史観十人十色

今回のお題は「史観」、つまり歴史の見方、とらえ方です。えらくお堅いテーマですがよろしければおつきあいください。

史観は時代と共に変わる

歴史なんて過ぎ去ったことなので、当時の人間がどう考え、どう感じていたかなんかは残された資料から推察する以外には手段がありません。それも古ければ資料が乏しく断片的になりますし、比較的近い時代でまだ生き証人といえる人間が生き残っていても、しょせんは各個の個人的偏見や過去を美化する傾向から、ほとんどが「昔は良かった」的な証言や、逆に過去を全否定する見解になったりすることがしばしばあります。

日本でも戦前は皇国史観なるものがにらみを利かしてその他の意見を抹殺していましたし、戦後もマルクス史観ないしは被虐史観と呼んでも良いものが長年幅を利かせてきました。これは日本だけの特殊例ではなく、お隣の中国でも文化大革命や何とかといって政権指導部の方針が変わるたびに歴史観が右に左に大揺れしています。ヨーロッパもそうで、キリスト教史観が絶対であったときのガレリオへの迫害は有名ですし、ダーウィンの「種の起源」もアメリカでいまだに学校教育で禁止されているところもあります。(バチカンは最近一部容認したようですが・・・)

戦後の日本を長年にわたり支配してきたのはマルクス史観・被虐史観です。これは日教組と強力に密着して学校での歴史教育全汎を支配していました。私なんかもそれにしっかり薫陶された部類の人間です。枝葉末節はいろいろありますが、要約すれば次のようなものです。

「太平洋戦争を引き起こした日本はすべて悪い、また引き起こしたのは明治維新以来の富国強兵政策であったので、明治以降の歴史は基本的にすべて間違った道であった。」とここまでは被虐史観です。マルクス史観は人類の文明発展の過程は「原始共産主義→封建主義→資本主義→共産主義」(雑すぎてゴメンナサイ)と定義して、人類究極の理想主義である共産主義以外の政治体制はすべて悪であるとの前提で歴史を判断しますので、当然明治以前の政治体制(徳川幕府を含むそれ以前のすべての政治体制)や戦後の資本主義体制も悪の政治体制として見て、その間はひたすら支配者以外の大多数の民衆は搾取され貧困にあえいでいたと一刀両断に切り捨てます。

私ごときものでマルクス主義全体を批判云々なんて無理ですし、個人的な見解としては現在の資本主義が究極まで煮詰まれば、マルクスの考えていた共産主義的世界に世界はゆっくり進んでいくのではないかとも考えています。たとえば北欧の高福祉社会はべらぼうに高い税金で支えられていますが、この制度が理想的に展開していけばある意味マルクスの共産主義世界が実現する可能性を潜めています。ただこれは歴史の自然の流れ、人類の文明の発展の自然の流れでたどりつく産物であり、決してむりやり政治体制上の共産主義政権を成立させたからといって実現するものではありません、これはあまりにも明確に歴史が証明しています。マルクスの理論を単に歴史のこれからの展開の預言書、予測レポートとしてのみ扱っていればたいした問題は無かったのでしょうが、結構多数の人間が聖書やコーランのように絶対の聖典として祭り上げた弊害が戦後のマルクス史観・被虐史観につながったと考えます。

今から考えても私が受けた社会の授業は相当なものでした。歴史は上述の通りで日本も含め世界全体では文明発祥以来、ほとんどの時代でひたすら人民は搾取され、一部特権階級のみが享楽を続けたと教え込まれています。また現在の資本主義経済体制がいかにくだらないかも日々教えこまれ、それにくらべて夢の共産主義を実現したソ連ではコルホーズやソフォーズのような立派なものがあり、中国では人民公社がいかに偉大なものかがテストの重要なポイントでした。そういえば北朝鮮を地上の楽園とも賛美していました。そこまで子供のときから教育しても日本で共産党や社会党が政権を握れなかったのは、日本人の常識や平衡感覚はたいしたものであったと言えると思います。

歴史の見方はその時の国民が幸せであったか不幸であったかをまず根本的な指標にするべきであると考えます。さらにいつの世の中でも全員が平等に幸せであるということはありえず、あくまでも多数派の人間が幸せであるという観点が必要です。さらに歴史的な必要性というのもあります。たしかに戦争をせずに「平和」であることは無条件に賛成されるものですが、周囲の国際環境を無視して自国ひとりが平和主義を謳歌することはできないのです。古代中国の春秋戦国時代に孟子の理想主義を具現化した国がありました。詳しくは孟子に記載してありますが、春秋戦国時代は弱肉強食の時代であり、結果として隣国に攻め滅ぼされました。第2次大戦でも中立国のベルギーはドイツによって踏みにじられ、デンマーク、ノルウェーも同様といってよいと考えます。その観点なしに軍備は悪とか戦争は悪とか無条件に定義づけるのは危険と考えます。

以上のことを前置きにして、ここからは私の史観です。あっちこっちからの雑多な知識の寄せ集めですが、思いつくままに適当に並べていきたいと思います。

豊かな農民

「江戸時代の農民は幕府や諸大名から重い年貢をかけられたうえ常に圧政で苦しんでいた」というわりとポピュラーな史観があります。ほとんどの時代劇ではこのイメージをステレオタイプに表現するため日本人の間に定着しているといってよいと考えています。

まず「江戸時代の農民は重い年貢にあえぎ、自分たちで作った米を食べることすらなかった」という説があります。この説はわりと皆様無邪気に信じているものですがはたしてそうでしょうか。もちろん文字通りの実態の地域も存在しました。たとえば今の岩手県に当たる南部藩であるとか、鹿児島県の薩摩藩とかはまさしくそうだったでしょう。しばしば飢饉も訪れましたので、そのときには全国的にそれに近い状態の年もあったでしょう。しかし多くの年は必ずしもそうではなかったんではないかとの説があります。

江戸時代の初期はともかく中期以降になると、諸国でさかんに新田開発が行われた結果、当時の推定人口が必要とする米の量を上回る収穫が得られるようなりました。たしかに米は江戸時代を通じて通貨と同等に近い価値あるものとして扱われていましたが、しょせんは食い物です。通貨と違い個人で食べれる量の上限は決まっています。もし人口の9割以上を占める農民がほとんど食べなかったら膨大な在庫で膨れ上がってしまいますが、江戸時代を通じて膨大な在庫に苦しんだ事実はまず無いといってよく、結局農民はちゃんと米を食べていたことになります。

また「農民は重い年貢に苦しんでいた」との説も常識として扱われていますが、これも必ずしもそうでなかったと検証されています。少し記憶に怪しい部分はあるのですが、江戸時代初期は七公三民の年貢率でこれでは本当に農民は生きていくだけで精一杯の状態です。ところがその後年貢率はどんどん下がり、有名な八代将軍吉宗の時代には三公七民すら下回ることがしばしばあり、享保の改革で吉宗は四公六民程度にもっていくため悪戦苦闘しております。幕府以外の諸藩もおおむね同じような状態のところが多く、江戸時代の幕府および諸藩の財政危機は米余りによる米価低下と税収不足のダブルパンチによるとされています。

結果として農民は米を食べ、年貢もそれほど重くなく、さらに米以外の換金作物にはほとんど税金がかけられなかったので、想像しているよりもはるかに裕福な暮らしをしている農民は決して少数派でなかったと考えられます。とくに西日本では裕福な農民は多かったようで、かえって明治の地租改正により重税感が増して一揆騒ぎが頻発したとされています。

それから水戸黄門で有名な各地でゾロゾロいる悪代官ですが、じっさいはほとんどいなかったようです。江戸時代も初期は代官みたいな文官は武士として卑しい存在と考えられたようですが、どこの家でももともとの家禄だけでは食べていけなくなり、競ってなにかの役方(文官)につきたがるようになりました。幕府はいろいろこすからい政治を行っていますが、基本姿勢は天領での統治が諸藩の模範になるようにとの基本姿勢は終始変わらず、各地の代官には高い見識をもち高潔な人物を選抜して派遣しています。むしろ農民に同情しすぎて年貢率を下げたり、江戸からの増税要求に十分応えられないなどの弊害が生じるほどでした。

徳川政権の政治姿勢の特徴として非常に軽い政府であることもあげられます。端的な例として奈良に五条代官所というのがあり、だいたい今の奈良県の半分ぐらいが行政領域でしたが、代官所の人数は全員で20人程度でした。その他の天領も似たりよったりでその程度の人数で統治していますので、いきおい農民を始めとしてその他町民に対する管理はまことに緩やかであったことは間違いありません。

ここまで並べれば分かると思いますが、私の江戸時代の農民観は「重い年貢にあえぎ」、「ひえや粟ばかりを食べ」、「悪代官の横暴に苦しむ」ものではなく、「それほどの負担でもない年貢を払い」、「しっかり米を食べ」、「お上からの締め付けなんか無い」かなり優雅な農民像を描いてしまいます。そうでなければ各地で伝承されている農村文化(農村歌舞伎みたいなものも含めて)があれだけ多彩に展開される余地が生じようが無いからです。

帝国主義時代の正義とは

明治以降になると被虐史観では「明治維新後の日本は欧米の帝国主義を見習い富国強兵策を推し進め、日清・日露戦争の戦勝で勢いに乗り・・・(中略)・・・第2次大戦の破滅を迎えるのである」とまとめられています。まことに単純でなおかつある意味わかりやすいお話です。はたしてそれだけで片付けてよいほど単純なものなのでしょうか。

明治維新のエネルギーの根源は欧米列強からの侵略恐怖です、決して徳川幕府の横暴とか圧政の積み重ねによる諸藩の反逆ではありません。幕末を揺さぶった尊皇攘夷思想の背景を簡単に説明するのは難しいのですが、「夷戎(欧米列強)が今にも日本に攻め寄せてくると言うのに徳川幕府の対応はあまりにも不十分である、このままでは日本が滅んでしまう、このさい徳川家から政権を取り上げ天朝(天皇家)中心の新しい国家を作って対抗しなければ日本は救われない」てところでだいたい合っているかと思います。

幕府側、薩長側の指導者は鎖国という政治情勢の中では驚くほど海外情勢に通じていました。もちろん驚くほどといっても限界があり、断片的な情報、知識の積み重ねでの世界観です。とくに欧米列強から侵略され植民地にされるかもしれないという強迫観念は強烈だったようで、後世になり結果論として「当時の国際情勢を冷静に分析すると日本が侵略されて植民地になる可能性は低い」としばしば論評されますが、当時に生きた人間の感覚からしてそんな楽観論的な分析は不可能だと思いますし、そんな根拠の乏しい楽観論で国を運営しようなんて微塵も思わなかったと考えられます。だいたい現在のように居ながらにして世界のニュースがじゃんじゃん流れ込む世界でなかったことも十分考慮に入れるべきだと思います。

とくに維新後、政府要人たちが欧米視察に行ったときの衝撃は相当なものであったようです。あまりにもかけ離れた国力、強国たちのあからさまな侵略思想とその実践、もし明日にでも日本が攻められたらひとたまりも無いと言う目の前にある現実的な恐怖。

被虐史観では富国強兵が諸悪の根源のように論じますが、当時の日本人の知りえる世界情勢を考えるとそれ以外の政策があったとは考えられません。またこういうときは日本人に限らず、どこかモデルになる国を選びますが、当時で軍備などせずどこからも侵略されず安穏に生きている国など無く、もっともトレンディーなモデルは強力な軍隊をもち、植民地を獲得して富を得ていくのが世界の栄える国の当時の世界常識であったのです。

もっとも明治政府は最初から帝国主義に走ろうと考えていたのではなく、あくまでも「欧米列強に侵略されないためには強兵がいる、強兵を養うためには国を富まさないといけない」のが基本です。ところがそのために欧米から直輸入した富国強兵策には帝国主義という強い副作用がありました。副作用というよりももともとは帝国主義を実践するために富国強兵策があるというのが実態に近かったかもしれません。

被虐史観で論じるひとは当時の指導者にどんな政策をとればよかったと考えているのでしょうか。世界が弱肉強食の嵐の中に居ると言うのに、日本だけが「うちは平和主義ですので皆様ご安心ください、軍備なんてたいそうなものはもちませんし、もつつもりもありません。だから日本には攻めてこないでね」と頼んで回れば、それで泰平の世をまたゆっくり楽しめると考えているのならばたいしたものです。平和ボケしてヌクヌクした書斎でほざいている戯言以外のなにもでもありません。

明治維新当時の世界常識は「国家を保つためにはそれにふさわしい戦力が必要である。それを怠れば他国の侵略を間違いなく招きいれ国家は破滅する。」であり、まさにこれは真実であった時代なのです。またその戦力も欧米列強が侵攻を試みたと仮定して、容易なことでは勝利を得るのが難しいと予想させるほどのものが必要です。

強兵と富国はとくにこの時代セットのものですが、富国がまた簡単ではありません。当然貿易でと考えるのは自然ですが、貿易と言うからには何か売り物になる商品が必要です。国内には国際貿易に耐えうるめぼしい商品はほとんど無く、唯一生糸のみが可能であったので「女工哀史」の悲劇を引き起こしてまで増産に勤めることになります。当時の貿易事情も国際情勢同様の帝国主義が正義であった時代で、強国は弱国に無制限に商品を売りつけ富を得ている状態です。貿易制限などと弱国が言おうものならアヘン戦争が良い例ですが、武力に訴えてでも無理やり商品を売りつけます。また強国は植民地と言う独占市場を同時に抱えており、そこからはそれこそしぼり放題に富を吸い上げていました。

日本が日清戦争に流れていったのは当時の正義・常識にそっての自然の流れであった事は間違いありません。「戦争」をしたという1点で後世で酷評されていますが、明治の為政者は戦争がしたかったからではなく、「富国強兵を早く成し遂げないと日本が滅亡する。富国を貿易で達成するにも生糸以外に売り物が無い。日本の二流、三流以下の商品で貿易で富を蓄えるには植民地を獲得する以外に方策は無い。日本が植民地にできる可能性が歩くには、世界を見渡しても韓国しかない。欧米列強はこうした道をくぐって今の地位を築き上げている。」との思考延長線上からです。韓国がいい迷惑だと思われるでしょうが、この当時の世界常識では「武力で自衛できない国は侵略されて当然であり、侵略される隙を見せるほうが悪い」であったので一概に明治の指導者が血迷ったと判断するのは一面過ぎると考えます。

日清戦争後、勝利した日本は目論見どおり韓国と言う植民市場を確保(実際は売るべき商品はほとんど無かったが)し、償金で産業を興し近代化の足がかりを築くことになり、さらに国際的に馬鹿にできない軍事力(防衛力)があることを認知され、ある意味安全保障を確保したことになります。敗れた清国(中国)は国際的にどこが侵略しても良い弱国の烙印が押され、列強の食い物にされていきます。それぐらい当時の国際情勢は荒っぽい時代であり、現在の平和な日本を尺度に物事の善悪を判断すると大きな落差があることを理解しても良いと考えます。もちろん列強の植民地にされても「戦争」をしないほうが良いと主張される論者もおられますが、ではそういう論者は植民地にされたらそこからの独立戦争さえも否定するのでしょうか。もっともそういう論者は「独立の時には話し合いで平和に独立すればよい」と申されるでしょうから、何も言いようがありません。

やや「詭弁である」との声もあるかと思いますが、私が考える史観は、明治維新後に日本が富国強兵から日清戦争に突き進んだのは、当時の世界各国が当たり前とする国の運営法を忠実に行っただけで、日本のオリジナルでもなんでもありません。さらにそういう手法をとる事がもっとも善であると国際的に認知され、当時の韓国のような国の運営法は悪であり、そんな運営法を行っていて亡国の憂き目を見るのは、憂き目を見たほうが悪いという国際常識がまかりとおっていた時代であると考えています。

日清戦争、日露戦争とひとくくりにまとめて切って捨てる被虐史観論者が居ますが、日清戦争と日露戦争はかなり次元が違うものと考えています。日清戦争では日本が強者の立場で清国が弱者の立場ですが、日露戦争ではロシアがとてつもない強者としてそびえ、日本は本当に貧弱な弱者として存在します。帝国主義が正義の時代、強者のロシアはその植民地政策を満州(中国の東北3省)に伸ばしてきます。日露戦争当時ほぼ満州全域をその支配下に治めています。そのまま歴史が推移していれば満州は今でもロシアの所有のままであったかもしれません。

満州を支配下におさめたロシアはついでに朝鮮も欲しくなりました。強者ロシアにとってはほんの「ついで」です。もちろん日本が日清戦争で獲得したものであるのは百も承知ですが、帝国主義の時代、弱者が所有しているものを強者が取り上げるのはごくごく当たり前のことであり、ロシアにすれば貧弱な弱小日本がまさかこの要求を拒むはずはないとまで信じていた節があります。それぐらい日本とロシアの国力の差、戦力の差は一目瞭然、歴然たるものがありました。

ここで被虐史観論者は「朝鮮などくれてやったら良かったんだ、そうすれば戦争もせずに済んだし、平和な日本ができたのに」と日露戦争自体を全否定しますが、明治の指導者はそんなに甘い判断はしていません。ひつこいようですが帝国主義の時代です。朝鮮を譲れば次は北海道、対馬を要求してくるだろう。北海道、対馬を譲れば今度は日本に保護国になれと要求してくるだろう。最終的にはポーランドやフィンランド、バルト3国のように吸収されてしまうだろうとの恐怖で震え上がることになります。

そうなっても「戦争」をするよりはずっとマシと強弁する被虐史観論者もいますが、吸収されたり属国になれば日本人はロシアに徴兵されていやおうなしにロシアのために「戦争」を行うことになります。自国の誇りと存立をかけて日露戦争を戦い抜いた指導者はそれほどけなされる判断をしたのでしょうか。その後の日本の第二次大戦までの歩みはたしかにあまり褒められたものではありません。それでも第二次大戦の敗北を全面肯定するが余り、幕末から明治維新、日清戦争、日露戦争と帝国主義の嵐の中、弱小日本の独立を守り、国際的地位を確保できるまで日本を導いていった明治の指導者の功績まで全否定する史観は問題があると考えております。

ここまで読まれた方、ごくろうさまでした。この話はタイトルにもあるようにあくまでも「史観十人十色」です。今の日本は幸せなことに自分の信じることを堂々と主張してよいことになっています。もちろん少し前に流行った「ゴーマニズム宣言」(まだ読んだ事はないのですが)や、「新しい教科書をつくる会」(その教科書も読んだ事がないのですが)みたいな右翼的なものとは無縁と思ってください。次回はもっとcoffee breakにふさわしい軽い話にします。