続伝説の剣客〜佐々木小次郎の燕返し〜

小次郎像謎の剣客

宮本武蔵の宿命のライバルと言えば佐々木小次郎です。泥臭い武蔵に比べると、ニヒルで眉目秀麗な天才剣士と言う役回りで小説などには書かれています。また単なる敵役としてのふてぶてしい悪役ではなく、武蔵をベートーベンとすれば小次郎はモーツアルトに例えるとちょうど良いぐらいの文字通りの好敵手です。もちろん実在の剣士で有名な巌流島の決闘も細川藩の公式記録に残されています。ですので出自、来歴なんかもはっきりしているだろうと思っていたのですが、実際は実像のよくわからない人物のようです。

信頼できる資料で確認できることは、細川藩の剣術指南役であったこと、物干竿と呼ばれる長剣で必殺技「燕返し」を駆使したこと、巌流島の決闘で武蔵に敗れたことぐらいしかわかっていません。一体どこの出身で誰が師匠であったか、そもそも師匠などいたのか、武蔵との決闘のときに何歳であったのか、武蔵以外の決闘の記録などほとんど無いに等しい人物です。

これぐらい謎の人物であるのに、その名前はあまりにも有名です。小説の中では武蔵のライバルとしてチラチラと登場していますが、その存在は格闘技系の漫画に前提なしに無条件に強いと設定される敵役のようです。信頼できる資料上でも武蔵のライバルとして突如現れ、巌流島で彗星のように消え去っています。書き残された資料には残っていませんが、北九州や山口では小次郎の人気は武蔵をしのぎ、決闘の地である舟島が巌流島と言い伝えられたように、当時はその地方で相当人望のある名士であったことだけは推測できます。

通説では越前宇坂の庄浄教寺村の出身となっていますが、この根拠は武蔵の五輪書に書かれていただけということで、資料的には明記されているのがこれしかないのです。五輪書そのものは名作なんですが、そこに書かれている事実はかなり武蔵が脚色している面があり、史実としてとらえるにははっきりいって嘘間違いがかなりあります。他にも長府説、豊前説などがそれなりの説得力を持って転がっています。

また師匠は中条流の鐘巻自斎ともなっていますが、これも吉川英治が名作「宮本武蔵」で採用したので通説になっていますが、根拠は必ずしもしっかりしたものではありません。研究者の間では鐘巻自斎のさらに師匠である富田勢源説も有力なものとして語られています。この混乱の火種になっているのが佐々木小次郎と言えば巌流なんですが、佐々木小次郎とは全く別人で佐々木巌流なる剣客が実在し(信頼できる資料に間違いなく存在しています)、この剣客は武蔵などとは決闘せず、ちゃんと天寿を全うしているのです。

佐々木小次郎の伝承が混乱しているのは、巌流佐々木小次郎と佐々木巌流という二人の人物がほぼ同時代に存在し、どうも二人の来歴がごちゃまぜになって後世に伝えられたためではないかと考えられます。もう少し突っ込んで言えば佐々木小次郎の名は巌流島で有名なので後世の人間が小次郎を調べようとした時、出てくる資料が佐々木巌流のものしかなかったので、当然この二人は同一人物と判断して伝えたのではないかと考えます。つまり先ほどあげた間違いない事実以外のことは佐々木巌流の話が相当混ぜ込まれているような気がしますし、二人は年齢も経歴も住んでいる場所も全く違いますので、その無理を埋めるために創作された話が混乱に輪をかけているとも考えています。

無敵の燕返し戦法

それでもって本題の佐々木小次郎の必殺技「燕返し」とはいったいどんな技だったのでしょうか。世の中には名前ばかりが有名で実態がはっきりしない必殺技がいくつかあります。上杉謙信が川中島の決戦で用いた「車懸りの陣」、姿三四郎(西郷四郎)の「山嵐」、三船久蔵の「空気投げ」などが有名ですが、「燕返し」もそのひとつだと思います。できるだけ想像力を働かせて推測してみましょう。

前回のcoffee breakで長々と論じたとおり、小次郎が活躍した江戸初期の剣術レベルは相対的にそんなに高いものではなかったと考えています。少しだけおさらいをしておきますが、当時の剣士の基本戦法は力一杯真正面から打ち込むことで、たとえ相手がこれを刀で受け止めたとしても、その勢いで体勢が崩れるの狙って打ち込み、その体勢の崩れを狙って一撃を放つ、てのがポピュラーな戦法であったと考えています。受けるほうも受けるほうで、体勢を崩さないように相手の刀を受け止め、むしろ弾き返して相手の体勢の崩れを誘うのが当時の剣術戦法の常識でなかったかと考えています。後世になり剣聖と称えられた剣士たちは、おそらく相手の単純な一撃をスマートにかわす技術を編み出して、無敵を誇ったのであろうと考えています。

小次郎像(巌流島)燕返しは伝説では岩国の錦帯橋の近くで空を飛ぶ燕を切り落とすことで自得したとされています。燕を斬るといっても天高く舞っているのは斬りようがありませんから、燕が餌を求めて水面近くを飛びまわり、河原近くで急反転して飛び上がるところを斬った可能性が高いと考えられます。すると燕の運動は下から上に動く垂直運動になります。

問題は縦に斬ったか、横に斬ったかです。条件がそろえば縦のほうが斬りやすいのは確かです。大上段にふりかぶって燕が下から上に飛び上がってくるのに対し、上から剣を振り下ろせば当たる確率はかなり高いといえます。ただし燕がキラキラ光る刀を構えた人間のすぐ前を飛んでくれるかどうかは大いに疑問です。横にと言うことになれば、物理的には大変難しいものになります。縦に急速に移動する物体を横からの動きで捕まえようとすれば、交差するのはほんの一点だけで、少しでもタイミングが外れれば空振りです。ただし構えるのが低い姿勢をとり、居合いのように鞘に収めた状態から抜刀するのでしたら、燕が近くを飛ぶ可能性は十分あり、私は横切りであったと結論しようと思います。

燕返しの本体が電光の横薙ぎの斬りであるとしても、単にそれだけのものなのでしょうか。剣術で一番動きやすい攻撃法は刀を上から下に振り下ろす攻撃です。頭の上にふりかぶって刀の重さとともに相手に力一杯斬りかかる、現在の剣道でもこの基本形を相撲取りがシコを踏むように練習します。小次郎時代も剣術修行の第一歩はそこから始まっていると考えてよいと思います。またこの攻撃は単純ではありますが、案外防御の難しい攻撃で、人間の視界は目線より下には見えやすいのですが、目線より上のほうを見上げることを苦手としているため、受けに回ると体勢を崩しやすくなります。

防御技術も自然と頭上から振り落としてくる刀に対するものが中心となりますので、小次郎の横薙ぎ攻撃は相手の意表をつく可能性はあります。ただ横の動きよる攻撃は視界の中にとらえ安いという欠点もあり、いくら電光の横薙ぎでもそれだけで必殺技にはなるかどうか疑問が残ります。また横薙ぎ攻撃を取る体勢と言うのは上下運動による縦の攻撃に対し、とくに頭上が無防備になると言う欠点も同時にあり、そのあたりの要素を何か解消する複合技でないと真の必殺技にはなりにくいと思います。

燕返しの本体が横薙ぎ攻撃であると書きましたが、これを真横と考えずに斜めに切り上げる様な動きとすればどうでしょうか。あんまり変わらないんじゃないかと思われるかもしれませんが、そうすることにより恐ろしい必殺技の誕生の可能性が出てきます。小次郎の愛剣「物干竿」は日本一とも呼ばれた長剣なんです。当然相手は一目見ただけでその長さはわかりますから、対戦距離つまり間合いを普段より広めにとろうとします。初めて見る長剣ですからついつい余分なぐらい広めに取ってしまう可能性があります。長いと言っても刀身で3尺(1m)程度のものですから、そんな状態では物干竿といえども到底届きません。そこで小次郎はまず縦の攻撃を行います。もともと余計なぐらい広い間合いを取っているのですから、相手はそのままないしわずかに後退するだけで容易にかわせます。かわされた小次郎は刀が地面近くまで下がった状態なので、相手は「しめた」とばかりに小次郎の頭上を狙う攻撃をするために、刀を頭上に持ち上げ切り落とす体勢を取ろうとすることになります。がら空きになってなおかつ前方に攻撃態勢をとろうとしている相手に対し、電光の横薙ぎ攻撃(斜め上に切り上げる攻撃)が炸裂したら必殺技になりませんか。

つまりかわしやすい縦の偽装攻撃を行うことで、わざと自らの頭上にスキを作り、相手がそのスキを狙って剣を頭上に振り上げた結果生じる胴体のスキに、必殺の横薙ぎ攻撃をお見舞いするのが燕返しではないでしょうか。これは燕を斬った事で思いついたというよりも、急激に飛行コースを急反転させる燕の飛び方をみて思いついた戦法ではなかったのでしょうか。「講釈師見たきたような嘘を言い」と言われそうですし、実際の対戦相手はそんなにのろまではないという意見もあるでしょうが、この攻撃法が成立するそれなりの根拠はあります。

実は攻撃技と言うのは幕末に面篭手の剣道道具が発明されるまで、俊敏な2段打ち、3段打ち、4段打ちみたいな攻撃法がほとんど無く、竹刀での擬似実戦練習法でようやくそれが可能になったとされています。ほとんどが一撃必殺の一段打ちが常識で、もちろん小手を狙うふりから面ぐらいのバリエーションはあったにしろ、動きはわりと単純であるとされています。一段による攻撃が常識であったと言うのが重要な点で、対戦相手の発想として小次郎の最初の縦の攻撃が終われば、小次郎の攻撃は終了したものと思い込むのが普通で、そこに心のスキも生じる事になります。一方で小次郎は最初から2段攻撃の予定ですから、ここに無敵の必殺技「燕返し」が成立することになります。

前回のcoffee breakにも書いたとおり、いくら名人達人でも剣術者には、剣術者同士が共有している常識や法則があり、それを越えた新戦法が登場すれば非常にもろい点があります。小次郎時代には攻撃は一段と言う常識があり、これを打ち破って2段攻撃を編み出したのが画期的ではなかったのでしょうか。

巌流島
決闘の地巌流島(舟島)

巌流島の決闘の真相

それでは無敵の必殺技「燕返し」を携えた天才小次郎がなぜ武蔵に敗北を喫したのでしょうか。小説ではわざと遅刻してじらしたりとか、鞘を投げ捨てた小次郎に対し「小次郎、敗れたり」と叫んだりとかの心理戦が描かれていますが、決闘を現場で見た人物の記録にはそれをうかがわすものはなく、この辺はどうやら作り話のようです。

また武蔵が小次郎に放った止めの一撃も小次郎の頭上に行われたことも間違いないようですが、テレビや映画のように小次郎を飛び越すぐらい飛び上がって加えたもので無いのは言うまでもありません。垂直跳びもしくはほんの数歩の助走で、いくら武蔵が超人的であるといっても不可能ですし、世界記録をもつハイジャンパーですら不可能です。打ち込みの時にほんのわずかぐらいは飛び上がった可能性はありますが、武蔵の得物が重くて長い櫂の木刀であることから、やはり踏ん張って打ち下ろしたと考えるほうが無理がありません。

櫂の木刀
後に武蔵が複製した櫂の木刀(松井家蔵)

勝負は時の運と言ってしまえばそれまでなんですが、武蔵はなんらかの方法でこの「燕返し」が驚くべき2段攻撃であると言う情報を得ていたようです。そして最終的な対抗策として物干竿を上回る長さの木刀を用意しています。有名な櫂を削った木刀で本物は現存していない様ですが、武蔵自身が後に複製したと伝えられる物が3本ほど残っています。長さはいずれも刀身だけで4尺5寸(約145cm)、かなり長大なもので怪力の武蔵といえども剣として扱える限界の寸法ではなかったかと考えられます。

長い木刀にどんな意味があるかですが、これまで小次郎は相手より長い剣を持つことで間合いを自分のものにしていました。間合いはどうしてもより長い武器を持つ者を中心に作られますからね。そしてその間合いが燕返し成立の重要な要素にもなっていました。ところが長い櫂の木刀は小次郎から間合いの主導権を奪ってしまいました。武蔵の櫂の木刀にも欠点が無かったわけではなく、そのあまりの長大さのため俊敏な2段技は武蔵をもってしても困難で、なんとか小次郎の燕返しを間合いを制することによりかわし切り、その後の返し業に一撃必殺を狙う戦法に懸けざるを得なくなっています。

実際の試合の様子はほんの断片的にしか伝えられていないため、あくまでも想像ですが、おそらく櫂の木刀の長さに驚いた小次郎が必死なって間合いを詰め、また武蔵も燕返しを少しでも遠い間合いから発動させるため、少しでも間合いを空けようと熾烈な駆け引きを行ったと考えられます。二天像小次郎の詰めたい間合いは、櫂の木刀が作り出した1尺5寸から、通常物干竿が作り出している5寸をひいた約1尺であり、武蔵にとっても生命線の1尺です。武蔵の計算ではこの1尺(約30cm)で十分に小次郎の燕返しをかわしきれると考えていたようです。

白熱の駆け引きの末、ついに小次郎の裂帛の踏み込みから必殺の燕返しが炸裂しました。しかし惜しくもそれは武蔵の額の皮1枚をかすめただけで届きませんでした。ほんの1寸(約3cm)深ければ武蔵の頭は切り裂かれ吹っ飛んでいたでしょうが、勝利の女神は小次郎には微笑んでくれなかったのです。決闘前の情報戦で燕返しを徹底的に研究し尽くされ、万全の対策を立てられていたにもかかわらず、二人の勝敗を分けたのがたったの1寸であった所に、小次郎の力量の物凄さ、燕返しの威力の恐ろしさが証明されていると思います。

勝者武蔵のその後

この決闘の後、武蔵は真剣試合を行わなくなったとされています。他にももっともらしい理由があげられていますが、おそるべき小次郎の手腕に真剣勝負が怖くなったというのが本音ではなかったでしょうか。武蔵の剣法の最大の特徴に「見切り」というのがあります。対戦相手と自分の力量を比較し、勝てる十分な要素がないと試合をしないというものです。もし自分に不利な要素があれば、それを有利に変えるべく様々な手段を講じると言うのも含まれます。一見卑怯なようにも見えますが、命を懸けた真剣勝負ですから、勝つためにはあらゆる手練手管を行うのは当然のことです。相手に卑怯と思われようが、勝ってしまえば死人に口なしですから、どんな手段をとっても勝つことに至上の価値があったのです。

小次郎戦は長剣「物干竿」の長さを利用した間合いの秘密、2段攻撃の燕返し戦法の秘密、それらを十分研究した上の櫂の木刀の準備で、武蔵にすれば十分小次郎を「見切った」はずだったのです。それが本当に紙一重、運だけで勝ったような勝負になったため、自分の「見切り」能力に「見切り」をつけて真剣勝負にも「見切り」をつけたと言えるのではないでしょうか。

存命中から天下無双と謳われ、死後500年を経てもいまだ剣術史上不世出の剣聖と言われる宮本武蔵を、後1寸まで追い詰め、また敗北したあとでさえ、武蔵に死ぬまで真剣試合を忌避させた佐々木小次郎と燕返しの残像は、武蔵が終生脳裡から恐怖の戦慄として消え去ることはなかったはずです。