奇跡のビザ〜あなたは杉原千畝を知っていますか〜

杉原千畝と言う人物は最近では教科書でも取り上げられるようになったらしく、カウナス事件のおおよその経緯はかなりひろく知られています。教科書の本文は読んだことがありませんが資料等からするとおおよそ次のようなストーリーであるようです。

第2次世界大戦開戦後、ユダヤ人排斥を掲げるナチス・ドイツに追われた人々はドイツの勢力圏を脱し、安全な国への脱出を必死になって試みていました。バルト海に面する小国リトアニアにもドイツやポーランドから逃れてきたユダヤ人がたくさんいました。ところがそのリトアニアにもナチス・ドイツは押し寄せてくるようになり、リトアニアのユダヤ人が脱出可能なルートはソ連からシベリア鉄道を通り、日本経由での脱出ルートしか残されていませんでした。
この脱出ルートを通るためには日本を通過することを認めるビザが必要でした。リトアニア領事代理の職にあった杉原千畝はこれらユダヤ人にビザを発給しようと外務省に何度も掛け合いました。ところがドイツとの三国同盟を結んでいた関係上、外交的配慮から返事は「NO」でした。そこで杉原千畝は独断でビザを発給することを決断しました。
リトアニアはその直後、ソ連に併合され、外務省から領事館の撤収命令が下りました。杉原千畝はベルリン行きの列車が出る瞬間までビザを発給し続け、6000人ものユダヤ人の命を救いました。

杉原千畝この偉業は日本人の中で唯一世界史上に残る功績を残したといっても過言ではありません。ただこの杉原ビザにはいくつかの謎が残されています。また杉原だけではなく他にも幾多の人々の協力の下にこの偉業が達成された事実があります。杉原の功績を検証しつつ、この偉業全体の謎解きの旅をしたいと思います。

ユダヤ人排斥の思想

当時の時代背景ですが、ユダヤ人排斥をスローガンに掲げるナチス・ドイツが世界制服の野望を実現するためついにポーランドに侵攻し第2次大戦が勃発したまさにその時です。このナチス・ドイツのユダヤ人排斥思想なんですが、当時もそうですし現在でも日本人にはよく理解できない部分があります。

欧米諸国におけるユダヤ人差別というのはナチス・ドイツだけの異常な発想ではなく、中世以来、いや古代ローマ帝国以来と言ってもよいぐらいヨーロッパ人の常識となっています。ユダヤ人差別の原因のすべてを解説するなんて大それたことは私の手に余りすぎることなんですが、ごく簡単にまとめると「ユダヤ教徒が主イエス・キリストを殺した」というキリスト教徒の反感がおおもとでしょうし、ヒトラーが狂気のようにユダヤ人を嫌ったのはドイツが第1次大戦で敗北したあと「ユダヤ人がドイツの敗北を工作した(後ろからグサリ)」の宣伝が第1次大戦戦後になされそれを信じ込んだに由来している部分が大です。ヒトラーはヨーロッパ人共通のユダヤ人嫌いの上にこの宣伝を信じ込み、政治的計算として民衆の不満のはけ口をユダヤ人排斥を政治的モットーとしたと考えられます。

ただあれだけエスカレートしたのは排斥対象がユダヤ人であったことで一般大衆まで含めて迎合され、全くといっても良いほど誰もユダヤ人を助けず、ほとんど無視するような態度で終始したのは記録しておいても良いと信じます。たしかにアウシュビッツにおけるユダヤ人大量虐殺は第2次大戦開戦後のことでしたが、ナチスが政権を握り開戦までの間も激しいユダヤ人排斥が行われていましたが、これに対する欧米諸国の対応は「ちょっとやりすぎちゃうか、でも対象があの”ユダヤ人”やし、あんまり係わり合いにならんとこ」ってところです。

ヒトラー近隣諸国が好戦的なドイツの巨大な戦力に怯えたというのもあるでしょうが、対岸の火事に等しいアメリカでさえ同様の態度であったことから欧米人一般のユダヤ人に対する姿勢がどんなものであったかは想像に難くありません。また第2次大戦までのヒトラーの評判は実は良かったというのもご存知でしょうが、第1次大戦後ガタガタになったドイツを短期間で再建し世界の列強に肩を並べるほどの大国にした業績は当時相当賞賛されるものであり、ある歴史家は「もしヒトラーがベルリン五輪直後ぐらいに暗殺されていたら、ユダヤ人排斥など一部に問題をもっていたが偉大な政治家として後世評価されたかもしれない」と述べています。つまり第2次大戦までのナチスによるユダヤ人排斥は現代でも欧米人とっては「ささいな問題」ぐらいととらえている人が決して少なく無いことを示しています。

それとナチスのユダヤ人排斥がさかんになり大量のユダヤ人がドイツから脱出した時にもその受け入れは相当な渋面であったのは間違いない事実であり、英仏はもとより比較的ユダヤ人勢力が強いとされるアメリカでもセントルイス号事件に象徴されるように冷淡な態度で終始していました、簡潔に言ってしまうと当時のユダヤ人は世界の孤児になっていました。その中で唯一世界の有力国の中でユダヤ人に対して偏見の無い公平かつ温かみのある対応をしていた国は驚くべきことに日本だけだったのです。その事が杉原ビザの謎に大きく影響しています。

セントルイス号事件
1939.6 ユダヤ難民1928人を乗せたセントルイス号がハンブルクを出て アメリカ・キューバで入港を拒否された。ほとんどの乗客は正規の書類をもち アメリカの親戚が経済的責任を負うと保証したが、一人も上陸できず 結局彼らはホロコーストで殺されることになった。
またイギリスの態度として次のような記録も残っています。
外交資料館には杉原ビザに苦情を訴える文書も保管されている。 そのなかには東京駐在の英国大使クレイギーの書簡がある。 1940.12.27 ユダヤ難民がこのビザを使って当時イギリス信託統治領だったバレスチナに 上陸することに危惧を抱いていた。 彼は松岡洋右に「人間でない者を人間なみにあつかう危険」を警告している。 イギリス政府はユダヤ人のパレスチナ上陸用のビザ承認しないし、彼らを パレスチナに受け入れる義務はないと宣言している。

カウナス事件の背景

リトアニアのカウナスの領事代理の杉原の下にユダヤ人が殺到した理由を少し詳しく検証してみます。ドイツのユダヤ人排斥の影響で大量のユダヤ人が隣国ポーランドに逃げこんでいました。ところがドイツがポーランドに侵攻を行い、さらにヒトラーとスターリンの密約によりソ連もポーランドに侵攻を行いました。ポーランドは西はドイツ、東はソ連、南はチェコスロバキア、北はバルト海に面しています。ユダヤ人にとってドイツは論外、ヒトラーと協力しているソ連も信用できない(ソ連はロシア帝国以来、伝統的にユダヤ人迫害を続けている)、北のバルト海はUボートが制圧しており、南のチェコはすでにドイツの支配下に置かれている。唯一のかぼそい逃走路がバルト海に面する小国リトアニアだったのです。

カウナス
カウナス領事館前でビザを待つユダヤ人

リトアニアといえども安全地帯ではありません。ソ連はポーランド侵攻後、これもヒトラーとの密約に従い間もなくバルト三国を併呑してしまうからです。リトアニアに逃げこんだユダヤ人たちもこの事態の動きを十分察知していました。ユダヤ人にとって安住の地はどこであったか、まずはアメリカ、もちろんイスラエル(英領パレスチナ)、後は不思議な好意を見せる日本人が支配する上海ぐらいでした。とはいえアメリカへの西への通行路はドイツがぎっちり押さえ込んでいます。そうなると脱出ルートは悪意に満ちているが通行が不可能ではないシベリア鉄道を通り、日本を経由して脱出する以外のルートは存在しませんでした。

唯一のかぼそい脱出ルート確保のためにユダヤ人たちは奔走します。ユダヤ人に対する欧米人の基本的な態度は上述したとおり冷淡ですから、本当に大変だったと思います。当時も今もそれほど変わりは無いと思いますが、彼らのような難民が合法的に国外に脱出するためにはその許可証というべきビザが必要です。ビザを獲得するための必要条件は、

  1. 現滞在国から出国許可を得ること。
  2. 最終受入国の許可を得ること。
  3. 通過国の許可を得ること。
  4. 最終受入国までの間の十分な旅費を所持していること。
  5. さらに大前提としてビザを発給するのに問題が無いという身分証明書を提示すること。

彼らユダヤ人は大多数の人が着の身着のままでリトアニアに逃げてきた状態なので、まず満足な身分証明書を保持しているものが少ない、ユダヤ人は金持ちといわれていますが預金封鎖を施されお金も無い、ソ連(リトアニアは間もなくソ連に併合される)のユダヤ人に対する態度も不明で、冷静に考えると脱出不可能に近い状態、奇跡でも起こらない限り実現しない状態といっても良いと思います。

とはいえ命がかかっているのですから懸命の努力が始まります。最初の奇跡は最終受入国が確保できたことです。そもそもアメリカにすれば良さそうなものなんですが、アメリカでさえ条件の整っていない非合法難民は受け入れない(ひつこいですがセントルイス号事件をおこしています)姿勢ですから、奇跡といってさしつかえないと思います。受入国はカリブ海に浮かぶオランダ領キュラソー、オランダという国は欧州の中ではユダヤ人に対する偏見が少ない国なんですが、それでも大変な決断です。内容はさらに確認資料が出てこなかったのですが、この決断も出先の外交官の独断に近い決断であったようです。

このオランダ領キュラソー行きのプランの立案にはいくつか説があります。いくつかというよりそのすべてが含まれるのかもしれません。なかなか興味深いエピソードなので2つほど紹介したいと思います。
まず代表的な説
普通の状況ならば、最終目的地の入国ビザがなく、出国許可もなければ渡航費用もないのに、日本通過ビザを取得してもしょうがないのではないか、いや、大体その条件で日本通過ビザを取得できるわけがない、そう考えます。しかし、リトアニア領事館に押しかけて、杉原に会見を求めたユダヤ人の代表ゾラフ・バルハフティックは密かに大胆なプランを持っていました。
それは、逃走のための架空の経路でした。
北方ルートはドイツ占領軍で封鎖され、南方ルートはトルコの拒否で閉ざされ、リトアニアに追い込まれたユダヤ人がパレスチナへ逃れる道は断絶された状態でした。唯一日本を経由して大回りでパレスチナへ向かう手がありはする。
しかし、行き先がはっきりしないのだから、日本が通過ビザを出してくれるはずがない。
そこで突如あらわれたのが、カリブ海に浮かぶオランダ領の島、キュラソーという地名でした。キュラソー行きにはビザを必要としませんでした。ユダヤに同情的なオランダ領事が、申請書にキュラソーにはビザなしで行けるとだけ書いてくれたのです。しかしそれは「行けますよ」という単なる証明書にすぎない紙切れでした。実際にキュラソーへ行くわけではない。つまり、この証明書をもとにして、キュラソーへ行くように装って、日本の領事館から通過ビザを取得しようというのがゾラフ・バルハフティックの苦肉の策でした。
リトアニアからカリブへの最短ルートは、ソ連、日本、太平洋、パナマ運河の経由だと主張する。このゾラフ・バルハフティックの主張を、架空のものと重々知りながら、杉原千畝は日本通過ビザを発給したのです。
何故杉原はあの時ビザを出してくれたのか、と後に多くのユダヤ人は振り返ったそうです。表立って救済の意志表示をしなかった杉原は、ただ黙認し、ひたすらビザを発給し続けるのみでした。しかし、すべての混乱が終わった後に、杉原がゾラフ・バルハフティックの逃走プランを理解していたことが明らかになり、杉原ビザに深い人道の意味がこめられていたことをあらためて世に知らしめることとなったのです。中には、表紙がちぎれて明らかに期限切れとわかるようなパスポートすらありましたが、それでもビザのスタンプを押すという杉原の行為は、無言でありながらも強い救いの意志があったことを裏付けるものです。
次のもほぼ関連する説です。
日本通過ビザを発行する許可を杉原は東京に問い合わせたが こころよい返事はなかった。 外交官の自分たちも、そこはソ連領になるから退去しなければならなくなって 時間との戦いで、ぎりぎりまで可哀想なユダヤ人たちに 日本通過ビザを発行する。 彼にアイデアを教えたのは、若いユダヤ人の弁護士。 それは、先にドイツに占領されオランダに帰られなくなっユダヤ人が カリブ海のオランダ領キュラソー島(岩だらけ何の魅力もない)なら 行けるからと、そうやって脱出した例を聞かせたらしい。 そこで杉原も、シベリア鉄道経由で日本に行き、 そこからさらにカリブ海のキュラソー島にいくという作文のもとに 日本通過ビザを乱発したらしい。 いちおう関係各国に問い合わせて問題なしという返事はえたようだ。

杉原の決断

ビザ発行の最低限の条件をクリアしたのでユダヤ人の代表が杉原に交渉に向かいます。オランダ領キュラソーに難民として行くので日本通過ビザを発行して欲しいとの交渉です。このオランダ領キュラソーに行くというのもはっきりいって嘘で、実際はソ連を出国できたら日本からアメリカなり上海なりに亡命するのが本音ですが、もちろんそれも含めての交渉です。さらにさらにもっとも困難な交渉が十分な身分証明書や所持金のない者までビザを発行して欲しいという極めて困難な交渉でありました。

杉原が優秀な外交官であった証拠は各種の資料に伺えます。またその中でもロシア(ソ連)については外交官としての赴任をソ連が拒否するという異例の事態が起こるほどの専門家でした。。当時も今もこれもまた変わりはありませんが、外交官というのは一面で諜報員の性格も帯びており当時の世界情勢、ユダヤ人の状況、ドイツの狙い、ソ連の意向など十分熟知していました。もちろん日本の外交姿勢がドイツよりであった(ほどなく三国同盟を結ぶ)こともよく承知していました。それでも杉原は純粋のヒューマニズムからビザの発給を決断します。

まず杉原はソ連通過問題を独力で交渉し了解を取り付けます。そして有名な外務省との電報による交渉が始まります。杉原の外務省への要請の骨子は次の通りです。

人道上、どうしても拒否出来ない。
発給対象としてはパスポート以外であっても形式に拘泥せず、彼らが掲示するもののうち、領事が最適当のものと認めたものであればそれでよい。
トランジットの性質を失わないため、ソ連横断の日数を二〇日、日本海在三〇日、計五〇日と推測し、この五〇日の間には何が何でも、第三国行きのビーザも間に合うだろうという趣旨を織り込んだ請訓電を打った。

外務省からの返事は一部に原文が手に入りましたので掲載しておきます。

1940年8月16日
松岡外務大臣より在カウナス杉原領事代理宛電報第22号
電送第27465號
昭和15年8月16日 後8時00分
宛 在カウナス杉原領事代理   發 松岡大臣
件 避難民ノ取扱方ニ關スル件
 第二二號
最近貴館査證ノ本邦経由米加行「リスアニア」人中携帯金僅少ノ為又ハ行先國ノ入國手續未濟ノ為本邦上陸ヲ許可スルヲ得ス之カ処置方ニ困リ居ル事例アルニ付此際避難民ト看傲サレ得ベキ者ニ対シテハ行先國ノ入國手續ヲ完了シ居リ且旅費及本邦滞在費等ノ相當ノ携帯金ヲ有スルニアラサレハ通過査證ヲ與ヘサル様御取計アリタシ
現代語訳
最近カウナス領事館発行している日本経由アメリカ行きのリトアニア人へのビザは、十分な旅費を持っていなかったりアメリカへの入国手続きが済んでいないものが多く、日本への上陸許可を出すかどうかで外務省は扱いに大変困っている。そのため避難民にビザを発行するときにはアメリカへの入国手続きが済んでいることを確認し、日本での滞在費を含めた十分な旅費を持っていることを確認したうえでビザを発行するようにされたし。
1940年9月3日
松岡外務大臣より在カウナス杉原領事代理宛電報第24号
電送第29345號
昭和15年9月3日 後5時50分
宛 在カウナス杉原領事代理   發 松岡大臣
件 避難民ノ取扱方二關スルル件
 第二四號
貴電第六七號ニ關シ船会社カ帝國領事ノ通過査證ヲ有スル者ノ乗船ヲ浦潮ニ於テ蘇官憲ノ命令ニ反シテ拒絶スルコトハ事実不可能ナルノミテラス右ハ我方査證ノ信用ヲ害スルモノナリ現ニ貴電ノ如キ取扱ヲ為シタル避難民ノ後始末ニ窮シ居ル実状ナルニ付以後ハ往電第二二號ノ通厳重御取扱アリタシ
現代語訳
船会社が日本のビザを持った人の乗船をソ連警察の命令に背いてまで拒否することは事実上不可能であり、さらにこのようなビザを発行することは日本のビザの信用性を損なうものである。外務省としてはカウナス領事が発行したビザによる避難民の扱いに大変困っている。今後は先日の電信の通り、ビザ発行については厳重な審査をして頂きたい。

よく言われているのは外務省は「ユダヤ人難民へのビザ発行を拒否した」と伝えられますが、これは不正確で書類・手続きが整っていない非合法難民へのビザ発給を拒否したというのが正しいところです。もちろんユダヤ人であるからとの理由ではありませんでしたし、手続き・書類の整っているユダヤ人難民にはすでにビザを発行しています。

ここまででも杉原は職務上できることを十分果たしていますし、ソ連との交渉なんかはすでに職務を超えています。外務省の反対を押し切ってビザを発行したところで杉原個人にはなんら見返りが期待できるわけではありません。むしろ今後の役人生活のうえでの大きな失点になることは明らかでした。そんな個人のしがらみを振り切ってビザ発行を断行した偉大さは「外務省のユダヤ人に対するビザ発行禁止を押し切って」ではなく「外務省の非合法難民へのビザ発行禁止を押し切って」に変わってもなんら輝きが失せることはありません。

当時の杉原の心境はこう記録されています。

最初の訓令を受理した日は、一晩中私は考えた。考えつくした。訓令を文字通り民衆に伝えれば、そしてその通り実行すれば、私は本省に対し従順であるとして、ほめられこそれ、と考えた。仮に当事者が私でなく、他の誰かであったとすれば、恐らく百人が百人、東京の訓令通り、ビザ拒否の道を選んだだろう。それは何よりも、文官服務規程方、何条かの違反に対する昇進停止、乃至、馘首が恐ろしいからである。私も何をかくそう、訓令を受けた日、一晩中考えた。・・・果たして浅慮、無責任、我無者らの職業軍人グループの、対ナチス協調に迎合することによって、全世界に隠然たる勢力を擁する、ユダヤ民族から永遠の恨みを買ってまで、旅行書類の不備、公安配慮云々を盾にとって、ビザを拒否してかまわないのか。それが果たして、国益に叶うことだというのか。苦慮、煩悶の挙句、私はついに、人道、博愛精神第一という結論を得た。そして私は、何を恐れることなく、職を賭して忠実にこれを実行し了えたと、今も確信している。

ビザの発行枚数は公式記録にあるだけで2139枚、杉原はあまりの枚数をこなさなければならないため、途中から手数料の徴収もやめ、ビザ発行を記録するのもやめて書き続けましたので、おそらく4500枚以上で最終的にはのべ6000人以上のユダヤ人にビザを発行したと推定されています。

奇跡のビザの威力

実はここまでで杉原千畝の出番は終わります。ただし杉原ビザはこの後「奇跡のビザ」と言っても良いほどの効力を発揮します。ここまでの経過を読んでもらえればわかるように、杉原はビザ発行に関してほぼ無制限に発行しています。パスポートの表紙が破れて有効期限が明らかに切れていると見えるもの、またどこからみてもわかる偽造パスポートであってもすべてビザを発行しています。もちろん所持金どころかトランクひとつの着の身着のままの人間であってもすべて発行しています。あれだけ厳重にビザ発行を禁止した外務省命令があるのですから、日本上陸を拒否してソ連に送り返す事態になってもなんら不思議はありませんでした。

しかしどうやら杉原自身はこの杉原ビザの有効性を密かに確信していた形跡があります。というのも前例に近いものがあるにはあったのです。

外務省アメリカ局第三課長から杉原は連絡を受けた。 「MGM東京支配人ベルマンより、貴殿の担当地域に亡命中のポーランド人の義弟 カッツを約1ヶ月東京に呼び寄せたい旨、願い出あり」 この件では外務省は内務省と協議済みだった。 カッツがカウナスで申請すれば、日本入国のビザは何も問題がないはずだった。 杉原は 1940.3 電報を打つ。 「1月の貴殿の電報にもとづき、小職はカッツに対して本邦入国ビザを発給した ので、ビザ調書を別添送付す。なお同人は(ナンセン旅券)で出国手続きを終えた後に ピザ発給を願い出た。もし当領事館にての旅券でのビザ発給を拒めば彼の出国は 事実上不可能になるよって情状やむをえざるものと認め、例外として これにビザを発給したのでご了承ありたい。」 どうして、これだけ大げさに報告書を送ったのか。 カッツはポーランド人で、もはやポーランドという国はスターリンとヒトラーに とって存在しないものだった。カッツのもつポーランドの旅券ではビザが発行 できなかった。 そのときの救済策として、カウナス駐在のイギリス領事がポーランド亡命政府の 代表にイギリス領事館内で臨時の旅券(ナンセン旅券)の発行を認めたのである。 この言わば幅セミ・ビザともいえる方式のビザは1922国際連盟理事のナンセンの 提案で作られたものであった。揺れ動く国際情勢の中で、数百万の国籍喪失者が この旅券を使い安全地帯に逃れて行った。 杉原は、このカッツに日本入国ビザを出すという決定を下した外務省の権威を擁護し、 ナンセン旅券という問題のあることを指摘して公的に記録し、間接的にこの旅券の 有効性を疑問視することを否定している。 かれの巧妙な戦略は後に続く大量ビザ発給を暗示している。

難行苦行の末にシベリアを横断しウラジオストックに到着した杉原ビザ保有のユダヤ人難民に対し、ウラジオストク領事にハルビン学院の同窓生、根井三郎が存在したのも僥倖でした。根井は、杉原ビサの紛失者に再発行したり、条件不備のユダヤ難民への渡日乗船のための検印押捺を禁止するという外務省からの厳命に対して、杉原領事が一度発行したトランジットの無効を宣言することは、「帝國在外公館査証ノ威信ヨリ見ルモ面白カラス」と、これを斥け、独自の判断で難民たちを乗船させたのです。この紛失者にもというのが重要で、結局ウラジオストックにたどり着いたユダヤ人のすべてにビザを発給したことになります、その数は15000人にのぼるとされています。

敦賀上陸後も問題は続きます。杉原ビザの有効期限は10日間というものです。なぜ10日間にになったか、またこれをどのように乗り越えたかですが、次のような事実があったと検証されています。

杉原がユダヤ人達に発給した日本通過ビザの有効期間は、全て「10日間の通過ビザ」だった。そのビザを携えて彼らは、福井県の敦賀港から日本に上陸したのである。

それに従えば、10日以内に行き先国へ向かう国際線を見つけ、日本から離れなければならない。しかし、10日では国際線を見つけるのは不可能であると判断した千畝は、本省に「日本滞在30日」のビザを申請したのだが、結果は前述の通り拒否され、仕方なく10日間の通過ビザで処理されたのである。ところが、当時の「外国人入国令」の通過ビザの規定には日本滞在期間が14日以内とされている。なぜ、千畝は14日ではなく10日で処理したのか。その規定通りにビザを発給するには、受け入れ国の入国確認ができ、交通費他必要な経費を所持しているなどの条件を満たしていなければならず、彼らのほとんどが条件不備者であったためである。

しかし、日本に上陸したユダヤ人達に思いがけない幸運が待ちうけていた。ユダヤ人の代表が、ユダヤ人に通じ、ユダヤ教の研究者であり信者である小辻節三をたずね、日本滞在延長への協力要請を持ち掛けた。小辻は、快く引き受け彼らと一緒に、何度も外務省へ足を運び懇願したのである。しかし、全く受け入れてもらえず、思案の末外務大臣松岡洋右に直訴する事にした。驚く事に、松岡が満鉄総裁をしていたとき、松岡自ら口説いて小辻を総裁室に所属させユダヤ研究をさせており、二人は旧知の間柄であった。さらに、満州では、松岡自身がユダヤ避難民の救出(オドポール事件が有名)にあたっていたのである。

「私は独・伊と同盟は結んだが、ユダヤ人を殺す約束まではしていない。」との松岡の言葉が残されている通り、松岡はユダヤ人に対して非常に好意的であった。これが効を奏して、小辻は松岡から「ある便法」を示唆された。千畝の発給した10日間の通過ビザを見ると、中央に楕円形のゴム印が押され、そこには「入国特許・福井県」の文字と「自昭和○年○月○日・至昭和○年○月○日」との日付があり、日数を確認すると、期間が一ヶ月になっている。つまり、「ある便法」によって10日間の通過ビザが、敦賀に上陸した時点で「入国特許」という形で一ヶ月に延長されているのである。

その「ある便法」については、これまで謎とされてきたのだが、渡辺勝正氏は、千畝の残したメモや小辻が千畝の四男に書き送った手紙などから、一つの結論を導き出した。それは、小辻は松岡からの示唆と助力により、敦賀に行き、外務省了解という事で「入国特許」のゴム印を作らせ、神戸港の警察本部外事部長に会い、ユダヤ人が乗船できるまで、彼らの滞在を黙認させた、というものである。さらに1ヶ月の期限が切れるとほぼ無制限に延長許可を繰り返せるようにしたというものだ。

敦賀上陸後のユダヤ人難民たちに対しての扱いもこれは日本人として嬉しい対応を行ったと思います。なかにはボロをまとうような姿で上陸した人々に対し、温かい飲み物や食べ物をふるまい、次の亡命地への宿泊施設を神戸に設け、また日本滞在中には本当に手厚いもてなしを行いました。これはヨーロッパで迫害の限りをつくされていたユダヤ人たちにとっては信じられないほどのものでした。
神戸からユダヤ人たちはアメリカへ、イスラエル(英領パレスチナ)へ、または香港、上海へと安住の地を求め旅立ってきました。上海は日本の支配下でしたがドイツからの再三の要請にもかかわらず実質上「まったく」と言ってよいほどユダヤ人への規制措置は行わず、彼らもまた第2次大戦後アメリカやイスラエルへ安全に移住していきました。

外務省があれだけ反対したにもかかわらず、ユダヤ人難民が日本到着後いやウラジオストック到着後、手のひらを返したようなまるであらかじめ計画されたかのように手厚く保護された経過をとらえて、「あれはあらかじめ外務省がシナリオを書き、杉原千畝はたんにその命令に従っただけである。だから命のビザの功績は杉原にあるのではなく、日本にある」とのトンでも評価をする人が存在します。またそこからの発想の飛躍でしょうが、「杉原はビザ発行の時に巨額の賄賂を受け取っていた」とけなすひとも最近出てきているようです。まったくもって言語道断のことでよくそこまで物事をねじれた目で見れるのかと感心するぐらいです。

リトアニアと日本の距離は今でも近くありませんが、当時はとてつもなく遠い距離でした。国際電話なんてものはなく情報のやり取りは電信にのみに頼っていました。そのとき外務省が出した杉原への訓電は公式記録として残っています。またビザ発行後の杉原の行為への譴責の訓電(「貴電ノ如キ取扱を為シタル避難民ノ後始末ニ窮シ居ル」(9月8日付))もまた残っています。日本は敗戦後の混乱はありましたが、こういう記録は正確に残っており、もし秘密の訓電などがあってもこれも正確に残っていますし、もちろんそんなものはどこにも存在しません。

ユダヤ人難民の日本上陸後の手厚い保護はなぜおこったのでしょうか。最初のほうにも書いた通り、日本人はユダヤ人に対しほとんど偏見というものをもっていませんでした。これは政府レベルでもそうですし、軍部もそうであり、民衆レベルでも同様のものであったようです。だから欧米での常識であるユダヤ人差別も、当時も現在も理屈でも感覚でも理解できないものがあります。日本人にとってユダヤ教もキリスト教もしょせんはキリシタンで、せいぜい浄土真宗と日蓮正宗の違いぐらいにしか実感できません。もっとも日本人にとっての宗教観は神道と仏教の違いでさえ曖昧なところがあるぐらいですからしかたがないでしょう。人種についてもアングロ・サクソンやゲルマン、スラブやラテン民族といわれても大雑把に白人というカテゴリーに含まれており、ユダヤ人もまた白人のカテゴリーに分類されています。

ユダヤ人は長い迫害の歴史から他を受け入れない頑固なまでの宗教観と結束があり、またヴェニスの商人のシャイロックに代表される金融業に大きな力を持ち、ヨーロッパ人とすれば賎民と卑しんでいるユダヤ人に膝を屈してお金を借りるという行為の積み重ねが余計に憎悪を募らせた一面もあったようです。
日本人にとってのユダヤ人観は宗教的にはたんなるキリシタンの一派であり単純に言えば異教徒です。さらに異教徒といっても別にどうこう騒ぐほど問題でないという不思議なところが日本人にあります。また金融業やビジネスの世界でもほとんどユダヤ人であるからといって問題を起こすような事象は無く、むしろ日露戦争時に戦費調達に大きな力を貸してくれたことなどむしろ善の印象が強い民族です。

日本はドイツと三国同盟を組むことになりますが、ドイツの国是とも言うべきユダヤ人排斥には全くに近いほど手を貸しませんでした、それどころか積極的に保護をしようという政策(五相会議が有名)の方が目に付きます。さすがに博愛主義から出たといいませんし、ねらいはユダヤ資本を日本や満州の開発に利用しようという本音(河豚計画が有名)があるにしろ、当時(現在ですら!)の世界情勢でユダヤ人を擁護するなんて奇妙なことに政府はおろか民衆レベルまで積極的であったのは奇観とするに足ります。

杉原に外務省訓令を送りつけた松岡洋右自体の行動も奇妙なもので、あれだけ「NO!」の訓電を繰り返し送ったにもかかわらず、いざユダヤ人が日本に来るとその保護に熱中します。上述したとおりですが、上陸後の日本滞在期間の実質上の無期限延長措置(裏技に近い)や部下の無制限に近い入国措置の黙認、滞在中のユダヤ人への手厚い保護などそれだけする気があるのなら、あんな冷たい訓電を送らなければ良いのにと思うほどです。
強いて松岡の矛盾した行動を説明するなら、ユダヤ人上陸時には三国同盟がすでに成立しており日本を事実上牛耳っていた陸軍はドイツとの友好を至上の方針にしていました。そのため公式の日本政府の態度としては松岡も含めてユダヤ人保護を打ち出すのはまずいとの思惑があったにちがいありません。だから愛情とか憐憫のカケラも感じなような訓令を下していましたが、実際にユダヤ人が来ると本来のユダヤ人への憐憫の情が沸き起こって、ああいう行動になったと解釈できます。これは憶測ですが杉原の解任は松岡が外務大臣を辞職した後にある意味唐突におこっていますので、松岡自身は杉原の行為を内心認め彼の在任中はひそかに擁護していたのではないかとも考えれます。

戦後杉原はこの事件の責を問われて解職させられたとされていますが、もし本当に無理無謀なことをしていたのならビザ発行の時点で即刻解任されていても不思議ありません。さらには杉原の英断もウラジオストック領事の根井三郎の取り計らいや松岡洋右のフォローがなかったら逃げてきたユダヤ人たちはむなしくシベリアの地で悲劇の最後をとげたかもしれません。杉原の決断には大変な勇気を必要としましたが、例外的ビザ発行の前例、日本政府および日本人のユダヤ人への親愛感情、その他もろもろのエッセンスを総合して「自分は譴責を受ける可能性は十分あるが、ビザさえ発行すれば助かるはずだ」の綿密な計算もあったと考えます。

カナウスでのビザ発行決断の前後、発行中、また最後にベルリン行きの列車が発車して発行をあきらめざるをえなくなるときまで、目立った語録はほとんど残していないようです。もちろんこの杉原ビザの発行は自分の独断であるとかも一言もしゃべらず、ユダヤ人の印象としてひたすらその要求に黙認を与え、どうして杉原は我々にビザを発給してくれるのだろうと不思議に思っていたそうです。またリトアニアを去った後、外務省を去った後、戦後に生活で非常に苦労している時期でも、わずかに家族だけに思い出として「あのときのユダヤ人はその後どうなったのか?」と話す程度であったらしいです。

Sempo Sugiharaの発見

ユダヤ人たちは大戦後、戦時中の苦しい時期に恩義を受けた人々を探し出してお礼をしていますが、杉原の発見は戦後28年を要しています。通説は千畝という名前の読みである"Chiune"がユダヤ人には発音しにくく、"Sempo"と読んでいたため発見が遅れたとされています。たしかにそういう部分もあったでしょうが、あの時のユダヤ人の感触として「杉原は我々の要求を実現するために外務省と交渉してくれたが、許可を与えたのは日本政府である」と思いこんでいたのもあるのではないでしょうか。もちろん絶体絶命の窮地、孤立無援の中、唯一杉原のみが深く同情して本国政府に懸命の交渉をしてくれたこと、また膨大なビザ発行を超人的な努力でこなしてくれたことには深い感謝をもっていたはずなんですが、一番肝心な外務省訓令に逆らってまでのビザ発行であるとは知らなかったのです。

杉原とバルハフテック
再会を果たした杉原とバルハフティック

昭和43年8月ソ連との貿易の仕事の間に一時日本に帰国していた杉原にイスラエル大使館から一本の電話がありました、怪訝に思った杉原でしたがともかくおもむき、そこで参事官と面会しました。参事官は「私のことを覚えていますか?」とたずねましたが、杉原にはどうも記憶の無い人物であったので「もうしわけありませんが・・・」とこたえたところ、参事官はボロボロになったビザを取り出し、みるみるあふれてくる涙をぬぐいもせず、「あなたは私のことを忘れたかもしれませんが、私たちは片時たりともあなたの事を忘れたことはありません、28年間あなたのことをさがしていました。やっと、やっと会えました"Sempo Sugihara"」。

彼こそカウナスでユダヤ人代表の一人として杉原と交渉を行ったニシェリ(B. Gehashra Nishri)だったのです。彼は参事官としてイスラエル大使館に赴任後あの"Sempo Sugihara"をなんとか見つけ出し、あの時のお礼をしなくてはならないと八方手を尽くしていたのです、これは杉原にビザを発給してもらい助け出されたユダヤ人全員の願いでもありました。

翌昭和44年、杉原はイスラエルに招待されました、出迎えたのはバルハフティック宗教大臣(A.Dr.Zorach Warhaftig)。彼もまたカウナスでビザ発行の交渉を杉原と行ったひとりです。生きての再会を喜んだ二人でしたが、バルハフティックはこのとき驚くべき事件の真相を知ることになります。あの杉原ビザの発行が日本政府の意思ではなく杉原が独断で外務省訓令に逆らって発行したこと、さらにそれが原因となって杉原が外務省を辞職せざるを得なくなったことです。ユダヤの民族の恩人として永遠に語り継いでいかなければならない偉大な功績に対し、顕彰どころか杉原に与えられたのはただ譴責のみであったという事実です。

奇跡のビザ
奇跡のビザ

"Sempo Sugihara"の発見とそれに引き続く事件の真相の判明はユダヤ人たちに大きな衝撃と感動を与えることになります。杉原の名はヤド・バシェムに飾られ、イスラエルの名誉ある賞である諸国民の中の正義の人賞が与えられることになります。さらにゴールデン・プレート(これはユダヤ民族で世界に偉大なる貢献した人物もしくはユダヤ人が忘れてならない恩恵を与えてくれた人物の名を刻んだプレート)にモーゼやメンデルゾーン、アインシュタインと並んでその名が刻み込まれています。

ところでどれほど脱出に成功したユダヤ人たちがこの杉原ビザを大事にしていたか。安住の地に脱出後も肌身離さず持ち歩き、あるときテレビ取材があったとき、それを貸し出すのはおろか撮影することさえ難渋した言うエピソードが残っています。この時ユダヤ人は「このビザのおかげで私はここに生きている。もしこれを杉原が書いてくれなかったらこの息子たち、孫たちの誰ひとりこの世に存在していない。これは私と私の一族の命であり魂である。その命や魂をお貸しするわけにいかない、テレビなどには決してお見せするわけにはいかない」と誰しも口を揃えて話したと伝えられています。

杉原自身はこの功績を人に語ることを嫌がりました。晩年やっとわずかな日本人にこの事実が伝わり、ビザ発給の動機を尋ねるひとがいました、杉原は死の前年にこう答えたと記録されています。

「あなたは私の動機を知りたいという。 それは実際に避難民と顔をつき合わせた者なら誰でもが持つ感情だと思う。 目に涙をためて懇願する彼らに、同情せずにはいられなかった。避難民には 老人も女もいた。 当時日本政府は一貫性のある方針を持っていなかった、と私は感じていた。 軍部指導者のある者はナチスの圧力に戦々恐々としていたし、内務省の役人は ただ興奮しているだけだった。 本国の関係者の意見は一致していなかった。彼らとやり合うのは馬鹿げていると 思った。だから、返答を待つのはやめようと決心した。 いずれ誰かが苦情をいってくるのはわかっていた。しかし、私自身、これが正しい ことだと考えた。多くの人の命を救って、何が悪いのか。 人間性の精神、慈悲の心、そういった動機で、私は困難な状況に、 あえて立ち向かっていった。」

さらにいつも淡々とこう語っていたそうです。

新聞やテレビで、さわがれるようなことじゃないよ。私は、ただ当然の事をしただけだから。