伝説の剣客

名字が同じだもので、子供の時から宮本と言えば「宮本武蔵」と言われた思い出があります。もっとも歴史上で宮本と名がつく有名人は宮本武蔵ぐらいしかいませんから、しかたがないというところです。今回は武蔵も含めて日本の剣術のあれこれのこぼれ話をタラタラと書き並べてみたいと思います。ただし武蔵が有名だからと言って私とは血縁的にはまるで無関係ですし、剣道はもちろん他の武道、いやスポーツ一般どれも本格的には取り組んだものはありませんので細かい間違いは読み流して下さると幸いです。

日本刀の成立

剣術と言えば日本刀がセットになりますが、この武器自体は遥かな昔から(あたりまえか)相当の完成度で成立していたようです。写真は聖徳太子が持っていたと伝えられる七星剣(複製品です)ですが、おそらく藤ノ木古墳なんかから発掘された剣もこんな感じだったと考えています。正倉院御物の複製品なんかも似たような感じでしたから、おそらく中国や朝鮮からの輸入品なんでしょうが、古代大和朝廷の貴族はすでにこんな剣を持っていたと考えてよいと思います。

だし見てお分かりの通り装飾要素のほうが強く、権威の象徴として使われたのが実情だったようです。それでも実用度は高く、大化の改新で中大兄皇子が蘇我入鹿の首を切りとばしたことでわかるように、切れ味は抜群だった様ですし、それなりの刀法もあったかもしれません。

それとこの剣をよく見てもらうと刀身がまっすぐです。日本刀独特の弯曲になるのはどうやら平安時代以降になるようで、源平時代には絵巻物で見る限り私たちが知っている日本刀にほぼなっています。

直刀から弯曲した日本刀への変化の理由は、直刀時代が歩行での戦闘を想定して突くことに戦法の主体を置いていたのに対し、時代が下るにつれ騎馬の武者が馬上から薙ぎ払う戦法が主体となったためとされています。ただそれならば江戸時代以降、再び歩行での格闘が主体となったのに弯曲したままであるのが不思議なのですが、よく考えると竹刀がまっすぐなので、歩行での格闘はやはり基本的にまっすぐのほうが有利なのかもしれません。

弯曲が主流となったもうひとつの原因として、刀身がカーブしているほうが物理的に切断力が増すからという説もあります。言われてみれば包丁もそのほとんどが微妙に刃先がカーブしていますので「なるほど」と思わせる部分もあります。この辺のことは日本刀の専門家がいろいろ研究してはりますので、興味のある方は山ほどHPがありますので探してみてください。

日本刀の完成および黄金時代は鎌倉時代に来ます、有名な正宗や貞宗、村正なんかが活躍した時代です。これも不思議と言えば不思議なんですが、鎌倉時代以降の刀は盛衰はありますが、結局この時代の作品を越えることが出来なかったようです。技術と言うのは時代とともに進歩するのが通常ですのにおかしな話です。日本刀の需要がその後急速に衰えたと言うのならわかるのですが、少なくとも明治維新まではかなりの一定した需要があったはずなのに、技術がむしろ衰えたと言うのは一体どういう理由なんでしょうか。残念ながら各種資料はこの点について明快な説明をしているものはありません。というわけで日本刀の究極と言われる正宗の写真を見てください。

源平、鎌倉時代の戦法

かなり寄り道しましたが、日本刀自体は早々と完成しましたが、肝心の剣法は発達はどうだったのでしょう。刀を主に使うのは誰かと言えば当然武士や侍と言われる武者なんですが、刀剣による格闘法はあまり重視されてなかったようです。源平時代から鎌倉時代にかけて武者の地位は大いに上がり、その経済力から華麗な武装で覆われるようになってきます。思い浮かべてもらうのは五月人形のスタイルが適当かと思います。現実はもっとバリエーションがあったとも思うのですが、大鎧と称される鎧や兜、腰には太刀をさし、大きな弓と矢を携えたあの格好です。

どうやら鎧兜と言う防御力が飛躍的に増した結果、いくら名刀で切りつけても相手を殺傷するのは容易ではなくなったようで、そのため鎧を貫ける破壊力をもつ弓矢が重視されたようです。また刀は相変わらず高価でしたし、使用法も結構難しい武器でしたので、騎馬武者以外の雑兵はもっと単純な破壊力を持つ槍だとか、薙刀みたいなものが主流であったようです。(もっとも槍は資料によると南北朝時代以降に出てきたような気もしますが、竿の先に短刀をつけたような槍はあったのではないかと思います。)

だから源平、鎌倉時代の軍記物を見ても弓矢の名人の話はたくさんありますが、刀剣の名人の話はほとんど出てきません。もちろん刀は使っていました。源平、鎌倉の武者による一騎打ちは当然刀を振るってのもですから使うのは使ってました。ただしテレビや映画のように鎧武者を一刀の下に切り捨てるなんて格好の良いものではなくて、実際は刀でお互いを殴りあい(鎧を着ていても当然痛い)、相手が弱ったところでのしかかり、鎧の隙間に鎧通しと呼ばれる短刀で止めを刺すと言ったもののようです。

だから刀の事を「打ち物」と言う表現で表していると考えられますし、力一杯の殴り合いですから、体の大きなもの、力の強いもののほうがより重くて長い強力な刀を使えるため当然有利になります。平家物語で唯一、刀を使って小男が大男を倒すシーンとしては牛若丸(後の義経)と弁慶との対戦がありますが、あれも弁慶が鎧兜を着てないから成立する話でして、五条大橋の上で弁慶を翻弄した義経も、その後は決して平家武者とまともに一騎打ちすることなどはなく、壇ノ浦の合戦でも追いすがる能登守教経を八艘とびでかわしています。義経ぐらいの力では生身の人間相手には通用しますが、鎧兜をきた武者にはまったく通用しなかったことを表していると思います。

この流れは鎌倉、室町、戦国時代とほぼ共通して一貫したようで、戦国大名の強さの美称としては「海道一の弓取り」と言う表現が普通だったようですし、武者の強さの美称も「槍仕」という言い方が多く、戦場の個人の主武器が槍であり、武者の表芸が弓矢であるのが一般的であったようです。もっとも弓矢は鉄砲の出現でそれ以前に比べると重要性が減ったところもありますが、武者の武器は刀剣ではなく槍であったことは間違いありません。

剣術の誕生

剣術なるものが普及し始めるのはどうも戦国時代も末期になってからのようです。通説では関東の常陸(茨城県)の鹿島神宮や上総(千葉県)にある香取神宮の神人(僧兵の神社版)が工夫して興ったとされています。だから今の剣道場や時代劇の剣術道場には「香取大明神」や「鹿島大明神」の掛け軸がよくかかっています。ただし扱いは低かったらしく、「芸者」という呼ばれ方でたいして尊重されず、剣術が上手だからと言って合戦場での働きは別物であるとの共通認識がかなり徹底していたようです。どうしても鎧兜の壁は厚く、刀ではこの防御を突き崩すのはこの段階にいたっても実用的とは戦国武者たちはどうしても思えなかったようです。生死の境を潜り抜けてきた戦国武者にとって、たかが刀剣で槍を持った鎧武者との格闘なんてリスクが多すぎて、そんな技術を振り回されても棒振りダンスの大道芸にしか見えなかったと言っても良いと思います。

剣術が普及し始めるのは大坂城が落城して元和偃武と呼ばれる長期平和の時代が来てからです。合戦が無くなれば合戦場で自然に鍛えられた戦闘術の伝承はなくなります。武士だからと言って練習なしでは武器の使用が上手くなりません。そこで武器の使用技術の教師として剣術家が重用されるようになります。さらに剣術家にとって有利になったのは、実際の戦闘では槍が有利なのは明らかなんですが、平和な日常ではそうそう持ち歩くわけにはいかなくなり、日常の携帯兵器として刀剣の存在が重くなったことがあげられます。さらに刀剣の威力を妨げていた鎧兜も槍以上に使われることが無くなり、結果として生身の人間相手の武器になったので剣術が重要になったと考えられます。

当時の剣術がどんなものであったのかは憶測するしかありませんが、現代のものとはかなり異なった練習法ではあったようです。基本は組太刀と呼ばれるもので、簡単に言うと「相手が面に打ち込んできたら、それをすりあげて交わし、相手の剣が流れた隙を狙ってこちらから面を打つ」なんてことを両方が約束のもとに型として練習するものであったようです。

この方式の剣術練習法は幕末に竹刀や面篭手などの擬似実戦練習法が開発されるまで、しごくポピュラーなものであったようです。この方式でもたしかに名人上手は誕生していますが、よほどの才能が無い限りたんなる棒振りダンスになることがほとんどだったようで、天才のためだけの練習法であったとも伝えられています。

伝説の剣客は本当に強かったか

この当時の剣客は後世まで伝えられる名人、達人が群雲のように出現しています。宮本武蔵、柳生石舟斎、柳生但馬守、塚原卜伝、伊藤一刀斎、小野次郎右衛門なんかが有名です。ほとんど神秘化された剣客達ですが、どれほど強かったのでしょうか。伝えられた話は人間業をはるかに越えた超人的なものばかりですが、はたしてそんなに強かったのでしょうか。強いと仮定しての話であれば伝説をズラズラと並べるだけでお茶を濁せますが、ここではあえてそれほどでも無かったのではないかとの立場で話を進めてみたいと思います。

まず当時の剣客たちの一般的なレベルですが、そのほとんどが力任せに刀剣を振り回すレベル前後であったと考えられます。パワー一辺倒の直線的な攻撃で、非力なものが刀で受け止めてもそれを弾き飛ばして切り倒すの唯一の戦法であったんじゃないでしょうか。防御もスラリとかわすような上品なものではなく、がっきと受け止めてそれをはじき返して、また切りかかるようなもので、何回か繰り返しているうちにへばったほうが負ける体力勝負を想像します。

鎧武者時代の一騎打ちとさほど進化はありませんが、生身でやる分だけ直接相手の刀剣を体に触れないようにする工夫の進歩はあったはずです。わかりやすく言えば、鎧武者時代は「こんちくしょう」と打ち込んで空振りして、どっと体勢を崩してそこに相手の刀剣でばっさり切られても、結局打撲程度の負傷しかしませんから、「痛っ!、チョコマカしやがって、今度こそこんちくしょう」の世界が展開されます。これが生身になるとズバッと切られて致命傷になるになるのが大きな違いです。

伝説の剣客たちは防御とそこからの攻撃に転じるポイントに工夫を重ねたのではないでしょうか。つまり相手はある程度の間合いから全身全霊を込めて打ち込むと、普通であれば刀剣を横にしてこの攻撃を受けると信じ込んでいます。相手の戦法はこの受け止めにきた刀剣をできるだけ強く叩き、うまくいけばそのまま相手に十分でないにしろ負傷を与えるか、受け止めさせた衝撃で体勢の崩れをおこさせて、その後の戦闘を有利にしようと考えているはずです。

そこで相手の攻撃を自らの体勢を崩さないように受ける工夫、たとえばまっすぐに振り落としてくる相手の刀剣を、こちらも刀剣を立ててむかえうち、相手の刀身に横から圧力を与えて太刀筋をずらさせて空振りさせて、相手の崩れた体勢をすかさず攻撃するなんてことを編み出したのではないでしょうか。

上に書いた戦法は超人にしかできないような難しい技ではなく、中学の剣道部ぐらいでも普通に行われている技です。ただ後世と違うのは当時の剣術常識では、そんな戦法は見たことも聞いたこともなかったはずです。見たこともない戦法をいきなり出されたら、相手にとって奇術を見るようなもので、たしかに相手の体に向かって打ち込んだはずなのに、気がつけば相手が目の前から消え去ってしまい、次の瞬間にはバッサリ切られておしまいになったはずです。またこの当時の試合は真剣勝負でしたから、たとえ木刀であっても負けたほうは死亡するか、大きな怪我を負って不具者になってしまいますから、ひとつの防御攻撃戦法を編み出せば天下無敵と言うことになります。

日本剣術の黄金時代は幕末に再び訪れます。千葉周作、桃井春蔵、斉藤弥九郎、寺田五郎右衛門、白井亨、坂本竜馬、桂小五郎、武市半平太などなどです。この頃はもう現代の剣道と同様の練習法が開発され、その技術・戦法など、現代よりも明らかに上であると資料的にも容易に推察される時代です。道場剣術はいまよりさかんであったでしょうし、実戦でも新撰組に代表されるように日常茶飯事の時代です。

当時の達人や名人は掛け値なしに強かったようですが、今でも変わりませんがいくら名人・達人でもその攻防の範囲はある程度一定したルール・法則に基づいて行われます。その法則から外れた新戦法をいきなり出されたら、いくら名人でも初見ではそうそう勝てるものではありません。

実証例をあげてみたいと思います。その頃、岡田奇良という剣客が柳剛流という戦術を編み出しました。どんなものかと言えば、竹刀をふりかぶって思い切り振り落とし、面にきたなと思っていると、そのまま相手のすねを狙い撃ちする戦法です。それも一撃ではなく、はずされれば2撃、3撃と相手がかわし切れなくなるまで続け、相手の体勢が崩れたところを狙い打つ戦法です。

この戦法の前には幕末の剣豪たちが軒並み総崩れで敗退しています。初見ではどうにも対処法が編み出せなかったようです。何度も苦杯を喫してようやく対策を編み出してこれを撃退できるようになっていますが、撃退法もかなりの修練を要するもので幕末の著名な剣豪たちは柳剛流を相手にするのを大変嫌がったそうです。

また同じ頃、九州の剣客の大石進・進次郎の親子の江戸剣客への挑戦も有名です。短槍ほどもある長竹刀で強烈な突きを電光のように繰る返す戦法で江戸剣壇を席巻した記録が残っています。このときも名だたる剣豪たちが軒並み敗退し、最後のほうでその試合振りを入念に観察し、対処法を編み出して何とか撃退しています。

江戸初期の剣聖たちに比べ、はるかに精緻な技を繰り広げていた幕末の剣豪でも、初見の新戦法にはやすやすと敗退を繰り返しています。江戸初期の剣聖がもしひとつでも新しい新戦法を開発したら、幕末の時のように何度も竹刀での試合を繰り返すわけではありませんし(負けた相手は死亡していなくなるため)、情報伝達が幕末に比べてもはるかに劣る江戸初期では神秘的な剣聖と呼ばれても不思議はないと考えます。だから江戸初期の剣聖たちの実力はそれほどでもなかったんじゃないかとの推測も成り立つと考えます。

それでも江戸初期の剣術水準では抜きん出たものであったのは間違いありません。それに源平時代から戦国時代までほとんど進歩の無かったパワーのみの剣術に「技」という新要素を加えたのは、パイオニアとして十二分に賛美して惜しみの無いものだと思います。コロンブスの卵の例えもあるように、わかってみれば誰でも出来そうなことですが、それを思いつき実行するのは大変であることも間違いない真実であるからです。

えらい長い解説になってしまい、本題にしようと思った佐々木小次郎の話までたどりつけなくなってしまいました。そういう訳でこれだけの前置きをしておいて、次回は佐々木小次郎の燕返しの謎と、巌流島の決闘の真相に迫ってみたいと思います。