あの日航機事故で亡くなられた坂本九は、私が物心がつき始めた頃には、ホームドラマに出演していたり、バラエティ番組の司会をしていたり、いわゆる今で言うマルチタレントみたいなことやっていた記憶しかありません。歌手であったことも知っていましたが、これは若い頃にアイドル的な仕事をしていて、たまたま何曲かヒットしただけのことで、たんにそれだけのことであろうと思い込んでいました。そんな芸能人は掃いて捨てるほどいますからね。またその代表曲である「上を向いて歩こう」が全米1位になったエピソードだけは、ちょこちょこっと曲の紹介で載りますのが、それさえも「ふぅーん」とぐらいにしか感想はありませんでした。
ただ「上を向いて歩こう」のメロディーラインはシンプル(素人でも弾きやすい)なのに、明るさのなかにもなんとなく哀愁を漂わすもので、一度聞きくとすっと頭に入ってしまう曲ですが、それでも昔にも良い曲があったのだな〜ぐらいしか感想は持っていませんでした。ところがこの曲が世界に残した功績・実績は日本人が考えているものより、おそらく10倍や100倍できかず、千倍とか万倍という単位で評価されるものと断言できます。
歌手も含めてですが芸術の分野で世界的に評価された人間、作品はどれほどあるでしょうか。映画であれば黒澤明、小津安二郎、溝口健二、市川昆などがあり、北野武もこのさき10年単位で意欲的な製作を続けたらこれらの巨匠に肩を並べるかもしれません。俳優なら三船敏郎、早川雪舟(日本では無名に近いですが)、少し落ちますが高倉健なんかも世界の映画に足跡を残した偉大な俳優です。
絵画の分野になるとすぐ岡本太郎や棟方志功、藤田嗣治なんかがあがってきますが、はっきりいって世界的には小物で、時代はえらくさかのぼりますが葛飾北斎や喜多川歌麿、東洲斎写楽なんかが世界の巨匠に肩を並べていると考えています。
音楽はどうでしょうか。範囲を少しだけ狭めるために明治以降の西洋音楽導入後に限定したいと思いますが、なかなか名前が挙がってきません。作曲家なら滝廉太郎や山田耕作が教科書的にあがってきますが、世界の巨匠にくらべると残念ながら「高度の猿真似」のレベルからそれほど飛躍していませんし、現代音楽の武満徹も一部ではそれなりの評価を得ていますが、残念ながらそれ以上のものにはなかなかなりそうになりません。指揮者の小沢征爾の活躍は特筆すべきですが、この人の最終評価もまだもう少し時間がかかる思います。その他のピアニスト、バイオリニストも過去も含めて幾多の天才少女、天才少年が現れましたが、まだまだ安定した世界的評価を得た人間を個人的に知りません。
歌手は国内的に大成功を収めた人はたくさんいます。曲も日本人の心の奥に刻み込む名曲が数え切れないぐらいあります。ただ海外、とくにショービジネスの本場のアメリカで成功を収めた歌手がいるでしょうか。大流行して誰もが口ずさみスタンダードにまでなっている曲はあるでしょうか。何人かが挑戦しています。全盛期のピンク・レディーもアメリカ進出を試みましたし、矢沢栄吉も一時進出に挑戦した時期もありましたし、久保田利伸も渾身のLaLaLa Love Songで挑みました。ただ結果は惨憺たるものであったことだけは間違いありません。
アメリカの歌謡界は門戸は決して閉鎖的ではありませんが、そのかわり競争は激烈です。とびきりの才能を持ったミュージシャンがそれこそ星の数ほどひしめき、しのぎを削っています。レコード(今ならCD)を買う層は決してお上品な人ばかりではなく、いわゆる普通の人々がこれを買い求めます。そもそも日本人が挑戦するなら言葉の上で不利で、現代に至るまでも英語以外の言語で全米1位になった曲はたったの5曲しかありません。
そのなかで「上を向いて歩こう」が残した足跡は桁外れのもので、その桁も1桁程度ではなくどう辛く見積もっても2桁は外れています。日本ではヒットチャートはオリコンで見ますが、アメリカではビルボードやキャッシュボックスが有名であり権威があるとされています。そこで全米1位になることは、生粋のアメリカ人歌手でも容易なことではありません。その厳しさは日本でオリコン1位になるのと同様に難しく、ましてやアメリカ人以外、それも英語を話せない歌手が、英語以外の言語で1位になるのは奇跡に近いことです。
「上を向いて歩こうが」がリリースされたのは'61(S.36)!私ですら生れていません。この時代の話になると感覚として昔話を越えて神話時代のように感じてしまいます。さらにこれがアメリカで全米1位になるいきさつを聞くと、もうおとぎ話の世界になってしまいます。事実を聞くと言うよりまるでわらしべ長者のお話を聞いているみたいなものです。
実はいろいろと当時の状況を調べたのですが、どうにも細かいところがはっきりしません。エピソードの詳細の真相になるとまるで霧がかかったかのようによくわからないのです。40年も前のことなので当事者も故人になっている人も多く、今時のヒット曲のようにきっちりとしたプロジェクトがあったわけでもなく、さらに今よりもこういった事実を記録しておこうと言う意識が低かったためではないかと思います。さらにさらに付け加えるとこの曲の偉大さに対する日本人の意識の低さも影響していると考えます(他人のことは言えませんが・・・)。ですので基本スタンスはノンフィクションの心構えで書いていますが、やはりおとぎ話を聞くつもりで読んでください。もっともこのヒット自体がおとぎ話にしか聞こえないものですが。
日本でのヒットの経過は比較的よくわかっています。本当にありふれた話で、当時絶大な人気を誇っていたバラエティ番組の「夢で会いましょう」で歌われてヒットの火がついたというものです。本当に普通のヒット曲です。それに歌謡曲の主流が現在とは違い演歌が強大な力を誇っていたので、演歌以外のジャンルは基本的に色物と言う感覚があり、またバラエティ番組から流行したので企画物の話題曲ぐらいにしか思われなかったのでしょう。まあ今で言えば「団子3兄弟」とか「おどるポンポコリン」だとか「明日があるさ」みたいな扱いと思えばふさわしいかもしれません。
日本のヒットチャートで何位まで行ったのか、シングルが何枚売れたのかについてどうしてもはっきりした記録が出てきませんでした。ただ今とは比べ物にならないぐらい絶大な権威を誇った「日本レコード大賞」には、最終選考にも残っていませんので、やはりどう見ても普通のヒット曲でしかなかったようです。
それで終わればせいぜい最近はやりの「懐かしの'60ポップス」みたいな番組にちらっと出るぐらいの曲で終わったはずですが、ここからわらしべ長者のようなおとぎ話が展開されます。それとこの辺から異説が多くどの話が本当に正しいのがよくわからないのですが、まず定説を書くと、
イギリスのバイ・レコードの社長ルイス・ベンジャミンが'62(S.37)に日本に出張に来て、その時に提携していた日本のレコード会社から何枚か日本の代表的なポップスを紹介され、この曲を気に入ってもてかえった。それをイギリスのジャズ楽団であるケニー・ボール楽団(Kenny Ball & His Jazzmen)に依頼してディキシーランド・ジャズ風アレンジのインストゥルメンタル「Sukiyaki]として発売、全英10位のヒットとなる。
なおSukiyakiになったのは原題のuewo muite arukouでは発音しにくく、また当時の関係者が歌詞を翻訳できなかったので、日本語でイギリス人が知っている単語"Fujiyama"、"Geisya"、"Sukiyaki"のうち社長の好物だったSukiyakiになった。
この中で間違いの無い事実はケニー・ボール楽団("モスコーの夜はふけて"で有名)がカバーとして発売したことだけで、肝心の「上を向いて歩こう」の発見談は他にもあります。まずルイス・ベンジャミンが来日したのは出張ではなく観光旅行であり、そのときのお土産に買ったレコードの中にあったというものがあり、さらに気に入ったのはその家族が気に入ったのでという説もあります。また発見したのはルイス・ベンジャミンですらなく、ケニー・ポールの方であるというのもあります。
ルイス・ベンジャミン本人説が有力でほぼ定説になっていますが、個人的にはケニー・ボール説に妙にひかれます。と言うのもSukiyakiといういかにも無造作な題名のつけ方がケニー・ボールの方がふさわしいと思われるからです。たしかにいまだに日本と言う国がどれぐらいイギリス人に認知されているかは疑問です。当時はなおさらだったでしょうが、提携しているレコード会社の曲をカバーしようというのに、歌詞を全く翻訳しなかったとは考えにくいです。自分のところで翻訳するのが難しいのなら日本の提携会社に頼めばやってくれたはずです。あの切ないメロディーと歌詞の意味を見ていくら日本のことについて無知に近いイギリス人でもSukiyakiはつけないと考えます。
これがケニー・ボールとなると十分可能性があります。当然日本語なんてそのメンバー、関係者がわかるはずもありません。ちなみに日本で発売されたシングルジャケットはしたに示しましたが、これだけ見たってどんな題名かどんな内容の歌詞なのかは想像しようが無いでしょう。
曲も原曲からディキシーランド・ジャズ風にアレンジしてしまい、歌も入れなかったので曲名は自由につけれます。さすがに日本の歌なので何か日本にちなんだものにしようぐらいはあって、たぶんケニー・ボールが知っているすべての日本語、"Fujiyama"、"Geisya"、"Sukiyaki"のうちで選んだのではないかと考えています。まあ日本人がトルコの曲をカバーしようとしてシシカバブを選ぶのとあんまり変わらないぐらいのところでしょうか。いかにもジャズメンらしい発想ですし、おそらく持ち込まれたバイ・レコード社のほうも「元が日本の歌なら"sukiyaki"でいんじゃない」てなのりではなかったのでしょうか。
全英で10位、これだけでも驚くような成功です。はたしてその後日本の曲で全英チャートの10位以内に入った曲があったかどうかもわからないぐらいの成功です。その後イギリスからアメリカにこのケニー・ボール版が伝わりました。結構良い曲じゃないかということで、小さなヒットとしてアメリカでひろがり始めたのですが、爆発的なヒットとなったのは次の有名なエピソードからです。
ワシントン州のKORD局のDJリッチ・オズボーンが、どこからかこれはもともと日本の曲でKyu Sakamotoが歌う原盤があるという情報を手に入れた。さっそく原盤を手に入れ放送したところこれが大反響を引き起こしついには全米1位にまで登りつめる。
この話にもいくつか謎があります。まずどこからこの曲にはじつは歌詞があったことを聞きつけたのでしょうか。ワシントン州というのは今でこそイチローがシアトル・マリナーズ活躍しているので有名になりましたが、南のカリフォルニア州と比べてもはるかに日本と縁の薄い土地柄です。それとどうしても裏づけになる資料が見つからなかったのですが、記憶に間違いが無ければKORD局はワシントン州でもさらに田舎にあるFM局だったはずです。日本で無理やり例えれば、岩手県とか島根県とか(岩手と島根の皆様ごめんなさい)のそれも県庁所在地でないもっと田舎の地方都市のFM局でそんな情報をどうやって手に入れたのかとても不思議です。
さらにごく簡単に原盤を入手してと書いてありますが、そんな田舎の放送局に日本語みたいなマイナーな言語に堪能な人間がいるはずも無し、局どころか放送範囲にもいるかどうかも疑問です。もっといえば当時のワシントン州にはたして何人いたか程度の話ではないかと思います。
日本から取り寄せるといっても、日本の通貨は何であるかから始まり、日本語の題名はなんと言うのか、当時ももちろん国際電話はありましたが、レコード会社の電話番号はどうやってしらべたか、どうやって日本人に注文したのか・・・。おそらく日本人がアイスランドのレコードを買おうとするぐらいの困難が伴ったと想像されます。
全米1位になったものの誰もKyu Sakamotoなる歌手をしらない、ましてや歌っている姿なんか誰もしらない、ぜひ見てみたいという声が当然のようにわきおこり、坂本九はアメリカに呼ばれることになります。日本でもそれなりに売れっ子でしたが、アメリカでは全米1位になったスーパースターです。
どれぐらいのヒットだったのか?キャッシュ・ボックスで4週間、ビルボードで3週間の間、全米1位。アメリカ人以外で初のゴールドディスク獲得(ちなみにこの次はビートルズ)、世界69カ国で発売され推定売り上げは1300万枚とも1500万枚とも言われています。またその後13カ国、23タイトルでカバーされています。
ちなみに英語以外で全米1位になった曲は、
1958年 「ポラーレ」 ドメニコ・モドゥーニョ イタリア語 1963年 「スキヤキ」 坂本九 日本語 1963年 「ドミニク」 スール・スーリール フランス語 1975年 「涙のしずく」 フレディ・フェンダー スペイン語 1987年 「ラ・バンバ」 ロス・ロボス スペイン語
この5曲しかありません。また、1981年にはテイスト・オヴ・ハニーで全米3位、4P.M.で95年に8位と合計3回にわたって全米トップ10にランクされています。この記録は「アンチェインド・メロディ」の4回につぎ、「ロコモーション」、「キープ・ミー・ハンギン・オン」の3回と並ぶ大記録です。
「上を向いて歩こう」は作詞:永六輔、作曲:中村八大、歌:坂本九の後に六八九トリオと呼ばれた三人の快心作なのですが、作詞者である永六輔はこう語ったことがあります。
「上を向いて歩こうは僕の歌だけど、Sukiyakiはぼくの歌じゃない。」
Sukiyakiの英語訳は有名なので詳細は割愛させていただきますが、後日談として当時なんとか日本語の歌詞の意味を汲み取った英語版を作ろうとしたエピソードがあります。
1963年の春にカントリー・シンガーのクレイド・ビーヴァーズが、英語版「スキヤキ」のレコーディングを試みています。翻訳が大変 だったようで、彼はナッシュビルのヴェンダービルト大学の言語学者にあたったのちに、ワシントンD.C.の日本大使館にも足を運んで、大使館員のJ・S・シマが(こ のJ・SはJ・S・バッハをもじったみたいであやしい)ビーヴァーズ゙の歌を聞い て、それに合う訳詞をつけたそうだ。 が、クレイド゙とシマの苦労も空しくビーヴァーズ゙版「スキヤキ」はパッとしなかったようだ。 「上を向いて歩こう」のアメリカでのヒットは、作曲の中村八大氏と編曲者(これが 誰だかわからない。中村八大氏本人かも)と九ちゃんのあの独特の歌唱法がもたらし た結果だと俺は思ってる。作詞の永六輔はクレイド゙とJ・S・シマを悩ませただけになってしまった。(from ibjcafe)
この曲は日本人が海外、それもかなりマイナーな国、マイナーな地方・町に行った時に驚きをもって聞くことが多いようです。下手するとその町を訪れた有史以来初めて日本人であっても、歓迎すると言うことで演奏されることがしばしばあるようです。つまり世界一有名な日本の歌であると断言できます。日本人がこの地球上に誕生して初めて世界に送り出したスタンダードであり、その後は残念ながら足許にさえ近づいた曲はありません。どうもこれだけ書いてもまだ賛辞が足りないような気がします。上を向いて歩こうに匹敵する曲は日本では存在せず、BeatlesのLet it be !やElvis PreslyのLove me tenderとかSimon & GarfukleのBridge over troubled waterとならんで語られる存在です。
おとぎ話のようなヒットストーリーをもつこの名曲も日本では段々存在が薄れていっている様に思えます。世界のスタンダードを作曲した中村八大も生前も生後もはたしてその功績にふさわしい評価を与えられているかは大きな疑問です。20世紀最後の紅白の最後に「上を向いて歩こう」はエンディングで大合唱されましたが、坂本九が元気であっても同様であったかどうかは確信がもてません。日本より海外で信じられないぐらい高い評価を得ているもの、この「上を向いて歩こう」だけではありませんが、もっと私たちはグローバル・スタンンダードになることの偉大さに敬意を払う必要があるのではないでしょうか。
*このエッセイを書くに当たりまして、昭和歌謡と我らの時代サイト、ibjcafeサイト、RKBラジオ「ユアヒットパレード」サイト、おしえてねドッドコム掲示板、から多数の引用・参照をさせていただいた事をお断りさせていただきます。