今回は80年以上も破られず「The Untouchable Record」とまで呼ばれるメジャーリーグ最古の大記録保持者のシスラーの足跡を追いながら、これを更新したイチローへの賛辞としたいと思います。
セントルイス・ブラウンズ
左:サチェル・ペイジ、右:ロジャース・ホーンスビー |
セントルイス・ブラウンズは1901年にアメリカン・リーグ発足時に誕生したミルウォーキー・ブリュワーズが1902年にセントルイスに本拠地を移し、その時にブラウンズと愛称を変えた歴史ある球団です。弱小の名に恥じないチームで弱い頃の近鉄を思い浮かべてもらえばちょうど良い球団です。リーグ優勝をしたのは1944年に一度きり(Wシリーズは敗退)で、1954年に売却され本拠地をボルチモアに移し現在はオリオールズとなっております。
在籍した有名選手ではシスラーのほかは、通算245勝のジャック・パウエルや318本塁打のロイ・シーバースなどとなっていますが、野球のことならある程度古い選手まで知っているつもりの私でも聞いたことがありません。歴史に名を残す選手では、晩年のロジャース・ホーンスビーがプレイング・マネージャーをしたことと、伝説の黒人投手サチェル・ペイジも一時在籍しています。球団がなくなって50年、こんな弱小球団の主力選手の名前なんてよほどの記録を残していない限り誰も覚えていないのは当たり前でしょう。
そんな弱小球団で史上に残る大記録を樹立したシスラーと最下位マリナーズで記録に挑戦中のイチローにほのかな相関性が感じられるのは私だけでしょうか。たしかにイチローが所属したブルーウェーブもマリナーズもリーグ優勝、日本シリーズ制覇、地区優勝と決して弱小チームではありませんが、人気的には読売やヤンキースのように「普通」に活躍しても大々的に報道されるチームではありません。しかしそういう地味な球団で黙々と成績を積み上げたところにどこか似ていると私は感じてしまうのです。
ブラウンズはメジャー・リーグの記録に残るような成績は残しませんでしたが、記憶に残り語り継がれる椿事を起しています。
片八百長事件
1910年の首位打者争いは「球聖」タイ・カッブとクリーブランド・インディアンズの強打者ナポレオン・ラジョイとの間で争われました。タイ・カッブは「球聖」の敬称とは裏腹にルールで許されることならどんな事でも行い、それがどれほど周囲の顰蹙、反感を買おうとも全く意に介さない人物であり、1910年当時は「球聖」なんて呼ばれ方は当然なく、リーグの誰からも嫌われる「狂犬」として扱われていました。
一方でナポレオン・ラジョイはタイ・カッブ出現前の打撃の第一人者であり、通算安打3251本、通算打率.338、首位打者3回、三冠王1回、1901年に記録した打率.422は近代野球2位の高打率です。さらにタイ・カッブと違い球界の誰もが尊敬する人格者であり、タイ・カッブとナポレオン・ラジョイの首位打者争いは「あの憎たらしいタイ・カッブに首位打者のタイトルを渡したくない」と球界の誰しもが思うほどであったと伝えられています。
ナポレオン・ラジョイの最終戦で、ブラウンズの監督、コーチは結託してナポレオン・ラジョイにタイトルを渡すことを企みます。新人の三塁手に指示を与え深く守らせ、ラジョイに安打を生れやすくしたのです。結果としてラジョイは安打を積み重ねてカッブに並ぶ事になりますが、あまりに露骨なシフトであったことで八百長が発覚し、監督、コーチとも永久追放処分を受けます。タイ・カッブ憎しだけで行われたこの片八百長はメジャー・リーグ史上に記憶されています。
アイデア・オーナー
第2次大戦の影響で選手不足で苦しんだブラウンズは「マイナーリーグ経験者、大学野球経験者、その他腕に自信のある方はどんどんご応募ください」の広告を出し、これは今でも選手不足時代の椿事として引き合いに出されます。
また弱小ゆえに観客動員に苦しんだオーナーは、身長が1mそこそこの選手を代打に出して四球を狙ったり、その日の観衆の中で抽選で1日監督として指揮を取らせたりと、野球漫画でもなかなか思いつかないような事を実際に行って全米の話題をさらったりしています。
ジョージ・シスラー(Gerorge Sisler)
1920年のジョージ・シスラー |
1983年オハイオ州生れ、ミシガン大学で投手として頭角を現した彼は大学時代の恩師のブランチ・リッチーが監督として指揮を取るブラウンズに1915年入団。投手として活躍する一方で打者としての才能も認められ、翌1916年からはほぼ野手(一塁手)として活躍することになります。
この辺がいかにもその時代で、平気で野手として守っていた選手がマウンドに上がると言う風景がごく当たり前であったことが分かります。今時の高校野球でも予選段階でもないとなかなかお目にかかれない風景です。野手にほぼ専念と言いながら、シスラーは少ないながら登板機会はあり、最後の登板は引退の2年前の1928年に1イニングスだけですが出場しています。
投手としてのシスラーの記録を示します。
年 | 試合 | 先発 | 完投 | 完封 | 勝 | 負 | S | 回数 | 被安打 | 奪三振 | 四死球 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
15 | 15 | 8 | 6 | 0 | 4 | 4 | 0 | 70.0 | 62 | 41 | 38 | 26 | 22 | 2.83 |
16 | 8 | 3 | 3 | 1 | 1 | 2 | 0 | 27.0 | 18 | 12 | 6 | 4 | 3 | 1.00 |
17 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 8.0 | 10 | 4 | 4 | 6 | 4 | 4.50 |
20 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1.0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0.00 |
25 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2.0 | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0.00 |
26 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2.0 | 0 | 3 | 2 | 0 | 0 | 0.00 |
28 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1.0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0.00 |
計 | 24 | 12 | 9 | 1 | 5 | 6 | 3 | 111.0 | 91 | 63 | 52 | 36 | 29 | 2.35 |
単なる敗戦処理かといえばそうでもないようで、1926年に登板したときには2イニングを投げ三振3つを奪いセーブポイント(当時そんなものがあったかどうかは知りませんが)まであげています。普段ピッチングの練習などせずにこの成績ですから、シスラーの野球センスのものすごさを物語ると思います。
野手にほぼ専念してからの成績はまさしく素晴らしいもので、
年 | チーム | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 2塁打 | 3塁打 | 本塁打 | 打点 | 三振 | 四球 | 盗塁 | 出塁率 | 長打率 | 打率 |
15 | ブラウンズ | 82 | 274 | 28 | 78 | 10 | 2 | 3 | 29 | 27 | 7 | 10 | .307 | .369 | .285 |
16 | ブラウンズ | 151 | 580 | 83 | 177 | 21 | 11 | 4 | 76 | 37 | 40 | 34 | .355 | .400 | .305 |
17 | ブラウンズ | 135 | 539 | 60 | 190 | 30 | 9 | 2 | 52 | 16 | 30 | 37 | .390 | .453 | .353 |
18 | ブラウンズ | 114 | 452 | 69 | 154 | 21 | 9 | 2 | 41 | 17 | 40 | 45 | .400 | .440 | .341 |
19 | ブラウンズ | 132 | 511 | 96 | 180 | 31 | 15 | 10 | 83 | 20 | 27 | 28 | .390 | .530 | .352 |
20 | ブラウンズ | 154 | 631 | 137 | 257 | 49 | 18 | 19 | 122 | 19 | 46 | 42 | .449 | .632 | .407 |
21 | ブラウンズ | 138 | 582 | 125 | 216 | 38 | 18 | 12 | 104 | 27 | 34 | 35 | .411 | .560 | .371 |
22 | ブラウンズ | 142 | 586 | 134 | 246 | 42 | 18 | 8 | 105 | 14 | 49 | 51 | .467 | .594 | .420 |
24 | ブラウンズ | 151 | 636 | 94 | 194 | 27 | 10 | 9 | 74 | 29 | 31 | 19 | .340 | .421 | .305 |
25 | ブラウンズ | 150 | 649 | 100 | 224 | 21 | 15 | 12 | 105 | 24 | 27 | 11 | .371 | .479 | .345 |
26 | ブラウンズ | 150 | 613 | 78 | 178 | 21 | 12 | 7 | 71 | 30 | 30 | 12 | .327 | .398 | .290 |
27 | ブラウンズ | 149 | 614 | 87 | 201 | 32 | 8 | 5 | 97 | 15 | 24 | 27 | .357 | .430 | .327 |
28 | セネタース | 20 | 49 | 1 | 12 | 1 | 0 | 0 | 2 | 2 | 1 | 0 | .260 | .265 | .245 |
28 | ブレーブス | 118 | 491 | 71 | 167 | 26 | 4 | 4 | 68 | 15 | 30 | 11 | .380 | .434 | .340 |
29 | ブレーブス | 154 | 629 | 67 | 205 | 40 | 8 | 2 | 79 | 17 | 33 | 3 | .363 | .424 | .326 |
30 | ブレーブス | 116 | 431 | 54 | 133 | 15 | 7 | 3 | 57 | 15 | 23 | 7 | .346 | .397 | .309 |
合計 | 2055 | 8267 | 1284 | 2812 | 425 | 164 | 102 | 1175 | 327 | 472 | 375 | .379 | .468 | .340 | |
*セネタース(ワシントン・セネタース)、ブレーブス(ボストン・ブレーブス)、28年は年度内移籍 |
実働15年、2055試合に出場、通算安打2812本、通算盗塁数375個、通算打率.340、年間最多安打257本、年間最高打率.420、年間200安打を超えること6回、年間4割を超えること2回、MVP1回、首位打者2回、盗塁王4回。守備は「ゴージャス"Gorgeous"」の異名をとる名手であったと伝えられています。1922年に最多安打を記録したときに最高打率.420もマークし、この時首位打者を争ったタイ・カッブ(なんと打率.401で2位))をして"the nearst thing to a perfect ballplayer"と唸らせています。
年度成績のうち1923年が抜け落ちていますが、これは私の転記ミスではなくこの年インフルエンザが原因の視覚異常が起こりシーズンを棒に振っています。さらにその視覚異常はその後も残り、この年以降は抜群の選球眼に曇りが生じたと言われています。曇りが生じたと言いながらも、1924年以降に200安打以上を3回記録しており、それ以前に較べて三振数が格別増えているわけでもありませんから、もし視覚異常がなかったらとてつもない(この成績だけでも途轍もありませんが)成績を残した可能性があります・。
これだけの大選手がなぜイチローが記録更新に迫るまでアメリカでさえ忘れかけられていたのでしょうか。もちろん主に所属していたブラウンズが弱小であったことが原因のひとつであるでしょうが、シスラーが活躍した時代のメジャー・リーグの特異性もその原因のひとつと考えます。
1920年代のメジャーリーグ
イチローが記録を更新したらまず間違いなく「シスラーより試合が8試合も多い」と言われるでしょう。これはその昔、ベーブ・ルースの年間本塁打記録をロジャー・マリスが塗り替えた時もそうでしたのでまず間違いありません。80年も歳月を隔てているのですから、イチローとシスラーの記録達成の条件を同じと考えて比較すること自体がナンセンスです。8試合多いイチローのためにも1920年代のメジャーリーグの特異性をあげてみたいと思います。
メジャーの打撃記録の多くにこの1900年代前半の30年ぐらいの間に達成されたものが数多く残っています。幾つか出してみますと、
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*黄色背景の記録は1901〜1940年に達成された記録 |
年間最多安打は25位の中で戦後の選手はイチローを含めて6人しかいません。また打率もそうで、4割以上の25位まで列記しますと、19世紀の記録は現在のルールとかなり異なるものであり参考にしにくいとされているので、テッド・ウィリアムスを除くすべての4割打者がシスラーとほぼ同世代に誕生しています。
最後の4割打者テッド・ウィリアムス |
最後の4割打者であるテッド・ウィリアムズでさえ1941年のことであり、とくにシスラーが活躍した世代には8人(12回)もの4割打者が誕生し、今のように4割の打撃成績を残すことが実現不可能な神話と感じていない時代であったと言えます。当時の首位打者争いでも4割であっても首位打者になれなかった選手が二人(1911年のジョー・ジャクソン、1922年のタイ・カッブ)も存在する豪華さで、年間200本以上の安打を放つことは当時の強打者では当たり前のことであり、4割をマークすることもまた強打者の証明として手の届くものであったと言えます。
何が言いたいかといえばこの時代はまさに「打撃天国」の時代であったと言うことなんです。19世紀の記録はたしかに今とルールがかなり異なるところがあり、単純に記録を評価できないところがありますが、20世紀に入るとほぼ現在の野球ルールと同じと言ってもよいと言われています。
ベーブルースが本塁打を量産するようになった背景には1920年から禁止になったスピットボールの影響が大きいとされています。スピットボールとは文字通りボールに唾をつけて投げる変化球のことです。他にもエミリーボール(やすりで表面に傷を付ける)、グリースボール(松脂やグリースを塗る)、マッドボール(泥を擦り付ける)などまさに百花撩乱の公認反則変化球が存在し、当時の打者は今では信じられないような急激な変化をする変化球を打つ必要があったのです。
また当時の投手もサイ・ヤング(通算511勝)やウォルター・ジョンソン(通算417勝)のような大投手はいましたが、公認のスピットボールがあるのですから、当然それに頼る投手が大部分だったでしょう。これが禁止となれば打者にとって厄介な変化球は鈍い変化球に成り下がり、打ち頃の凡球と化したに違いありません。そうなればスピットボール時代でさえ高打率を残していた1920年代の打者が後世の選手がとても追いつけない信じられない大記録を残しても不思議はないと考えます。正確な資料が手許にないのが残念ですが、チーム打率はもとよりリーグ打率が3割を越えていた年もしばしばあり、そんな「打者天国、投手受難」の時代の記録と現在のイチローの挑戦を単純に比較しにくいのはもちろんのことです。
「球聖」タイ・カッブ |
メジャーリーグの通算打率成績を見ても打撃天国であったことはうかがわれ、生涯打率.340以上の15人の選手はすべて19世紀から1941年の最後の4割打者テッド・ウィリアムスで占められます。戦後の選手の最高はトニー・グウィン(首位打者8回の強打者)がかろうじて17位に通算打率.338で顔を出すのに留まります。首位打者7回の大打者ロッド・カルーで29位の.328であり、通算安打数でタイ・カッブを抜いた(4256本)ピート・ローズに至っては通算打率.303に過ぎません。
さらに投手の最優秀防御率も1919年までは1点台のそれも前半の成績だったものが、1920年からほぼ1点跳ね上がる2点台の前半となり、当時の超一流投手でさえスピットボール禁止の影響は甚大であった事は間違いなく、一流以下の投手はシスラークラスの打者にはバッティング投手と化していたのではないかとも推測されます。
シスラーの活躍がいつしか忘れ去られたのは、同時代のライバルにとんでもない怪物がうようよいたことが考えられます。本塁打はベーブ・ルースの独壇場でしかたがないにしろ、同じ一塁手には「鉄人」ルー・ゲーリック、首位打者を争う強敵には「球聖」タイ・カッブとメジャー・リーグの歴代でも屈指の大選手がおり、他にもロジャース・ホーンスビーやホーナス・ワグナーと言った超がつく大選手が活躍していました。シスラーの残した成績は驚嘆すべきものですが、生涯通算打率.366のタイ・カッブを筆頭に通算打率.340を越える猛者がひしめく中でのシスラーの成績は当時のトップレベルの中では決して突出した成績でなかったのです。
シスラーにとってもうひとつ不運なことはスピットボール禁止後に球界が注目する記録が本塁打に変わったことです。ベーブ・ルース時代以前の野球はコツコツと安打を重ねる打者に高評価が集まり、本塁打はそれほど注目されるものではなかったのです。ところがベーブ・ルースが時代を一変させるほどの本塁打を量産するようになると世間の目はコツコツと積み重ねる安打よりも本塁打の方に高い評価がなされ、「強打者=本塁打者」との共通認識が出来上がってしまったのです。これは基本的に今でも変わらず、本塁打を量産できる打者でないと強打者として評価しないのがアメリカの野球認識です。シスラーが全盛期を迎える頃にはそんな認識が相当広く行き渡っていたのは間違いなく、そのためもあって忘れられた強打者として扱われたのではないかとも考えてしまいます。
シスラー世代の伝説的強打者
タイ・カッブ
通算安打4190本、通算打率.366、通算盗塁892個、シーズン4割以上を3回、9年連続を含む首位打者12回、本塁打王1回、打点王4回、盗塁王6回、引退のシーズンでさえ.323の成績を残す。また「球聖」として今でも褒め称えられるが、自分の成績を上げるためにシューズのスパイクをやすりで磨き上げ、それで相手野手を傷つけることに何の遠慮もしない人物として知られる。
ロジャース・ホーンスビー
通算安打2930本、通算打率.358、通算本塁打301本、シーズン4割以上を3回(1923〜24年は2年連続、1924年の.424は近代野球最高の記録とされる。また右打者であることにも驚かされる)、6年連続を含む7回の首位打者、本塁打王2回、打点王4回、三冠王2回。通算安打数がやや少ないのは選手歴の後半にプレイング・マネージャーとして出場機会を減らしたためと言われる。
ホーナス・ワグナー
通算安打3415本、通算打率.327、通算盗塁722個、首位打者8回、打点王5回、盗塁王5回。ナショナル・リーグのスターとしてアメリカン・リーグのタイ・カッブと人気を2分したと言われる。。良い意味でのお人よし、奇人として知られ、「さまよえるオランダ人」のニックネームを持ち、大リーグ史上最高の遊撃手として今もって評価される。
ルー・ゲーリッグ
通算安打2721本、通算打率.340、通算本塁打493本、首位打者1回、本塁打王3回、打点王5回、三冠王1回、MVP2回。カル・リプケンJrに破られるまで保持していた連続出場記録2130試合は有名、敬称は「鉄人」(Iron Horse)。選手としての晩年は筋萎縮性側索硬化症に悩まされ、これさえなければカール・リプケンJrをもってしても更新不可能な記録を作っていたのではないかと言われる。
ベーブ・ルース
通算安打2873本、通算打率.342、通算本塁打714本、首位打者1回、本塁打王12回、打点王6回。投手としても優秀で通算94勝46敗4S、通算防御率2.48、最優秀防御率1回。シーズン最多本塁打記録、通算本塁打記録とも更新されたが、それでも最高の本塁打者であったことは誰も疑問を抱かない。どれだけ飛びぬけた成績であったかの傍証として、有名な年間60本塁打(1927年)のシーズン、彼はアメリカン・リーグの全本塁打数の13.7%を打ち、他球団のチーム本塁打数はいずれも彼の記録に及んでいない。
他にもトリス・スピーカー、エディー・コリンズ、フランキー・フリッシュ、チャーリー・ゲリンジャー、レフティ・ゴーメッツ、ハリー・ハイルマン、ナポレオン・ラジョイなどの強打者がまさに煌くように存在し、打撃天国の時代の中、後世が驚嘆すべき記録を残しながら、首位打者のタイトルを競っていました。
またシスラーが目標としライバル心を燃やしていたと言われるタイ・カッブは1907〜1919の13年間の間に12回の首位打者を獲得しています。しかしそこから引退する1928年までの間にタイトル奪還はついに果たしていません。緩やかな下降線でもたどっていたのでしょうか。決してそんなことはなく、少なくとも1921年には打率.389(ハリー・ハイルマンが打率.394)、1922年には打率.401(ジョージ・シスラーが打率.420)、1925年には打率.378(ハリー・ハイルマンが打率.393)と彼もまたライバルに苦渋をなめさせられていたのです。当時の首位打者争いは3割後半から4割を越すぐらいの成績が当たり前だったのです。
イチローの登場
ご存知イチロー |
野球、とくに打者の世界では本塁打を量産することが評価の中心になることは1920年代から今でも基本的に変わっていません。チームの中心打者、主力打者とはすなわち本塁打者のことであり、本塁打が量産できない打者は好打者とは評価されてもあくまでも打線の脇役であると位置づけられます。
ヤンキースの松井とイチローは同世代ですが、その評価(年棒)は少なくとも日本では同等か松井の方が上です。もちろん所属したチームの差もあるでしょうが、人気も含めて松井の方が上であったと感じています。ところが冷静に成績を見ると7年連続の首位打者であるということだけでもイチローのほうが格段に上であるのは一目瞭然です。
松井がイチローを上回っているのは本塁打数とクリーンアップに打順があることからの打点でのみです。打撃主要3部門のうち2部門も上回れば十分上ではないかと言う論法も成り立ちますが、打率の世界においては桁が違う差があります。松井の残した成績はあくまでも普通の一流の強打者の成績です。イチローの残した成績は歴代の好打者の成績をすべて凌駕する記録で、成績と言うよりもすべて歴史的な記録となるものです。
打法は有名な「振り子打法」でアメリカでやや変化していますが、これまでの打法の常識を覆すものであると言えます。極論を言えばこれまでの打撃指導は本塁打を打つための打法で、体の軸線をしっかり固定し安定した軌道でスイングすることを主眼とするものです。野球解説などで「投手にタイミングを崩されてバランスを崩した」的なものが多用され、「もっとどっしり構えて体の軸線がぶれないようにすることが必要」と結論付けられますがイチローの打法はそんな打撃理論とは無縁なところで完成しています。
通常の一流打者が行う打法がひとつとすればイチローは少なくとも3つ以上の打法を駆使しているといえます。アウトコース、インコース、変化球、チェンジアップなど投手が打者のタイミングを狂わそうとくりだす投球のすべてに瞬時にアジャストし打ち砕く打法です。アメリカではイチローの打法は野球のバッティングというよりもテニスのレシーブに近いとの解説がありましたが言い得て妙な表現だと思います。
決して本塁打を量産するのに適した打法ではありませんが、どんな投球にもしぶとくくらいついて安打にするイチローの打法は近代打撃理論の延長線上に存在するのではなく、むしろベーブ・ルース出現前のスピットボールに対応しながら安打を量産していた打法に近いものではないでしょうか。
アメリカに渡ったイチローは本場のメジャーリーグでも旋風を巻き起こします。その頃のメジャーリーグで一番熱狂されたのはマーク・マクガイヤ、サミー・ソーサ、バリー・ポンズが華々しく打ちまくる本塁打競争です。普通の安打に関しては4割はもう完全におとぎ話の世界になっており、年間安打数なんてものも物好きな記録マニアが話題にするぐらいで、これも80年も近づく者さえいない状態では忘れられた記録に等しかったと考えられます。
イチローは1年目から打ちまくります。驚異的に積み重ねられる安打数は瞬く間に現役メジャーリーガーのすべての記録を抜き去り、さらに引退して生存しているメジャーリーガーの大打者達の記録も抜き去り、いつしかメジャーリーガーでもすでに伝説化、神話化した大選手、名選手の記録と比較されることになります。
「シューレス」ジョー・ジャクソン |
ルーキーシーズン年間最多安打で引っ張り出された選手は「フィールド・オブ・ドリームス」でも有名な「シューレス」ジョー・ジャクソンです。それも当初は他の選手の記録がルーキーイヤーの記録とされていたのですが、イチローのものすごい記録ラッシュにあわてて忘れられた記録が調べなおされ、この伝説の強打者がイチローのために再脚光を浴びることになります。
そして今年はジョージ・シスラー。ジョー・ジャクソン以上に忘れられた大選手でアメリカでも記録マニア以外にはその名前さえ忘れられていた名選手です。年間最多安打部門ではイチローが登場するまでジョージ・シスラーの257安打を筆頭に10位までは1930年までに樹立した記録が近づくものを拒むように列挙され、D・アースタッド、ウェイド・ボックス、ロッド・カルー、D・マッチングリーなどの大選手が辛うじて近いところまで迫ったのがせいぜいです。
イチローがルーキーシーズンに記録した242安打は実に70年ぶりにベスト10に名を連ねるものであり、まずそれだけでも現役はもとより生存者で一番の成績です。今回の年間最多安打記録の更新は年間最多本塁打記録の更新と較べても、記録更新までの間隔の長さ、近づく選手の少なさからすると勝りこそすれどこも劣る点はないと胸を張っていえます。
それでも本塁打至上主義者の影
メジャーリーグでイチローの首位打者争いのひとりとされる選手の言葉に
「誰もイチローのやっている偉大さの半分も理解していない。彼は歴史を作っているんだ。」
本塁打に対する安打の評価の低さは悔しいほどです。日本でさえイチローの200安打を松井の本塁打30本と評価しようとする動きさえあります。イチローはルーキーシーズンから4年連続で年間200安打以上を続けていますが、この年間200安打とはそもそもどれほどの価値があるのでしょうか。ある評論家の説を引用すると、
「年間に200安打以上する打者は年に数人である。この希少性は本塁打なら50本以上、投手なら20勝以上に匹敵すると言える。」
手許にある資料で断言は出来ないのですが、かつての大打者たちでも年間200本以上を記録した回数は、タイ・カッブ、ルー・ゲーリックが8回、ロジャース・ホーンスビーが7回、ジョージ・シスラー、ビル・テリーが6回とそう容易に何回も達成できる数字でないことがわかります。どこかの資料でメジャー記録は7年連続であるというのを見たことがありますので、最高でもその程度であり考え方によっては本塁打50本以上や20勝よりも達成が難しい記録と思えます。
さらに付け加えればほとんどの記録は戦前の「打撃天国」時代に達成された記録ばかりで、現代野球で辛うじて匹敵する記録は「安打製造機」ロッド・カルーやトニー・グウィンぐらいしかいない活躍ではないかと思います。もうこれだけでも天国の球聖たちとゲームを楽しむのに十分な成績と言えます。
これほどすごい働きをしていてもそれでもイチローには批判がついて回ります。「安打は多いが長打力がない」、「外野手はもっと一発強打の選手でないと値打ちがない」などです。つまりは本塁打が少ないことに批判が集中します。いくらイチローが膨大な安打を積み重ね、盗塁数を増やし、レーザー・ビームと呼ばれる華麗な守備を披露しても、本塁打数の一点で評価を落とそうとする動きは絶えずあります。
この辺はイチローが日本人であることも理由としては濃厚に影を落としているのは確かです。「シスラーより8試合多い!」もこれから常に言われ続けるでしょうが、それでも心あるアメリカ人は決して少数ではありません。FOXだったと思いますが型どおりの「長打力がないからイチローは二流である」式の批判をしたところ、FOXの掲示板が壊れそうになるぐらいの反論が寄せられたのは記憶に新しいところです。
それに何よりもイチローが認められているのは月間50安打を打とうが、首位打者に立とうが、もうすでにそのこと自体がショッキングなニュースとして伝えられるものでなくなったことです。「それぐらいはイチローならやる」ともう全米では驚きではなくなっています。3割2分程度の成績で「不調」といわれる打者はそうはいないと思います。ましてや3割を切ろうものならその事の方がニュースになること自体がイチローが認められている証拠だと考えます。
年間最多安打への挑戦の後に残されているイチローへの最後の課題は4割への挑戦です。今季もイチローはロードゲームではすでに4割を達成していたはずです。シーズン前半の不調がもう少しましならば「夢の4割」は決して手の届かないものではない物になっています。だいそれたコメントを残さないイチローが「可能性がある」と言っている限り今季また新しいバッティングの境地を開いた可能性があり、今年までの成績でも十分大選手であることの証明をしていますが、4割まで達成するともうたんなる大選手ではなくベーブ・ルースやタイ・カッブのような球史に残る偉人と肩を並べる存在になるのは間違いありません。