。また手柄を挙げれば恩賞と言う事になり実利まで伴います。武士は合戦の場に功名手柄を求めて参集する事になります。
当時の合戦模様は次のようであったとされます。
第一段階 | : | お互いの兵力、武器を誇示し合う。 |
第二段階 | : | 功名な武士が名乗りあい、時に一騎打ちを行なう。 |
第三段階 | : | 矢戦を行う。 |
第四段階 | : | 徒歩戦に移る。 |
一所懸命で来ている当事者はともかく、応援の武士たちは功名手柄を目的に来ています。功名手柄は勝ち戦において意味があり、負け戦ではいくら頑張っても無駄です。そこで合戦の段階で勝敗の帰趨を慎重に見守る事になります。第一段階であまりに兵力差があったり、第二段階で相手の武士に怖ろしく強いのがいてとても勝てそうにないとなれば、第三段階の矢戦の段階で逃げる算段をし、第四段階で相手が決戦に来ればとっとと逃げ出すのが通常だったそうです。もちろん逃げるだけではなく裏切り行為を行なって勝ち組に加担する事もままあったそうです。
もちろんこういう戦いの様相は必ずしも日本だけのものではなく、古今東西戦局が傾けば、勝ち目が少なくなった方から続々と逃亡者や裏切り者が出るのはあまりにも当たり前の様相ではありました。
鎌倉幕府の成立
この幕府の目的はすこぶる単純です。自作農である武士を保護するために出来た政権です。鎌倉幕府に忠誠を誓い御家人となれば、律令体制下で不安定な存在であった自分の領地が公式に自分の物となり、もめ事も血を血で洗う紛争を行なわなくとも、幕府が公平な中立機関を設けてこれを裁定してくれると言うのです。武士が喉から手が出るほど欲しかった物を幕府は提供したのです。全国の武士たちは争って幕府の御家人となりました。また幕府は創成期において対平家戦を行ない、またさらにその後年、承久の乱を戦います。幕府は戦いに参加した武士たちに二つの合戦で得た戦果を気前よく分配しています。つまり幕府は武士たちに「一所懸命」を法的に保護し、功名手柄を保障したことになります。
鎌倉幕府に対する御家人の忠誠心は後の室町幕府や江戸幕府に較べても格段に強いものがありました。はるか後年になりますが、鎌倉幕府滅亡時、京都の六波羅探題を脱出し鎌倉に向かった北条仲時は、番場の宿で包囲されて自刃しますが、その時に一緒に殉じた武士たちは432人と記録されています。本拠地鎌倉攻防戦では、北条一族すべてが誰一人裏切ることなく最後まで戦い抜き、高時自刃の時には一族が283人、郎党を含めると870人余りが自刃したと記録され、鎌倉内だけで6000人もの人間が殉じたと太平記には記録されています。
滅亡期でもそれだけの忠誠心があったわけですから、全盛期の忠誠心は押して知るべしです。御家人たちが鎌倉幕府を尊重する事は尋常なものではなく、鎌倉幕府の召集にいつでも馳せ参じる事を表現する「いざ鎌倉」の言葉や、鎌倉幕府の命令の重さとして「鎌倉の命、山の如し」なんかに象徴されています。まさに「武士の、武士による、武士のための政権」であったわけです。平安政府の下で抑圧されていた武士たちが「おらが政府」の意気込みは天をも突くといえます。
鎌倉幕府はもちろん源氏の正統後継者である頼朝が作りましたが、源氏の血統は三代の実朝で尽きます。その後、将軍には京都から貴族や皇族の幼少の者が迎えられ、さらに成人すれば京都に帰す方式をとっています。誰が政権を握ったかですが、頼朝の妻政子の一族である北条氏です。北条氏は代々執権として政権を掌握し、実朝死後、鎌倉幕府は北条執権政権とも称されることになります。政権を握った北条氏ですが、何人もの名執権を生み出し、幕府体制を強固にしていきます。
鎌倉幕府の力が頂点に達していた時に未曾有の国難が襲います。ジンギスカン以来、西はヨーロッパ、南は中国まで傘下におさめた世界帝国モンゴルが日本制服を目指して進攻して来たのです。蒙古襲来、元寇です。これは2回にわたって行なわれ、それぞれ文永の役、弘安の役と呼ばれていますが、鎌倉武士がその真髄を発揮した文永の役を語りたいと思います。
蒙古襲来
鎌倉武士の精神として「一所懸命」、「名こそ惜しけれ」、「命あっての物種」があるとしました。鎌倉幕府成立後、このうち「命あっての物種」精神は引っ込む事になります。武士にとって鎌倉幕府を守ることこそすべてに優先し、そのこと自体が武士の名誉を高め、所領を増やし、恩賞にもらえる事が保障されたからです。さらに幕府が安定すると大規模な合戦はもとより、所領争いで血を見る事もなくなります。平和が続けば武士の精神は純化されます。すなわち卑怯な行為など、武士の誉れを汚す行為はますます忌み嫌われ、ひたすら武士の誉れを高める事、つまり「名こそ惜しけれ」の精神を体現する事のみが武士であると考えるようになったのです。
一方で家督相続制の問題で所領に不足をきたし始めていた武士たちは、新たな功名手柄の働き場を求めます。そんな気運が最高潮に達する時についにモンゴルが攻め寄せてくる事になります。元寇の細かな経緯は省略しますが、日本が初めて外国軍の侵略を受けた国際戦争です。双方の戦法の差もこれも周知のことですが、一騎打ち戦法で功名手柄を狙い突出してくる武士たちを、おそらく当時世界一の水準で整備されていたモンゴル軍は、集団戦法と最新兵器の「てっぽう」で苦しめています。
侵攻して来たモンゴル軍に対し鎌倉武士たちはまさか負けるとは夢にも思ってなかったみたいです。多分鎌倉武士たちにとっては平氏もモンゴルの区別も難しく、それよりも承久の乱以来の功名手柄の大チャンスと勇みたったようです。源平の頃とは違います。モンゴル軍との合戦でいかに自分の功名手柄を売り込むかに先を争う状態になります。功名争いの中でもまず熾烈を極めたのは「先駆け」と呼ばれるものです。戦国時代では「一番槍」とも呼ばれていますが同じものとみなしてよいと考えます。両軍対峙してにらみ合っているときに一番最初に敵陣に攻撃をかける役目です。当然敵陣の中に単独で突っ込むわけですから、取り囲まれて打ち取られる危険性も高い代わりに、その勇気は非常に賞賛される功名の代表的なものです。武士たちの心の中には「あの平氏さえ我らが滅ぼした。モンゴルなんてなんぼのもんじゃい」と夜郎自大の極致のような勇気でもって先駆け争いをします。もうそれは先駆けを通り越して抜け駆け同然の行為で、西宮戎神社の一番福の奪い合いみたいな状態になります。
実際の合戦が開始されても「名こそ惜しけれ」と「功名手柄」精神の権化のようになった鎌倉武士は、モンゴルの集団戦法の中に無謀な一騎駆けを敢行します。一騎打ちで天晴れ敵の大将を討ち取り、衆目の中で武士の誉れと手柄を上げるまたとない好機とばかりまさに次々と突っ込んでいきます。弘安の役はともかく、文永の役の時の日本軍の戦闘ぶりは秩序も戦術もあった物ではなく、我先にモンゴルの集団戦法の中に突進し次々と餌食となっていきます。源平の頃の合戦ではここまで負ければ「命あっての物種」でとうに崩れ落ちているはずですが、いくら前線がモンゴル軍に崩されても、第2陣以下に渋々配置させられていた武士たちが、「やっと俺たちに手柄の順番が回ってきた、これこそ天の恵み」とばかりまたもや勇んで突っ込んでいきます。
ついには本陣までモンゴル軍に攻め寄せられるのですが、「モンゴル如きに後れを取るとは鎌倉武士の名折れである」との総大将の大号令と、後陣の武士にまでチャンスが回ってきたことに士気は一向に衰えず大激戦が展開されることになります。結局本陣もモンゴル軍に奪われてしまい、やむなく水城まで退却しますが、その士気はこれだけの敗戦にも一向に衰えず、むしろ「明日こそモンゴルの奴らをなで斬りにして今日の恥辱を雪ぎ、功名手柄にしてやる」と明日を心待ちにする武士があふれる状態であったのです。
その後の展開は歴史に示すとおりで、突然の台風の来襲でモンゴルの船団が壊滅状態となり、翌日の再戦はなくなりました。劣勢の日本軍には神風として神に感謝したとなっていますが、武士たちにすれば空しく功名手柄の種が博多湾に沈んでしまったと嘆くむきも少なくなかったようです。しかし合戦の経過はどう判定してもモンゴル軍の圧勝です。敵前強行上陸から橋頭堡を築き、まず日本軍の先陣を破り、続いて二陣、三陣と撃破し、本陣まで踏み砕いています。バラバラに突っ込んでくる武士たちをそのたび包囲殲滅し、局所戦でやや劣勢と見るとすかさず「てっぽう」を繰り出して退け、さすが世界を制覇したモンゴル軍の実力を遺憾なく発揮しています。
この時、モンゴル軍の行動で謎とされているのは、あれだけ押しまくっていたのに、日が暮れると船団まですべて撤収してしまったのです。通常の戦略感覚なら疲弊した日本軍が最後の一線と立て篭もった水城の前面にまで進出して包囲網を敷くか、その日奪い取った日本軍の本陣周辺に明日の水城攻略に備えて陣を敷くかしそうなものだのにです。
もしこの時モンゴル軍が船団の物資を揚陸し地上で陣を敷いていたら、台風被害はそれほどでも無かったはずですし、船団壊滅にショックを受けるでしょうが、かえって異国での背水の陣となり、前日の合戦で消耗しつくしていた日本軍を水城で粉砕し、大宰府まで占領し北九州一帯を制圧することも不可能ではなかったと考えます。
その理由は幾つか説としてあげられています。
まず1.の小手調べ説ですが、この日のモンゴル軍の上陸兵はほぼ全兵力であり、小手調べであれば数千程度をまず上陸させてみるのが妥当であり、上陸規模からしてモンゴル軍もこの日は決戦ののつもりであったことを証明してると考えます。
2.の夜襲回避説ですが、これが通説としてよく載っています。しかしモンゴル軍の習性を考えると私は疑問に思います。日本遠征軍の中にモンゴル人の実数はたしかに少数でありました。しかし作戦の中枢は当然モンゴル人が握っています。モンゴル人は元来水が苦手で、日本遠征で長い船旅をさせられたのですから、少しでも早く上陸し、陸の上で暮らしたいはずです。夜襲の回避も百戦錬磨のモンゴル軍であれば対策は十分可能で、夜襲回避のためだけに嫌いな船に帰るのは理解に苦しみます。
また3.の大規模偵察説ですが、文永の役でのモンゴル軍は900隻、2万6000人であったと記録されています。この軍勢を多いと見るか少ないと見るかですが、博多に集結した日本軍が5000〜1万程度であったとされるので、九州の日本軍を壊滅させるのにまさに十分な兵力であったと考えますし、よく見れば日本が負けて当然の兵力差でもあります。また900隻の船団の建造も世界帝国モンゴルをもってしてもかなりの大出費で、もし強行偵察であれば2500人程度、100隻程度で十分であり、その場合は引き続いて本格上陸を行う主力軍が別に編成準備中で無ければならないのに、そんな形跡は認められていないところから疑問符がつきます。
少々強引な結論ですが、私は4.の日本軍善戦説をとります。この日の合戦の開始は朝の10時とされます。戦況的にはほぼ鎧袖一触の勢いでモンゴル軍は勝ち進みます。ところがモンゴル軍にしてみれば勝っても、勝っても日本軍の士気は衰えず、相変わらず猛気盛んに突撃してきます。これまでの他国との戦闘ならば、もうそろそろ総崩れになるだろうと思っても日本軍の士気は高まるばかりで一向に総崩れの気配が見えません。
モンゴル軍の作戦計画は博多湾付近での上陸戦で快勝すれば他国との戦闘と同様に日本軍は総崩れし、後は追撃戦で日本軍を殲滅し、容易に太宰府まで進出できる予定であったと考えます。ところが勝ち続けているとはいえ、日本軍の抵抗は全く衰えないため進軍スピードは予定より大幅に遅れ、日本軍を壊滅させることが出来ず、水城まで到達した時点でついに日が暮れ合戦を終了せざるを得なくなったのです。
この作戦の齟齬はモンゴル日本派遣軍にとって重大な決定を迫られることになったと考えます。いつの時代でも軍団の維持には補給の確保は欠かせません。モンゴル軍は船団できたのですから、そもそもすべて持ち込み分しか武器食糧がありません。おそらく2万6000人の軍勢の武器食糧補給計画は、最初の合戦で日本軍を壊滅させ、北九州一帯を制圧し、鎌倉からなりの援軍が来るまでに現地調達しようと考えていたのでないでしょうか。
ところが勝ったとはいえ日本軍は水城に健在で、なおかつまだまだやる気十分であり、これを壊滅させるには今日の手ごたえからしてまだ日数がかかりそうだとまず判断したと思います。さらに疑心暗鬼は広がります。あれだけ叩かれても士気が衰えないのは近日中に大規模な援軍が到着するからではないかと。
真正面に敵軍が構えている状態で武器食糧の現地調達をするわけにはいかないし、この日の決戦で新兵器の「てっぽう」や弓矢、その他の武器もかなり痛み、消耗しており、このまま滞陣して戦闘を続行しても簡単に大勝利して日本占領まではかなり難しそうだと考え始めたと想像します。そうなると長途遠征軍の心細さで、「とりあえず勝ったし、この報告だけもって帰っても褒められこそすれ、怒られはしないだろう。食糧のあるうちに帰ろう」との結論が出ても不思議ありません。
結局モンゴル軍を撃退したのは、「名こそ惜しけれ」「功名手柄」の鎌倉武士の真髄を120%発揮した無謀な吶喊攻撃の賜物であったと考えます。後世の武士たちが鎌倉武士を武士の典型とし模範とした気分が良くわかります。
エピローグ
文永の役の後、モンゴルはふたたび日本遠征を行ないます、弘安の役です。今度は準備周到で迎え撃った日本軍は博多湾での持久戦の末、またもや台風でモンゴル軍が壊滅し勝利を得る事になります。この日本遠征の失敗はモンゴル世界帝国崩壊の遠因をなしたとも言われています。一方で日本の鎌倉幕府も元寇により間違いなく崩壊の道筋をたどる事になります。
日本は勝ちましたが、純粋な防衛戦での勝利です。防衛戦では戦利品たる領土が一寸と言えども手に入りません。一方で武士たちはあれだけの大勝利に恩賞を求めてきます。武士たちが命を的に戦ったのは日本を防衛すると言うよりも、戦って恩賞にありつくためだったからです。武士たちが鎌倉幕府の命令に勇んで出陣したのは、幕府が功名手柄に対して恩賞を保障していたからなんです。
文永の役の時が約1万、弘安の役では直接戦闘を行った九州軍が約6万5千、中国地方や近畿に縦深に布陣したものが同じく約6万、計12万5千です。後方配置の軍勢はともかく、九州で直接戦ったものは多かれ、少なかれ恩賞を要求します。しかしこれだけ大規模な動員では鎌倉幕府には恩賞として配る土地がないのです。戦った武士たちに不満が渦巻く事になります。鎌倉幕府信頼の源泉力であった恩賞の保障が反故にされたのです。この頃には紛争の仲裁機関としての役割も、情実や賄賂などで左右され信用が落ち込み始めており、その落ち込みが北条一族の専横と同一視されていましたので、あれだけ固かった武士たちの鎌倉幕府への忠誠心が揺らぎに揺らぐ事になります。
北条一族への反感が出ていると言っても、元寇時の執権は歴代随一と言われる北条時宗ですし、時宗の後を継いだ貞時も名執権とされています。幕府崩壊時の執権は更に次代の高時になります。高時は「暗愚の極み」、「愚物の末」と酷評される執権ですし、高時の代に幕府が滅亡したのも事実です。高時は偉大な祖父(時宗)、名執権と呼ばれた父(貞時)に較べれば能力は落ちるかもしれません。しかし偉大な二人をもってしても解決できず持ち越しなった、巨大な難題の解決が高時にできなかったからと言って、鎌倉幕府滅亡の原因をすべて高時一人に背負わせるのは無理があります。
鎌倉幕府崩壊の原因は頼朝が築いた幕府の枠組みが老化し、緩んでいた時に、元寇と言う大地震があり、以後時宗、貞時のふたりがその人望と名声で辛うじて支えていた屋台骨がついに折れたと表現したほうが良いと思います。詰まり誰がしても崩壊を食い止める事が出来なかったと言う事です。これは江戸幕府最後の将軍である徳川慶喜が、家康の再来とまで言われるほどの能力をもってしても、幕府瓦解を食い止める事が出来なかった事と思い合わせると良いのではないでしょうか。
元寇以後武士の気風は変わります。南北朝から室町期の武士は鎌倉武士の「名こそ惜しけれ」精神はすっかり影を潜め、ひたすら自分に恩賞を与えてくれる人物に従う事になります。ごく簡単に裏切りをし、さらにまた寝返るなんて事を日常茶飯事のように行ないます。源平合戦に較べ、南北朝の動乱がダラダラ続いたのは、武士が合戦において「命あっての物種」精神でのみ戦い、恩賞の多寡で北朝南朝を渡り鳥のように行き来したからです。
しかしそうやって武士のモラルが変質したからこそ、鎌倉武士の気高い精神が後の世まで代々語り継がれ、理想像として憧れたのではないかと思います。