不滅の名曲!?

たまたま某国営放送の番組で'70年代のアメリカのビルボード誌のベスト1になった曲を特集でやっていました。懐かしい曲、思い出の曲、初めて歌手の顔を見た曲、題名を初めて知った曲など私の青春を彩った曲の数々に思わず聴き入ってしまいました。そんな中でふとこの日本で名曲中の名曲はいったいなんだろうと言う思いにかられました。もちろんどれが名曲かは100人いれば100曲の名曲があるはずですから、あくまでも個人的な思いですので、そこらへんは軽く聞いてくださればけっこうと思います。

とりあえずジャンルを歌謡曲に絞ることにしました。クラシックや民謡まで広げると話の収拾がつかなくなりますから。そのうえで名曲の条件としてまずヒットしていないと話になりません。それとある程度年月がたってスタンダードになっている必要もあります。この程度の絞りではほぼ無尽蔵に曲があります。そこでさらに名曲秘話があるものに絞りました。どのヒット曲にもそれなりのエピソードはあるはずですが、かなりの数の人間が知っていて、なおかつそのメロディーとともに何度でも鮮やかに甦ってくる曲です。

そこまでで2曲が私の知っている範囲で名曲として認めてよいと思います。不死鳥コンサートの伝説に彩られた美空ひばりの「川の流れのように」と、神話の国のおとぎ話、坂本九の「上を向いて歩こう」です。

美空ひばりが大歌手であったことを知らない人間はいません。両手両足ぐらいでは数え切れないヒット曲もあります。ただ大歌手美空ひばりも私が子供の時にはすでに「過去の大歌手」になっていました。今で言えば紅白歌合戦にだけ出てくる北島三郎や五木ひろし、森進一みたいなものです。

流行歌手は時流に乗っている時は猛烈な勢いでヒット曲を量産できます。ただし一度時流から外れるとまず復活することはありません。最近の例では小室哲哉があれだけ売れたのに今では静かなものであるのが良い例です。安室奈美恵を思い出してもらっても良いかもしれません。

また落ち目になりかけていた頃の美空ひばりにはおもに家族のスキャンダルが相次ぎ、ついには過去の大歌手の養老院みたいな某国営放送「懐かしの・・・・」みたいな番組にもお呼びがかからなくなりました。今よりもテレビに出ていることが人気のバロメーターであることが濃厚な昭和40年代から50年代の事ですから、ついには名前は誰も知っているが歌っているのを見たことの無い歌手になってしまっていました。私も生中継で美空ひばりが歌っているのを見たはっきりした記憶がありません。そこまではっきり「過去の人」の烙印が押されていた美空ひばりが「川の流れのように」で復活するのですから、これがドラマでなくて何がドラマなんでしょう。

レコーディングの時のエピソードや、再起不能と呼ばれた重症の病床から奇跡の復活での東京ドームの不死鳥コンサートの様子はあまりにも有名で書いても書ききれないので、名曲誕生の知られざるドラマを書いてみたいと思います。

ドラマは美空ひばりの新しいアルバムを秋元康に頼もうと美空ひばりのプロデューサー(境弘邦氏)が決断したこと始まります。当時の秋元康はおにゃん子クラブで次々とヒットを飛ばしていた売れっ子ライターでしたが、作られた歌自体は秋元康本人がこう認めています。

「変化球で、面白いじゃん!っていう風に言われてきた作詞家なんですね。つまり、あのー、言葉の作詞家ではなくて、企画力のある作詞家だったんです。・・・」

今ならモーニング娘で次々とヒットをとばしているつんくのような存在で、日本歌謡界の女王にふさわしいと言えば今から考えても疑問です。北島三郎につんくが曲を作るぐらい違和感を覚えるものでした。(北島三郎さんごめんなさい)

結果的に偉大な決断になりました。なぜに秋元康だったのか、境弘邦氏はこう語っています。

「非常に今でも印象に残ってるんですけど、40何年間歌ってきて、自分のお客さんの中で1番遠い所にいるお客さん、歌手美空ひばりとしての空洞の部分、っていうのが30代のお客さんだという話が出たんですよ。自分のレコードの売り上げを見ても、ファンクラブの人を見ても、どこを見ても周りを見渡して、30代の人っていうのが1番私に遠いところにいるお客さんだ、っていう風にひばりさんが言ってましてね。30代の人、お客さんに向かってアルバムを作ってみない?っていう、ひばりさんからの提案だったんです。」

ひつこいようですがそれでも秋元康です。よくこの企画をうけたなと思うのですが、

「作詞家という肩書きを頂いた以上、一番歌の上手い方の詞を書きたいなというのが、一番のきっかけですかね。」

当時の心境としてと語っていますし、

「・・・それじゃあ、1度王道をやってみよう!と。ですから、その、直球でどれくらい勝負出来るんだろうというのは、凄く楽しみでしたね。」

とも語っています。

で肝心の「川の流れのように」ですが、アルバムの構成上どうしてもバラードが欲しいという要請で作られています。作曲したのは一風堂(すみれSeptember Loveが懐かしい)の見岳章。それまでも秋元康と何回もコンビを組んでいた彼の元に作曲の要請が行われます。当時のことを次のように語ってます。

「突然電話が来るんですよね。で、美空ひばりさんのアルバムを作ってて、まぁバラード、なんか大きなバラードみたいのがちょっと足りないんで、書いて欲しい、と。『えっ!』ってちょっと一瞬固まったんですよね。1週間ぐらいしかなかったんですよ。まぁでも、とにかくまぁやってみるしかないから、俺もプロだ!みたいな(笑)。要するにスーパースターなわけですよね、日本の歌謡界の。で、僕はちょっと完全に洋楽系の人間で、しかも余計ひねくれてる訳ですね。テクノとか、そういう面白さでやってきたっていうか。だから逃げられない、(演歌は)メロディ命みたいな楽曲じゃないですか?逃げられなくなった訳です、やりますって言ったことで。」

秋元康が見岳章に伝えた曲のイメージは

「まぁ人生っていうんだから、要するに心の中で映像とか思い出とか、なんかそういうのが見えるようになればいいんじゃないかな?っていうことだったんで、まぁ1番シンプルに・・・(ピアノを弾きながら)これはカーペンターズなんですけど・・・。
そんなのを何となくダラダラ弾いて(川の流れのように、は)こう1個ずつ切れてるんですよ。だから(再度、カーペンターズを弾いて)これ2小節つながってますよね。流れていくんですけど、何かお洒落過ぎる。何かもっと静かに始まって最後にブワーッといくのじゃないと、多分OK出ないだろうなとか色々感じてて(笑)。とりあえず、トツトツと始まるからもう1小節で切れる(ピアノ弾きながら)こういう風に。で、何かサビの前、ザッザッザッザッザ、(再度ピアノ弾く)ってデカイなーと思って、これはいいなーと思って。」

と見岳章は後に語っています。

これも意外だったのですが、メロディーができあがってから曲が作られています。それでもって歌詞を書いていたのがなんとニューヨーク、いかにも日本的な歌詞なんでてっきり日本で作られたと思っていました。作詞の時の情景を次のように語っています。

「多分その時に僕がちょうど結婚したばっかりだとか、作詞家として凄く忙しくて、だからそこで改めて人生ってものを考えたのかもしれませんし、それとニューヨークに来たけども、望郷の念みたいのもあったんでしょうし。その時に31丁目のマンションに住んでいたんですけれど、そこから見下ろすイーストリバーが、あぁこれも日本につながってるんだな、とかね、そんな想いが多分モチーフとしてどこかにあったんだと思うんですよね。」

実は歌詞を書いた場所も分かっていまして、ワシントンスクエアの近くの「カフェ・ランターナ」という店だそうです。それにしても歌に出てくる川がもともとニューヨークのイーストリバーだったとは意外でした。熱心なひばりファンなら一度見に行ってもよいかもしれませんね。

こうしてできあがった「川の流れのように」ですが最初はあくまでもアルバムのなかの一曲であって、シングルカットするつもりで作ったものではなかったのです。ところがレコーディング終了後、ひばりはこの曲をシングルカットすることに執拗にこだわったのです。プロデューサーの境も作詞をした秋元も大反対でなんとかひばりを説き伏せようとしましたが、結局押し切られてしまいます。

いくつもの「もし」がこの曲には織り込まれています。秋元に曲を頼む発想が境に浮かんだこと、その境からの執拗な要請をある意味まったく畑違いの秋元が受諾したこと、さらにこれもまったく畑違いの見岳が作曲を受けたこと、さらに単なるアルバム中の一曲にすぎなかったものをシングルカットにもちこんだひばりの執念。どのひとつがかけてもこの曲は世に出ていなかったでしょう。

たかだか10年少し前のことなのに私自身も記憶が混乱している部分がありますのでもう一度整理してみると驚くべきことに気づきました。簡単に年表を整理してみましょう。

'87.4(S.62.4) 大腿骨頭壊死と肝硬変により再起不能と言われる
'88.4.11(S.63.4.11) 東京ドーム「不死鳥コンサート」
'88.10.28(S.63.10.28) 「川の流れのように〜不死鳥パートU〜」録音
'88.12.1(S.63.12.1) 「川の流れのように〜不死鳥パートU〜」発売
'89.1.11(S.64.1.11) 「川の流れのように」シングル発売
'89.2.7(H.1.2.7) 入院
'89.6.24(H.1.6.24) 死去

これは私だけの誤解かもしれませんが、この年表を整理するまで、

「川の流れのように」発売→発病→不死鳥コンサート→死去

そういう風に時間の流れを考えていたのですが実際は、

発病→不死鳥コンサート→「川の流れのように」発売→病気再燃→死亡

であって、決して不死鳥コンサートのフィナーレでひばりが「川の流れのように」を絶唱してヒットの起爆剤になった訳ではなかったのです。さらに「川の流れのように」がシングルカットされてからひばりが入院するまで1ヶ月もなく、先行発売されたアルバム発売からでも3ヶ月しかありませんので、それまでにひばりが観客の前で「川の流れのように」を歌った可能性があるのは公式記録には、

'88.12.25(S.63.12.25)・・・帝国ホテルのディナー・ショー、孔雀の間
'89.1.15(S.64.1.15)・・・・・テレビ東京「演歌の花道」
'89.2.6(H.1.2.6)・・・・・・・・福岡サンパレスホール昼夜公演
'89.3.21(H.1.3.21)・・・・・・ニッポン放送10時間ラジオ「美空ひばり、感動この一曲」を自宅から放送

この3回しかありません。やはり死期を無意識のうちに感じていた”世紀の歌姫”美空ひばりが、自らの白鳥の歌であると彼女だけは最初からわかっていたのかもしれません。彼女のこの歌に対する思いが残っています。

「今、一番愛しているもの、大事なものは?と聞かれるんですが、それはもちろん歌ですね。
それでは、私が今一番愛しているこの歌をお送りします。」

ある年代以降、美空ひばりは不遇でした。「過去の大歌手」の烙印も押されそうになっていましたし、実際押されていたと言っても良いでしょう。それが人生の最後の最後に自分の死と引き換えにしてとてつもないヒットを生み出したと言っても言い過ぎではありません。美空ひばりのその他の名曲ももちろん長く歌い続けられるでしょうが、「川の流れのように」は彼女の不死鳥伝説とともに不滅の名曲としていつまでも歌い継がれていくのもまちがいありません。

「川の流れのように」が長くなりすぎましたので、神話の国のおとぎ話、坂本九の「上を向いて歩こう」は次回にさせていただきます。

*このエッセイを書くに当たりまして、テレビ東京「そして音楽が始まった」サイト、美空ひばり公式ウェブサイトおよびNHKプロジェクトXサイトから多数の引用・参照をさせていただいたことに感謝します。