政治の鬼才頼朝

源平合戦での頼朝の働きはすこぶる地味です。華やかな戦勝は義経によるものですし、唯一の大勝利記録、富士川の合戦も平家軍が勝手に逃げ出して終わりです。後はひたすら鎌倉に居座り、平氏に勝利後幕府を開きます。

教科書的な歴史把握ならこれに「1192(イイクニ)作ろう鎌倉幕府」と覚えたら頼朝の出番は終了です。しかし頼朝の真の凄みはこんなところにあるのではありません。清盛も卓越したリーダーでしたが、政権の枠組みは藤原摂関政治の枠組みから一歩も出ることはできませんでした。ところが頼朝はこれまでの京都での政治体制を根こそぎ否定して、まったく新しい概念の権力機構である幕府を創立するのです。これは有史以来の大事件であり、日本最初の革命と呼ぶべき出来事です。

以後の政権掌握者として幕府を作った足利尊氏も徳川家康も頼朝のやり方を時代の動きにあわせて踏襲しただけであり、わずかに信長がひょっとすると全然違う政権構想をもっていたかもと推測されるぐらいです。前例の無い頼朝の作った幕府の実態とはどんなものだったのでしょうか。

荘園制度と武士の発生

鎌倉幕府の成立を考える時、まず武士と言う階級が起こり、力を持って行ったかがわかっていないと頼朝の仕事が理解できません。そうなるとどうしても荘園制度まで遡っておく必要がありますから、回り道でもここから始めたいと思います。

中学校ぐらいで荘園制度を習った時、どうしてもイメージがつかめず、せいぜい貴族が横車を押して作った免税制度みたいなものと考えていました。この程度の理解でも中高時代の日本史は十分こなせはしました。今から思えば大雑把な授業だったと思いますが、「荘園制度から自作農が自立し武士となって言った」みたいなチンプンカンプンな解説で、この辺は駆け抜けてもなんの問題も無かったのですから授業も粗いもんだと思います。しかし今回は武士発生の根幹部分に関わることですから、もう少し丁寧になぞりたいと思います。

中大兄皇子と藤原鎌足が起こした大化の改新からの律令政治の基本方針は公地公民制です。すなわち日本全土は国有地であり、国民には等しく国が土地を貸し与え、国民は公平に税金を収める制度です。見ようによっては共産主義も行き着けばこんな形になるんじゃないかと思わせる制度ですし、国が大地主の全国民小作人制とみえなくもありません。

もちろん日本の独創ではなくモデルは当時の先進地である中国(唐)です。中国ではこの制度は歴代王朝が引き継ぎ、現在の共産政権も基本的には踏襲しています。中国ではかなりうまくいった制度も直輸入した日本では早々に維持できなくなってしまいます。

理由は簡単で平和になって人口が増えたら配る土地が無くなってしまったのです。中国王朝に比べ財政基盤がはるかに貧弱な平安政府は足りなくなっても国家が自前で開墾して増やすことが出来ず、有力者に開墾を依頼することになります。

開墾を依頼された有力者たちですが、せっかく開墾しても国に召し上げられたら骨折り損のくたびれもうけです。そのため何回かの法改正で開墾した土地は私有してよいとの事になりました。律令政治発足以来の公地公民制のほころびです。私有しても良いとなれば、有力者たちは一斉に開墾にかかることになります。ところが私有となっても税金は国有地と同様に徴収されます。

歴史上誰が考えついたか記録に残っていませんが、節税対策の裏技として荘園制度が発明されます。当時のくわしい税制は正確には知らないのですが、少なくとも貴族には税金がかからなかったようです。その貴族がいかに巨大な邸宅を所有していようが不動産税みたいな税金も無かったのです。それは当然本宅だけではなく別荘もそうですし、別荘の庭もそうです。

ここで開墾した田畑を名義上、貴族の別荘の庭園(荘園)という名目にしてしまえば、田畑は税金のかかる土地ではなく、貴族の別荘の庭の風景と言うことになり国からの課税はなくなります。貴族は免税の手助けをする代わりに国税よりやすい料金を取り懐が潤うことになります。

荘園制度はまたたくまに日本中に広がります。貴族は京都に座っているだけで日本中の開墾地主から土地を寄進され懐がパンパンに膨れ上がることになります。貴族は免税特権を行使できる官位にいることのみが至上課題となり、それ以外の事は一切関心をもたなくなります。当然のように国の収入は減りますが、この制度の矛盾を指摘し是正する地位にある人間はすべからく荘園制度の恩恵を受けているわけで、国政の場では問題にすらされず、挙句の果ては開墾された私有地のみならずもともとの国有地でさえ荘園化されていくことになります。

こうやって成立した平安貴族はありあまる富を背景に華麗な王朝文化を築くことになります。なんといっても国家財政に等しい収入があるから財産は腐るほどあります。普通の国家の最重要課題である国家予算の使い道の検討も、国家予算自体を自分たちが食いつぶして消滅させたの同然ですからやることもなし、国際問題ははるか後年に元寇があるまで基本的に大きなものは無し。貴族たちにとってはまさに「平安」時代といえましょう。

荘園制度は拡大していきましたが、さすがに全国土までいかなかったようで、減少しながらも国有地は残っていました。いろんな事情もあったでしょうが、全部荘園にしてしまうと貴族の給料分も無くなってしまいますし、下級役人の給料分、宮廷で優雅に飲み食いする分、天皇の生活費が出なくなってしまいます。
ただし、残った国有地の国税分も京都から派遣された国司(県知事)があらゆる手を使って中間搾取し、地方まわりで財産を作るのが当然の役得とみなされていましたし、京都の平安政府もなんの問題視もしていなかったので税金は怖ろしく重いものになっていたのです。あんまり重いので住民は荘園にしてもらおうと願いどんどん荘園化が進んでいくと言う悪循環にもなっていました。
しかし悪循環といっても平安貴族たちはそれでますます懐が潤うわけですから黙認どころか歓迎といってよい状態であり、国としての実態はほとんど無くなっていたに等しい状態です。

先に開墾して私有地を持ったのは有力者と書きました。近畿ではたしかに有力社寺や本当の地方豪族が開墾していましたが、遠く関東となると京都で食い詰めた一旗組が開墾の主力です。当時の京都から関東への地理感覚は、西部開拓時代のワシントンからカリフォルニアぐらいはあり、関東に行った連中は間違っても小心な小市民や怠惰安逸にふける平安貴族でもありません。

もともと辺境の地で治安の悪いところですし、開拓者同士も決してニコニコ仲良し集団というわけでもないので、汗水たらして開拓した開墾地の防衛は誰にも頼らない自衛になります。逆に言えば有効な自衛手段を持つ者のみが生き残ることになります。これが武士の発生と考えて良いと思います。関東以外でも近畿圏以外なら事情は似たり寄ったりの部分もありますから、同じようなメカニズムで武士が発生していったと考えます。

武士の目覚め

平将門
同時期に乱を起した藤原純友も平安政府を倒す軍事力はあったが新政権の構想を持たなかったことが敗北につながった。

武士は自分の領地は100%自分のものと考えています。ところが国はそこが荒地から田畑になったと言う理由だけで税金をむしりとります。反抗すれば征伐されると考えた武士は荘園制という節税対策を見つけ、国の代わりに平安貴族に税金を払うことになります。このため荘園は爆発的に増えていったのですが、反比例して平安政府の支配力は急速に減少することになります。

税金制度のもっとも単純な理解に税金を納めさせる代わりに守ってやるという考えがあります。逆に言えば払わない奴は守らないになり、これが発展すると払わない奴は成敗するになります。現代でもこの基本構造は変わらないと考えます。

ところが武士は最初から誰にも守ってもらっておらず、ただ恐れたのは平安政府が武力で自分の土地を奪いに来ないかだけでした。ところが平安政府の実行支配力が衰微し自分の土地を奪いに来ないことがわかれば、次に恐れるのは名義上の主人である平安貴族と言うことになります。

武士も当初は京都に行って荘園の地主である貴族に奉仕し、低い官位をもらってくることが地元では名誉の箔になって珍重された時期があります。ところが武士も馬鹿ばかりではありませんから、平安貴族もまた自分の土地を奪い返しに来る力が無いことに気づき、平安貴族に税金を納めることが馬鹿らしくなってきたのです。

その最初の大規模な行動は平将門、藤原純友が起こした承平・天慶の乱です。将門は関八州を制圧して新皇を名乗り、純友は瀬戸内の海賊を結集して淀川河口まで攻め寄せています。当時の将門、純友の勢力を見る限り、なぜ鎮圧されたか分からないぐらいの大反乱です。

将門も純友も配下に大兵力を有していました。一方の平安政府は実質的に武力は無いに等しく、遠い関東の将門が遠征軍をはるばる京都に送るのには無理があったにせよ、純友は淀川を遡れば京都は掌の内だったと思います。

将門、純友の乱が失敗に終わったのは、この二人に新しい政権構想が無かったためだと考えます。種々の経緯から反乱を起し、大勢力を瞬時に獲得しましたが、様々な思惑で味方をしてくれている諸勢力を永続的にひきつけ、平安政府に変わる新しい政権を樹立できるだけのブレイン、構想が無かったため、反乱初期の熱気が醒めてくると勢力が分裂減少したのが敗因と見ます。

実力は無くとも、当時の人間にとって限りない昔から続いていた平安政府の底力は未知数のものであり、その見えない影に怯え、躍らされた結果自滅したのが、この乱の真相ではないでしょうか。

教科書的には「この反乱により武士がその実力に目覚めた」と評価されていますが、最初の武士の政権である平清盛の時代まで100年、源頼朝の鎌倉幕府成立まで150年。たしかにある程度は目覚めたでしょうが、一方で平安政府の底力もまた再認識したと考えます。承平・天慶の乱は「武士の目覚め」の第一歩であるでしょうが、武士が自前で政権を握るまでに目覚めるまでのインパクトはまだなかったのです。

源平の成立

清和源氏、桓武平氏は武家の二大棟梁です。もっとも一家系と言うわけではなく、皇族が臣籍降下した時に頻用された姓であり、清和源氏、桓武平氏以外にもとくに源氏は嵯峨源氏、宇多源氏、村上源氏などもマイナーながら存在しています。

この辺は知っている人には有名なんですが、源平合戦といえば源氏が東国を基盤、平氏が西国を基盤としての東西合戦のイメージが強いのですが、平氏はもともと関東を基盤として発展した勢力です。だから遥か後年になっても関東の地生えの豪族を坂東八平氏と称したりします。

関東に源氏勢力が足場を築いたのは将門の乱を契機としたものです。登場も必ずしも格好の良いものではなく、源経基が一旗組で関東に乗り込み、地元勢力と抗争をし、負けそうになって将門が調停を行ったのですが、これを怨んで平安政府に讒訴し、将門の乱のキッカケを作っています。幸いなことに将門が敗れ、讒訴が速報の功績に変わり出世の糸口になり、最終的に鎮守府将軍になった事が源氏の関東進出の足がかりとなっています。

経基自身は武人というより官界遊泳術の得意な小役人というイメージが濃厚ですが、子孫は優秀で武士の鑑と称えられる人物を輩出します。前九年の役後三年の役で活躍した源頼義や八幡太郎義家、大江山の鬼退治で有名な源頼光が自己の勢力を扶植するだけでなく、もとは平氏である関東の武士達からこの人なら信頼できるという讃仰を受けることになり東国の武士たちの棟梁と目される地位に着きます。

一方平氏は将門の乱の時、平貞盛が活躍しますが、坂東平氏の中では将門を慕うものが多く、将門を討伐した貞盛がそのまま坂東平氏の棟梁になるのを歓迎されず、また貞盛自信も草深い坂東よりも華の京都での官界遊泳を好み、西国の国司クラスを歴任しながら平氏勢力を拡張していきます。とくに伊勢に勢力の中心基盤を置き、俗に伊勢平氏と称され西国の武士たちに歴然たる影響力を誇ることになります。

ところで京都の平安政府ですが、相も変わらないコップの中の権力争いを続けています。政争はエスカレートし、よせば良いのに相手をしのぐために武力を使おうとしました。自前の武士団なんかあるはずも無く、西国の平氏と東国の源氏の二大勢力をついに京都に引きずり込むことになります。

奢る平家の影響

平清盛
間違いなく卓越したリーダーであり、武家に初めて政権をもたらした功績は偉大である。

天皇家及び藤原家の相続争いに端を発した保元・平治の乱は平家の大勝利に終わり、源氏は壊滅的な打撃を受ける事になります。勝った平家は卓越したリーダーである清盛の下、鎌足以来政権の中枢に居座っていた藤原氏から事実上政権を奪取します。平安貴族にとって武士など口が利ける虫けら、家の番犬程度と見なしており、武士の方もまた平安貴族を天上人と神の様に崇め奉っていた時代に清盛が太政大臣まで出世した衝撃は貴族だけではなく、武士にとっても大きな衝撃を与える事になります。

承平・天慶の乱の時には平安政府の見えない権威に怯え自滅した武士たちでしたが、今度は同じ武士である清盛が天上人まで登りつめたのです。もちろん清盛だけではなくその他平家一門の有力者たちは次々と栄爵を受け、武士であっても貴族になる事が出来ることを初めて実感したと考えます。しかし清盛をもってしてもその政権奪取の手法は摂関政治の枠から飛び出す事は出来なかったのです。つまり藤原氏に代わって政権の中枢を独占し、藤原氏から荘園権益を奪い取っただけで、武士のための新しい政府を作ろうとする発想は出てこなかったのです。

平家打倒の機運は2つの勢力の微妙な思惑から形成されます。ひとつは政権の中枢から追われた藤原氏を中心とする平安貴族です。彼らは衰えたとはいえその影響力はまだまだ強く、最終的に以仁王の令旨という起爆剤をもたらします。もうひとつは平治の乱で壊滅した源氏勢力です。

源氏勢力はまず単純に敗れた平家への復讐があります。また復讐とともに武家の棟梁としての源氏嫡流家の復活も連動します。さらに平家は西国が基盤なのですが、敗れた源氏勢力の関東では、藤原氏が平家に変わっただけで武家の政治とはいえ言葉に表せない不満が渦巻いていたあったと考えます。

とくに関東の平家政治に対する不満は石橋山の合戦で敗れた頼朝の下にたちまち数万の軍勢が結集する勢いを示し、この勢いが最後には奢る平家とも呼ばれた平家一門を壇ノ浦の海の藻屑にしてしまったのです。

頼朝の凄み

源頼朝
幕府という革命の意味の物凄さを、後世の人間はまだ十分理解していないと考えます。

富士川の合戦で勝った頼朝はその勢いを駆って上洛戦をしたかったに違いありません。当時の日本で文化の香りがする土地と言えば京都以外には無く、ある一定以上の教養を持つ人物であれば京都で暮らすのが一生の夢である時代であったからです。頼朝も元は京都生まれ、草深き伊豆の蛭が小島に幽閉されていましたが、平家打倒とともにいつか京都に帰る日を夢見ていないわけはなかったと考えます。

歴史には「もし」をつけたくなる瞬間が無数にありますが、この時頼朝が上洛戦を行なっていればどうなったでしょうか。後に木曽義仲が上洛した時のように平家は都落ちしたかもしれませんし、老いたりとはいえまだ健在であった清盛が平家一門に大号令を下し、宇治川で源平の大合戦が展開されていたかもしれません。頼朝の軍事的才能は弟義経には劣るかもしれませんが、清盛を追い落として京都制圧程度は可能であったかもしれません。

この魅力的な選択を頼朝はついに選びませんでした。頼朝の選んだ選択は源氏の大地盤である関東の足固めです。平家の強大さは関東の源氏武士団の中で頼朝ほど熟知している人間はなかったと考えます。富士川のうたかたの勢いだけでは到底平家を倒す事が出来ないと冷徹に計算した結果と見ますし、下手に京都に出て行けばそこは権謀術数が溢れる魑魅魍魎が渦巻く世界で、そこに乗り込むより遠い関東の地で自らの勢力基盤を養う方が自らに有利であると判断したとも見ます。

頼朝の地位は復活した源氏の棟梁として関東武士団から熱狂的な支持を受けてはいます。しかしこの当時の武士として必須の基盤である所領があったかといえば、無かったかもしくはあったとしてもまだわずかではなかったかと考えます。旗上げの後、親平家勢力を討ったときに所領は出たでしょうが、これを独り占めするなって事をすれば、武士団の心はすぐに離れてしまいます。幾分は自分の物にしたでしょうが、大部分は味方をしてくれた武士たちに気前良く分け与えたはずです。

頼朝自身の自前の手兵が無いとなれば、頼朝の地位を支えているのは武士団の忠誠だけとなります。平家打倒の大目標があるうちはその心は結束するでしょうが、この大イベントが終われば、祭の後の神社から瞬く間に人がいなくなるように、武士団の忠誠もまた汐が引くように無くなる危険性が十分にあります。

頼朝は武士団の忠誠を永続的なものにする手法を考えます。この当時の武士の定義は自作農の小領主です。一方でこの所領の法的な位置づけは極めて不安定で、形骸化しつつあるとはいえ、大本は律令制の公地公民制ですから、法的に正式の自分の持ち物でなく、公地公民制の抜け穴である荘園に自分の所領を寄進し、その管理人程度が精々の極めて不安定な地位です。

また治安は極めて不安定であり、治安だけではなく武士である小領主同士の境界争い、水利争いなどの仲裁機関はどこにも存在せず、そのため一旦紛争が起こると血を血で洗う争いになるだけでなく、決着がつくまで長い戦闘状態が断続的に続く事になります。

武士にとって戦いは本分みたいなところもありますが、戦えば死者や負傷者も出ますし、出れば当時の人口の少なさと反比例するように農業生産は人手を必要としますので、肝心の収穫に多大な影響を及ぼします。収穫に影響を及ぼすだけではなく、軍事費としての出費も大きく堪えます。合戦も他人の助っ人であれば、その働きにより恩賞を獲得できる可能性もありますが、自分の所領の直接の防衛戦であれば、出費に見返りは無く、助っ人を頼めばさらに出費がかさみます。武士だって平和裡に争いが終わる方が戦い続けるよりもずっとメリットがあるのです。

頼朝は武士の非公式の所領の保護と争いの公平な仲裁を武士たちに行う事により、武士団の忠誠をつなぎとめる鍵になると考えたのです。こう書けば当たり前すぎる事のようですが、まさに当時とすれば驚天動地の発想でありました。当時の人間の感覚からすれば、政府とは京都に神代の昔からあり、そこで天皇を中心とした天上人たちが行なうもの以外はこの世に存在しない、いや存在するはずも無いのが常識の大前提であったからです。武士たちにとっては理不尽な体制でしたが、理不尽であってもどうする事も出来ないこの世の決まりであると信じきっていたと考えます。

そこで頼朝は新たなる統治機関を創設し、そこに忠誠を誓えば所領を法的にも正式のものと認め保護しますし、もめ事があれば公平中立に仲裁を下すとしたのです。武士たちが一番望むものを与える機関、まさに「武士による、武士のための、武士のための統治機関」である幕府の発明です。これを知った武士たちは狂喜します。狂喜すると同時に自分たちのための統治機関である幕府を盛り立て守り抜かなければ、また昔のような荘園の番人程度の不安定な地位に逆戻りしてしまうと絶対の忠誠を誓うようになります。

自分が発明し手塩にかけた幕府の維持発展のみに頼朝はすべてを犠牲にします。頼朝存命中はすべてのもめ事の裁きは頼朝が自ら行なったとされます。他人の手にゆだねる事により、もしわずかでも不公平の気分が武士団に沸き起こるとヨチヨチ歩きの幕府の信用は一挙に失墜します。また幕府も一皮剥けば有力武士団の連合体に過ぎませんから、これらの武士団に対する細心の気配りも欠かせません。

頼朝は棟梁と崇められながらも自分の地位が有力武士団の絆の留め金に過ぎないことを百も承知し、自らを幕府と言う機関の歯車としてしまい、決して生身の感情や欲望などが存在しない無機質の存在と化す様に全身全霊を傾ける事になります。もしそんな気配を示せば砂上の楼閣である幕府は蜃気楼のように消えてなくなるからです。

蛭が小島の一介の流人から一躍源氏の棟梁に祭り上げられれば有頂天になって舞い上がっても何の不思議は無いはずなのに、氷のような冷静さで自らのおかれた立場、期待されている役割、その手法と果たすべき仕事を分析し、忠実に寸分の狂いも無く実行する意思の力、まさに政治の鬼才とでも言うべき頼朝の凄さです。

この努力は結ばれます。幕府の中で頼朝の存在は欠かせないものとなり、欠かせなくなると同時に存在感が巨大化します。巨大化は幕府内だけではなく、幕府を正式の統治機関と認めたくない京都でも言い知れぬ重圧となります。頼朝による新統治機関である幕府を承認せよとの圧力は、鎌倉から京都に平家を葬った軍事的実力とともに圧し掛かります。

妖怪とまで言われた後白河法皇が健在のうちは京都はなんとか抵抗しましたが、法皇死後巨大な圧力に抵抗するすべも無く、ついに京都朝廷は幕府開設の承認状と同じ意味を持つ征夷大将軍の宣下を頼朝に行ないます。すでに実質は鎌倉幕府は成立していましたが、この宣下により名実ともに鎌倉幕府は正式に認められ、政治の実権は平安貴族から武家に永久に移行します。

時代の流れは公家から武家に確実に移行しつつありましたが、もし頼朝がいなければ幕府と言う新しい統治体制は誕生せず、せいぜい清盛が行なったように、京都を舞台にした太政大臣の奪い合いが政権交代の証しとなっていたと考えます。これほどの大政治家がその後の日本に果たしていたかどうかは疑問です。

鎌倉幕府以降、室町幕府、江戸幕府と武家政治は明治維新まで引き継がれていきますが、尊氏にしろ、家康にしろ頼朝の真似をしたにすぎません。わずかに狂気の天才信長がまったく新しい統治体制を描いていたのではないかと憶測されることもありますが、道半ばにして本能寺で倒れ、これは永遠の謎になっています。ただし信長がいかに斬新な統治体制を構想していたとしても、旧来の体制からの革命的な統治体制の構築というパイオニアの地位を頼朝から奪う事は出来ません。

頼朝の秘めた夢

肉親でさえ眉毛ひとつ動かさず殺害し、味方であっても常に深い猜疑心をもって接し、誰にも本心を明かさず、いかなる行動も冷徹な計算づくで実行に移す一方で、幕府のためには公平無私というリアリスト頼朝に夢は無かったのでしょうか。日本史に限らずいかなる英雄も稚戯に等しいロマンをもっている事が多いのですが、頼朝の一生は富士川の一戦後はひたすら鎌倉に居座り、自分が生み出した統治機構の幕府の確立に専念します。

史書でも奥州藤原氏に対して遠征したぐらいで、後はひたすらデスクワークです。それぐらい幕府を作るのがおもしろかったとも言えますが、そんな頼朝が誰にも明かさず果たせなかった夢があるのではないかと考えて見ます。

揺るぎない地位を確かな計算で築いたかに見えた頼朝でしたが、やはり頼朝は京都に上りたかったのではないかと考えます。鎌倉も後年になると京都に次ぐ都市に発展し、文化も花開く事になります。しかし頼朝存命中はまだまだ草深い関東の鄙びた町であった事は間違いありません。頼朝も京都を知っている人間です。関東の大軍勢を従えて入洛する日を心のどこかに夢見ていても不思議はありません。政権の根拠地を鎌倉に置くにしろ、源氏の大軍をバックに将軍宣下を京都の朝廷で華々しく行い、自分の晴れ姿を満天下に示したいとの気持ちがあったと考えます。これは頼朝の自己満足にもなりますが、政権は既に京都には無い事と、幕府と言う新統治体制の発足を宣伝する効果にもなります。

創建時の鶴岡八幡宮
頼朝にすればこれでも規模壮麗さに満足してなかったのでは。

頼朝は鎌倉の都市設計をしています。していると言ってもたったの二つで、まず当時の関東の水準では不相応なぐらいに立派な鶴岡八幡宮の建立と、そこから続く狭隘な鎌倉の地には広すぎる若宮大路の建設です。頼朝は鶴岡八幡宮に隣接する屋敷から毎日通い、そこで政務を執っていたと伝えられます。これは頼朝にとって八幡宮は御所、若宮大路は朱雀大路をなぞらえたもので鎌倉に都を作る宣言と通説ではされています。

壮麗な八幡宮は新たな支配者の権威を表すものとして理解できますが、若宮大路はやや余計です。防衛のための観点に立てば、本拠と言える八幡宮に広い道が直通しているのは無用心極まりありません。またそれ以外の設計を指示建設しなかったのは、対平家戦、幕府の確立に多忙な上に予算不足であったためと言われています。

本当にそれだけの理由で頼朝による鎌倉の都市設計を説明しても良いのでしょうか。頼朝のブレインは充実しているとは言いにくいですが、京都に似せた都市設計を指示すれば実際に建設をするしないに関わらず、基本設計図ぐらいは作るでしょうし、建物には費用がかかるとしても街路の整備ぐらいしてもおかしくありません。

むしろ頼朝が真に鎌倉に必要だったのはこの二つだけだったから、他はどうでも良かったのが真相ではないかと考えます。

頼朝が京都に上らなかった理由は様々に理路整然と説明されています。まだまだ忠誠心に信用が置けない関東の武士団のまとめ役としてとか、動向が不明瞭な奥州藤原氏に対する備えとしてなどがあげられますが、それでも私は納得しませんし、納得してはおもしろくありません。頼朝はやはり京都に上りたかったのだと私は考えます。では何故上れなかったか、それはあまりにも鮮やかかつ完璧に、付け加えるなら余りにも早く義経が平家を滅ぼしてしまったからと考えます。

頼朝は富士川の時点では隠忍自重して鎌倉での地盤作りを選択しました。もちろん平家打倒も宿願ですので、二人の弟である義経と範頼に大将を命じ、京都に進撃させます。この時頼朝は義経が稀世の天才戦術家であることを知りようもありません。頼朝が二人を選んだ理由は軍事的能力を買った訳ではなく、源氏の嫡流の血を引いた点だけで採用したのだと考えます。そうでなくては寄せ集めの連合軍である求心力にならないからです。

この時の京都の支配者は平家が都落ちした後居座った木曽義仲。義仲程度の軍事力なら少々二人の弟が少々のボンクラでも、関東の大軍を預ければ容易に駆逐できると計算したと思います。もちろん頼朝の計算どおり宇治川で源氏軍は木曽義仲を粉砕します。義仲の次は一の谷に結集する難敵平家です。平家の実力は義仲とは比較にならず、一の谷の平家陣地は容易なことでは抜く事は出来ないと考えていたに違いありません。

当然前線は一進一退の膠着した攻防戦となり、苦戦する源氏遠征軍は関東からのさらなる大軍の来援の要請が来るはずと考えていたに違いありません。そうなればそれだけの大軍を率いる資格者は頼朝をおいて他に無く、源平の乾坤一擲の大決戦に自らが大将の采配を振るって決着をつける構図を描いていたと考えます。そこで自らの指揮で平家を退け、勢いに乗って平家を追い詰め滅ぼすのが自分の出番と想定していたのではないでしょうか。

若宮大路(段葛)
この道を凱旋軍として行進する日を夢見たのであろうか。

西国で平家に勝利した後、源氏の大遠征軍を率いて上洛し、その軍事力を背景に征夷大将軍となり幕府創設を天下に示威することが頼朝の夢ではなかったかと想像します。頼朝の軍事的才能は不明ですが、義経ほどの天才性は無くとも決して不可能な夢ではなかったかと考えます。ただし頼朝指揮では源平合戦がもう少し長引いていただろうぐらいが違いです。

この計算は一の谷で平家が必勝の戦略を期して陣を敷いたぐらい確実だったはずです。ところが頼朝も平家も義経にそのすべての計算が狂わされます。義経は難攻不落の一の谷をあっさり攻略します。源氏が苦手とする水上の戦いも屋島、壇ノ浦と記録的な勝利を上げ瞬く間に平家をこの世から消し去ってしまったのです。

義経からの勝利の報告を手にした頼朝の心境は複雑であったと思います。打倒平家は宿願ではありましたが、あくまでも最後に止めを刺すのは自分の役割と考えていたからです。それが対平家戦の晴れ舞台はすべて義経に奪われ、奪われたどころか出番さえなくなってしまったのです。平家討伐後の京都への凱旋も義経が当然のように行い、頼朝が京都に上る理由がなくなってしまったのです。

頼朝の想念の中には義経をかつての木曽義仲のように、何か難癖をつけて自ら兵を率いて打ち滅ぼしてしまおうかとも考えたかとも思いますが、対平家戦の勝利に沸く源氏勢をもう一度焚き付けて大軍を発する政治的不利さの計算の前についにあきらめ、義経に対してはもっと陰湿な手段で処理します。

頼朝は幕府創設と言う日本史の中の大革命を一分の隙無く遂行させた事で鬼才と言えます。しかしもし義経と言う天才戦術家がいなければ、後世に冷徹な政治家の評価の他に対平家戦勝利の立役者としての華が副えられ、頼朝の陰気さを覆い隠すのに大いに役立っていたはずです。しかし歴史は武将としての活躍の晴れ姿を頼朝に与えず、ひたすら鎌倉のデスクワークに縛り付けたとも考えます。

若宮大路はその後の戦乱はありましたが、当時を偲ばせる位は残っています。そこには段葛と呼ばれる不思議な構造物が道の中央にあります。若宮大路の中央に段を二段築いて道を作り、由比ガ浜から鶴岡八幡宮まで続いています。道は鶴岡八幡宮に向かうほど徐々に狭くなっており、一般には遠近法を利用して軍事上の長い道と錯覚させる防御施設と言われています。

しかし防御のためと言うのなら、そもそも若宮大路自体の建設が矛盾しており、江戸時代の城下町のように入り組んだ迷路のような道筋にするほうが防衛に向いています。直線の広い道路に遠近法を用いるぐらいの小細工では防御に何の意味があるか良く考えると意図不明です。

やはりまったく別の意図を持って作られたと考える方が妥当です。私はこれを凱旋門、ヴィクトリー・ロードとして頼朝が作ったと考えます。自らの指揮で西国で平家を滅ぼし、京都で征夷大将軍の宣下を受け、鎌倉に凱旋した時の最後のフィナーレのために用意したのではないかと思うのです。中央の一段高い段葛には頼朝が進み、段葛の左右には源氏の将兵が大行進を行ない、もちろん最後のゴールは鶴岡八幡宮です。

これがしたいばっかりに、草深い関東の技術で目一杯壮麗な鶴岡八幡宮を建設し、どう考えても実用的ではない若宮大路と段葛を何をおいても建設させたのではないのではないでしょうか。冷徹な政治計算で自らを律し、リアリストすぎて面白みが欠けると言われる頼朝の一世一代の秘めた夢の残骸と思ってしまいます。

奢る平家の栄華の夢を壊したのも義経、大政治家頼朝一世一代の夢を壊したのも義経、頼朝はともかく義経に歴史は一体何をさせたかったのでしょうか。

義経と頼朝homeへ/天才武将義経へ/あとがき