源氏に対して平家と呼びます。もちろん平氏とも呼びますが、源氏は源家とはあまり呼びません。平姓は皇族が臣籍降下した時に賜った名字ですが、平氏に関してはほぼ桓武平氏のみしか栄えず、それも関東に早い時期から土着し土地の姓を名乗るようになってしまい、平姓を名乗ったのは京都に残り公家となった高棟王流と伊勢平氏などわずかであり、後に清盛が威勢をきわめると、清盛とその一族と京都の高棟王の平氏のみが平氏と見なされ、平家と通称されるようになっています。
源氏が前九年の役後三年の役で関東に勢力を拡大し、土着勢力として関東に主に根づいたのに対し、平家は京都進出を悲願としました。平家の西国の基盤は清盛の父忠盛の代に築かれたとされます。忠盛は西国国司歴任時代に瀬戸内の海賊退治で功績を上げると同時にその水軍を支配下におさめ、強大な海上勢力と海運からあがる莫大な富を手に入れます。
忠盛は海賊退治の功績と莫大な富による賄賂で京都での出世の糸口をつかみます。晩年には刑部卿にまでなり、異例の事ながら昇殿まで許されています。清盛は武家の子ですので武芸にも励んだでしょうが、京都での官界遊泳のために貴族の作法教養も同時に叩き込まれていたと考えます。清盛の資質は英邁で、忠盛も清盛の将来に大きな期待を寄せていたでしょうが、それでも京都藤原氏をしのげるようになるとは夢にも思わなかったと考えます。
しかし時代は清盛に歩んできます。藤原摂関家の勢力を抑えたい後白河天皇(後に上皇、法皇)は清盛を重用し、やがて摂関家の内紛からの保元平治の乱での活躍で清盛は時代の主役に躍り出る事になります。
後の源平合戦では平家武者の弱さと源氏武者の強さがあまりにも対照的に語られ、これが常識化していますが、平治の乱の経緯を見ると平家武者がそんなに弱かったと思えません。乱の細かな経緯は長くなるので省略しますが、当然平家方には西国武者が、源氏方には東国武者が参加し、兵力的にもほぼ互角ないしはやや平家優勢です。京都を舞台に御所、六波羅、六条河原と源平入り乱れての激戦が終日行なわれていますが、結局戦いつかれて敗れたのは源氏側であり、押しきったのは平家側です。
もちろん双方の大将である清盛、義朝の器量の差は歴然としており、戦術的にも戦略的にも平家側が圧勝している事情はあれ、個々の武者の戦闘で平家側が源氏側に著しく劣ると言う事はありません。後に平家物語で書かれる様に平家武者が源氏武者に対し恐怖心を抱いていたのなら、清盛の戦略によりいかに優位に立とうとも、六条河原で源氏軍をみた平家勢は壊走していたはずです。
乱の後の処置として義朝の遺児である頼朝や義経の助命をしたことが清盛一代の不覚であるとされます。しかし清盛には違う計算があったと考えます。史書的には池の禅尼の嘆願とされていますが、清盛の頭にあったのは父忠盛が海賊退治の時に、海賊大将を巧みに許し味方につけ勢力を拡大した経緯を踏まえたのではないかと思います。許してくれるのなら忠盛の支配下に入ろうと続々と降伏した海賊たちの姿を知っていた清盛は、頼朝らにもその効果を計算したのではなかったのでしょうか。
もちろん源氏が壊滅した時点で、全国の武家の棟梁になった清盛は、義朝の遺児が少々の反乱を起してもすぐさま息の根を止めるj自信があったことは言うまでもありません。ただ清盛にとって惜しむらくは、なぜ頼朝を関東の伊豆に流したかと言う事です。せめて隠岐の島とか、土佐とか、佐渡とか、八丈島とか、俊寛ではありませんが鬼界が島だとかにしておけば、遺児を助命する優しさのアピールでき、一方でそこまで辺鄙なら反乱を起すに起せなかったと思ってしまいます。
源平合戦での平家側は常にドジを踏んでいる印象となっています。水鳥の音に逃げた富士川の合戦、火牛の計に翻弄された倶利伽羅峠の合戦なんかは典型です。もちろんその後に都落ち、一の谷、屋島、壇ノ浦と連戦連敗を重ねる事になります。
しかし倶利伽羅峠の敗北後では平家の戦略士気は一変していると感じます。木曽義仲の京都進攻に対し、防衛の難しい京都を放棄したのがまずすぐれた戦略です。冷静に余力を残して地盤である西国に撤収したのはそう簡単に出来るものではありません。
京都は今の京都と違います。首都であり、日本唯一の都市であり、文化の中心であり、政治権力の中枢です。ここを抑えている者が天下を握ると同じ意味があり、放棄するとはその地位を失うのと同じ意味があります。通常の戦略思想であるなら、なんとか京都に平家勢力を呼び集め、義仲撃退の方策を考えるはずです。この考え方で戦って討ち死にしたのが宇治川の義仲です。
また戦争において撤退する事は一番難しいとされています。戦争では進撃する時は士気も上がり結束しますが、逃げる時は士気も下がり、集められた兵は散りじりになってしまいます。平家都落ちの報告を聞けばそれだけで源氏に寝返る勢力が続出する危険性もあります。平家一門の中にだって源氏に寝返ってわが身の保身を図ろうとする者が出ないとは限りません。
それを一門の結束を崩さず、寝返り勢力を押さえ込んだ戦略性は驚嘆すべきものであると感じます。都落ちの大戦略を平家は着実に進めます。都を落ちた平家は屋島に新たな根拠地をまず築き、基盤である西国に平家支援を固めて回ります。その成果は如実で、源氏側が宇治川で内輪もめをしている間に、一大軍事拠点を一の谷に構築し京都奪還を狙うほどになります。
平家が一の谷に拠点を築いた戦略的な狙いですが、一方を海、二方を急峻な山に囲まれた要害の地であったこと。平家の得意とする海運を利用して兵糧、兵員の輸送に便利である事があります。ここで一の谷に結集した平家軍を総動員して京都に進撃し、これを迎え撃つ源氏軍と山崎辺りで決戦を行なう選択枝もあったでしょうが慎重に回避しています。
平地決戦では勝敗は五分五分で時の運となります。いくさは時の運がついて回りますが、優れた戦略家は時の運に頼る部分をできるだけ減らし、間違いなく勝つ戦略を選びます。平家の選んだ戦略は要塞に拠っての持久戦だったのです。
要塞戦略にはいくつかのポイントがあります。まず攻めるほうは守備側より数倍の兵力が必要とされます。また堅固な要塞であれば攻略法として、背後に回って食糧輸送路を遮断するとか、守備側の裏切りを誘う戦略が必要です。要塞攻略は今も昔も攻める方に多大な負担がかかります。
守る方は食糧輸送路の確保も重要ですし、篭城した時にそれに終わりを期待する希望が重要です。いくら堅固な要塞で備蓄した食糧が豊富にあっても、外部からの援軍や勝利の見込みが無いと士気は低下し、裏切りがでる危険性が増します。大坂冬の陣や秀吉の小田原攻めがその典型です。
平家側の戦略はその点完璧といえます。食糧のみならず兵員の補充まで、源氏側が手も足も出ない南の海から自由に出来ます。一門の結束は固く、この絆は壇ノ浦まで崩れる事はありません。勝利への希望は関東からの遠征軍である性質上、長期の滞陣は源氏側のほうに食糧、兵員の補充の問題が生じ、源氏が攻め倦んで苦戦しているとのニュースが流れると源氏側に裏切りが出る可能性が生じます。
本文でも書きましたが、源氏側の主力が一の谷の東の木戸に釘付けになれば、制海権を握る平家側はその背後に自由に挟撃のための軍勢を上陸させる事が出来ます。平家優勢のニュースが流れるともともと地盤の西国で新たな軍勢の募集は容易であり、一方で遠征源氏軍は新たな援軍ははるか関東であり、まさに進退窮まることになります。
この大戦略を誰が編み出したかは定かではありませんが、立案者は作戦のすべてを点検しあらゆる可能性をすべて吟味しても負ける可能性を見つけ出す事は出来なかったと思います。強いて懸念を挙げるとすれば、頼朝が関東から大軍を率いて援軍に来る事ぐらいですが、来るまでに畿内の源氏遠征軍は十分に撃破する余裕は時間的にありますし、撃破しきれなかったとしても一の谷要塞さえ堅持すれば、源氏軍の数が増えるだけで戦略の有効性は変わらないと判断できます。
歴史の「もし」はいくらでもありますが、義経がいなければこの戦略は間違いなく成功していたに違いありません。最終的な源平の勝者はわかりませんが、源氏遠征軍は壊滅し、歴史は京都を奪還した平家と、鎌倉を拠点とする源氏の東西対立時代となっていたと考えます。そうなれば源平の勝利の鍵を握るのは奥州藤原氏の動向となり、まったく違った歴史が展開されていた可能性があります。
史実は一の谷、屋島と義経一人にかきまわされて平家は追い詰められます。それでも最終決戦壇ノ浦に平家は巨大な海上兵力を出現させます。この底力には驚嘆の思いを隠せません。ここまで連戦連敗でなおかつ有力な軍事力を保持できた例はまさに空前絶後です。はるかに下って関が原で大敗を喫した西軍の諸将の中には、自分の所領に逃げ帰り再起を図ろうとしたものが何人かいます。ところがやっと帰った城はも抜けの空になっており、それどころか逃げ帰った領主を捕まえて恩賞にありつこうとするものがウヨウヨいました。負けると言う事はそれだけ人の心を変えてしまうのです。
平家軍の数も驚異ですが、戦いぶりの鮮やかさも見事です。平家の軍勢も小さくはありませんが、源氏側はそれをしのぐ軍勢を催しました。平家は海上戦のプロですから、海上での数の有利さの絶対性を十分承知していたと考えます。まともに戦えば必敗であるのを分かった上で滅びの美学を選択したのです。
最低限の勝つ戦略は施しました。潮の流れに乗っての午前中の戦いです。この時間帯に兵力の小さい平家側が押しきれば勝利、押しきれなければ敗北だけではなく一門滅亡の覚悟を決めていたと考えます。ここまで頑強に戦ってきた平家ですが、さすがにこの一戦で敗れれば、二度と兵力を建て直す事は不可能であるとの冷静な戦力分析と、敗れて落ち延びて名も無い武者に討ち取られるのは名門平家の誇りが許さなかったのだと考えます。
壇ノ浦の最後は平家物語のクライマックスのひとつです。最後の最後に少数の例外は出ましたが、ほとんどの平家の大将達は見事に散っていき、源平合戦の有終の美を飾る事になります。この散り際の見事さがいつまでも日本人の心をとらえて離しませんし、800年以上が経ってもこうやって平家の事を語り、書き継いで行く者が絶えないのだろうと思います。