天才武将義経

日本史上にもっとも有名な武将ひとりです。氏素性もはっきりしていて源氏の棟梁源義朝の息子で幼名は牛若、母は宮中の雑仕女であった常盤御前。平治の乱で父義朝が敗死した後、捕らえられ鞍馬寺に預けられたところまでは史実に明記されています。

ただしここから先は伝承の領域に入ります。鞍馬山中で兵法の修行をしたとなっていますし、その相手であった天狗が父義朝の一の郎党であった鎌田正清の息子正近であったとも言われていますが、あくまでも伝説の範疇を出ません。弁慶との五條の橋での立ち回りも作り話ですし、そもそも弁慶がなぜ義経の家来になったのかも来歴不明で、はたして義経鞍馬寺時代から続く家来であったかもはっきりした証拠はありません。

義経が鞍馬寺から奥州の藤原秀衡のもとに身を寄せたのは間違いありません。伝承では金売り吉次が導いてとなっていますが、もちろんなんの証拠も無く、奥州に向かう途中の鏡の宿で元服し、九郎判官義経と名乗ったのも義経記や平家物語の中だけの事で史実には証拠はありません。

有名なわりには歴史の裏づけがほとんどない前半生と義経のどこが天才戦術家であったのかを追います。

鞍馬寺時代

まず鞍馬寺で義経は剣術修行をしたかどうかです。した可能性は十分あると考えます。当時の有力寺院は自衛もかねて僧兵を多数養っています。僧兵とは読んで字のごとく僧の姿をした兵の事で、実態は仏教の勉強などほとんどせず、寺の警備のための傭兵部隊と言った様相です。もう少し言い換えればフランス外人部隊のようなもので、前歴、国籍は問わずで腕の立つものなら誰でも潜り込める軍隊です。

その中には平治の乱で壊滅した旧源氏の残党がいたに違いありません。平家全盛の世の中ではうだつの上がらない彼らは、鞍馬寺に預けられた源氏の御曹司を見つけて一旗あげてやろうかの思いを抱いても不思議はありません。

その中でも頭立つものが残党に連絡をつけて義経焚き付けプログラムを計画したとすればどうでしょう。同じ寺の中ですから接触は容易です。密かに連絡を取り、父義朝の悲運の最期を語り、義経がその息子であり、武士であるなら平家を倒して再び源氏の白旗を天下に翻させるのが仕事であるとささやかれたら、結構乗ってくるのではないでしょうか。

若い義経にしても机にしがみついての勉強より、父義朝の仇を討ち、源氏再興の大義の方がはるかに興奮するテーマであったに違いありません。

勧進帳を読む弁慶
弁慶は有名ですが、その実像もまた歴史の霧の彼方にあります。

その時に残党たちが自分の身分を義経に信じさせるために吹き込んだ名前が父義朝の一の郎党として有名であった鎌田正清でしょうし、実はその息子とすれば年齢的にも辻褄があいます。弁慶はおそらく源氏残党グループに後で潜り込んだと考えられ、氏素性の知れない自分が世の中に出るには義経に引っ付いていくしか他に方法が無いと判断して家来になったのだと考えます。

弁慶自身には世の中に名を上げようという野望はあったと考えます。しかし後世の実力本位の戦国時代と違い、源平時代は氏素性が武士であっても重要でした。氏素性といっても平安貴族から見れば虫けらと余り変わらないぐらいに思われていましたが、武士なりの氏素性がないと実力だけではのし上れる時代ではなかったのです。当時でも疑問符がつけられた節があったようですし、現在でも関連性が薄いとみなされている「熊野の別当湛僧の息子」という名乗りも、鞍馬に幽閉されている義経程度に会うにもその程度の氏素性が必要とされ、一旦名乗ったからには最後まで押し通したと見ます。

五条の橋の刀狩伝説はあったかもしれません。これも後世になり京都に集まった浪人が仕官の為に名を上げるためにさかんに五条河原で決闘をしています。それの先駆者のような行為として実際に行なっていた可能性は否定しません。ところがその程度の武名では平安貴族化していた平家からは振り向きも去れず、それなら落ちぶれたと言っても源氏の御曹司のほうが世に出るチャンスがあると読んだ可能性を考えます。

弁慶自身は武勇も優れていましたが、なかなかの知恵者であった事も史書からうかがえ、うがって考えると義経焚き付けプログラムの黒幕は実は弁慶だった可能性も出てくると考えます。と言うのも源氏残党グループの活躍は鞍馬寺時代で終わります。そして鞍馬寺時代から奥州まで従っているのは弁慶1人なんです。では他の鞍馬寺残党グループはどうしたのでしょう。通常であればそのまま奥州についていくか、少なくとも後に義経が宇治川に出陣する頃には参戦してもよさそうなのですが、痕跡もありません。

実際は参戦したものもあったかもしれませんが、平治の乱の時が義経1歳ですから、鞍馬寺源氏残党グループはさすがに高齢化してもう参加できなくなったと考えるのは一番自然です。平治の乱の時に20歳であったとしても宇治川が27年後の話ですから、もう世に出る事はあきらめても不思議はありません。しかしひねって考えると義経焚き付けプログラムの目的とは、坊主になって鞍馬寺で朽ち果てる予定であった義経に野望の火を燃やす事と、そうやって世に出た義経の一の家来の弁慶がなるためのものであったと考えられないでしょうか。

ひねりすぎでしょうの意見も当然あるでしょうが、その後の義経のためへの獅子奮迅の活躍ぶり、とくに落ち目になってからの義経を一身に支える忠誠ぶりはある種異様ともみえます。ここまで義経に肩入れをしたのは、手塩にかけて世に出した義経への愛情と、おそらく義経以外の誰も自分を認めてくれないだろうと思いから来ているんじゃないでしょうか。

鞍馬寺時代の弁慶と義経の出会いと、二人の間に異様に強く結ばれた主従の絆の謎は、この視線からだけでも一作の義経小説を書けるぐらいの題材があるように私は思います。

奥州行き

義経が成長するにつれて決断の時が迫ります。義経が鞍馬寺に入った目的は命を助ける代わりに僧となり、子孫も残さず、ましてや弓矢を握って平家に楯突かないことが条件であったからです。平家からの監視の目が強まります。義経と源氏残党グループはその締め付けから鞍馬寺脱出を企画します。

脱出するといっても平家全盛の世の中、山に篭って山賊なるぐらいならまだ僧になった方がマシです。大目的が平家打倒ですし、そうするように義経に吹き込み続け来た手前もあり、脱出先に苦慮する事になります。

当時の寺は今の宗教施設のイメージと違い、現在で言う大学に近いものであったので、きっと知恵者がいたのでしょう。この際、奥州の覇王藤原氏を頼ろうと思いついたようです。はっきり言って奇想天外の発想です。現在の地理感覚では理解しにくいかもしれませんが、無理やり例えれば日本からブラジルに行くよりまだ遠い印象だったに違いありません。

でも着想は悪くありません。全盛の平家にとっても奥州は余りに遠く、またそこには十八万騎と称される強大な軍事力が、覇王として君臨する藤原氏の下に結集して団結しています。また藤原氏は必ずしも反平家ではありませんが、別に鼻息を窺うような存在でもなく、北の覇王として独立を誇示していましたので、源氏の忘れ形見の義経一人ぐらいは十分保護してくれるでしょうし、うまくいけば挙兵の時の後ろ盾になってくれる可能性もあります。

しかし京都では遠い奥州の情勢は知りようも無く、行けば無造作に捕まえられ平家に突き出される危険性も十分あります。しかし国内で平家の意向を無視する気概、実力のある勢力は藤原氏以外には無く、一か八かの奥州行きに義経は賭ける事にします。義経は血脈こそ源氏の正統を受けていますが、現実には無位無官であり、ひとかけらの所領もなく、源氏勢力は壊滅して頼る者は無い徒手空拳であったからです。

このまま大人しく僧になり鞍馬寺で朽ち果てるか、奥州に人生のチャンスを見るかの二者択一なら、父義朝の雪辱を子守唄のように吹き込まれた義経なら一も二も無く奥州行きを選択したのでした。

金売り吉次の伝説はこの時生れたと考えます。今のように飛行機があるとか、新幹線が通じている時代ではありません。日本地図なんて便利なものは無く、道だって京都から少し離れると獣道に毛が生えた程度のところが街道であったでしょう。勝手を知った道案内がいないことには遥か奥州には到底たどりつけません。

吉次は奥州と京都を往復する商人だったのでしょう。それも奥州出身よりも京都ないしはその近郊の出身の可能性が高いと考えます。商人の時代を見る感覚は鋭敏です。スケールは違いますが、呂不偉が人質となっていた秦の王子を見て「奇貨おくべし」と先行投資し、荘襄王たらしめのと同様に、義経に投資の価値を見出したのではなかったのでしょうか。

奥州と京都を往復する商人ですから、半端な事では出来ません。金売りと言うからには奥州の砂金を売りに来たのでしょうが、道中は山賊や盗賊が跳梁跋扈しているだけではなく、土地土地の有力者たちもいつ刃を向けてくるかわかりません。それから身を守るために自衛軍を率い、有力者に渡りをつけ、何度も往復するには相当の人物でないと出来るはずはありません。

その吉次から見て義経は相当の価値があると見込まれたようです。また吉次なら秀衡の事も良く知っているはずですから、連れて行けば喜ぶはずだと判断したはずです。この辺は義経の幸福であったと考えますし、この時代が義経をどうしても必要としたからだとも言えます。

藤原秀衡

藤原秀衡
動かなかった北の覇王。一説によれば彼の存在が頼朝を鎌倉に縛りつけたとも言われる。

奥州藤原氏の力は強大です。武力は十八万騎と畏怖され、富は奥州の優駿と豊富に取れた砂金をバックに華麗な北の都平泉を築き上げています。相次ぐ戦乱でその遺跡のほとんどは焼失していますが、わずかに残る毛越寺の庭園や中尊寺の金色堂にその栄華は十分に偲べます。

藤原氏の栄華は初代清衡、二代基衡と受け継がれ、三代秀衡の時に最盛期を迎えます。ある歴史家は「秀衡に野望があれば中央で覇を競っていた源平をも容易に駆逐できたのではないか」とも評します。奥州の地でこれほどの勢力を誇ったのは空前絶後の事で、わずかに伊達政宗がこれに次ぎますが、政宗が戦国の世に後50年早く生まれ、奥州を征服したとしても、関東の北条氏、越後の上杉氏、甲斐の武田氏をなぎ倒して天下を臨むほどの器量があったかどうかは怪しいものです。

秀衡は三代目と言う事ですでに完成された奥州の権力を握っています。資質も三代の中でもっとも優秀と伝えられ、中央で平安貴族が衰え、平家全盛の世に劇変しても奥州の地には微動だにすらさせていません。奥州の武士は秀衡に固い忠誠を誓い、平和が続いた事で富は蓄積されています。

これだけの力を擁しながら、終生秀衡は中央の権力争いとは無縁の姿勢をとり続けます。なぜだったのでしょうか。

通説では奥州は中央から余りに遠く、奥州人自身も中央に対し強い憧れとコンプレックスがあり、数字上の武力や富があってもとても中央に歯向かおうと言う気力がなかった為と解説されます。この奥州人の中央に対するコンプレックスは根強く残り、江戸時代から現代に至るまで残っていると言われています。

だから秀衡は天下を狙わなかったのでしょうか。結果的にはそうなったのでしょうが、秀衡が義経を保護した一点で天下を狙った痕跡と私は考えます。

まずこの時代に天下を握るとは何をする事かの検証が必要です。その頃の天下とは形骸化しているとはいえ律令体制による平安貴族による天下でした。律令体制で天下を取るとは初期は天皇位の争いであり、時代が下って天皇位とそれに連動する関白太政大臣の位につく事を意味していたと言えます。平家でさえそうで、藤原氏以外の氏族が太政大臣の位に就くこと及び自らの血筋を引く安徳天皇を即位させる事で京都の藤原氏から天下を奪ったと認められています。

秀衡はかなり気宇壮大な人物であった傍証は多数残されていますが、そんな秀衡の発想でも京都の律令政府を根こそぎ破棄して、まったく新しい政府を作ろうとは夢にも思わなかったと考えます。やはり平家の先例に倣って関白太政大臣になることこそが天下を握る事だと考えるのが妥当でしょう。

もちろんそのためには平家を倒し、京都に上る必要があります。奥州藤原氏単独でも平家に挑戦する実力はあるでしょうが、全盛の平家に真正面から挑んでも時間がかかり過ぎますし、勝敗も五分五分です。そこで義経の存在が重要になります。

平安貴族化しているとはいえ平家も武家であり、西国に強力な基盤を持っています。もし奥州藤原氏が平家に戦を挑むとすれば、戦略としてまず関東をおさえる事が重要となります。平治の乱で壊滅状態とはいえ関東は源氏の根拠地であり、反平家感情とともに源氏に心を寄せる者も少なくありません。関東の源氏勢力の結集の旗印に嫡流の血を引く義経の存在は極めて重要と判断したと考えます。奥州藤原氏と関東の旧源氏勢力が合わされば西国の平家に十分対抗する武力を得る事が出来、その力を持って初めて天下を握る道が開けると考えたのではないかと思います。

もちろん具体的な行動計画があったわけではないでしょうが、義経の存在がそういう夢を持たせてぐらいの可能性はあります。またそういう可能性も常に頭において時に捨石になるような事でも投資しておく事が優れた支配者の必須条件でもあります。

しかしこの秀衡の密かなプランは陽の目を見ることはありませんでした。地理的な条件、人士の中央への劣等感、自らの年齢、さらに嫡男泰衡の器量の乏しさを勘案してあきらめたとも考えられますし、関東の頼朝が挙兵に成功してしまい奥州藤原氏が出る幕がなくなったとも言えます。

それでも源平の争乱が続いているうちは第三勢力である奥州藤原氏は安泰ですし、源平が戦いつかれた時にもう一度出番が来るはずだとの計算もあったはずですが、これも義経がすべてを狂わしてしまい、栄華を誇った奥州藤原氏の滅亡にまでつながるとはさすがの秀衡も予想していなかったに違いありません。

天才戦術家

天才武将源義経
日本史上最高の天才戦術家であることは疑いない。

義経は天才戦術家であると言われます。それもただの天才ではなくさらにその上に「卓越した」とまで形容されます。またその卓越した戦術の独創性は、後世で辛うじて匹敵するのは織田信長ひとりだと言われます。

義経が独創した戦術は騎兵戦術です。武士が武装して馬に乗るという姿は当時でもありふれたものです。ただし馬に乗るのは領主である大将だけで、残りの兵はそれを取り囲むように進退するのが常識でした。騎馬による機動性を生かすというより、馬に乗れる身分の誇示といった色彩が濃かったと考えます。また歩兵と進退を共にするという性質上、戦車の周りを歩兵が囲んで戦う戦法に似ているとも考えられます。

それを歩兵を切り捨て、騎馬武者だけで兵団を作り、騎兵本来の機動性を最大限に生かす戦法を義経は編み出したのです。

それだけでも天才的ですが、騎兵の用兵は大変に難しいものです。源平合戦の頃なら合戦で真正面から騎兵集団を突っ込ませても飛び道具は弓矢だけですので、歩兵の陣形を戦車で蹂躙するような効果があるでしょうし、この戦術は武田信玄が武田騎馬軍団として有効に使っています。

ところが義経の騎馬戦術はもっと近代的なものです。近代の騎兵戦術では、敵陣の正面から突っ込む戦術は鉄砲の発達ともに廃れます。そんな事をすれば長篠の合戦で武田騎馬軍団が壊滅したように瞬く間に全滅してしまいます。そこで新たな効果的な用兵として奇襲戦法が重要視されます。即ち騎兵の高い機動性を最大限に生かし、敵方が予想もしない地点からの騎兵襲撃です。

騎兵からの攻撃に対し歩兵は長篠の合戦の時のように十分な布陣をしていれば容易に退ける事が可能です。ところが予想もしていなかった方角、地点からの騎兵襲撃をうけると迎撃の態勢を十分にとれず、さらにそのスピードを生かして陣内まで乱入されると壊滅的打撃を被ります。この奇襲攻撃を最大限有効に使えば寡兵をもって大軍を打ち破る事も可能であり、これこそが近代騎兵最高の戦術とされました。

ところが騎兵戦術の難しさは奇襲であるというところにつきます。敵の裏をかいて密かに騎兵部隊を正面の敵陣から大きく迂回させて進めたり、戦場でもっとも敵が弱点とするポイントを見抜いて騎兵襲撃をかけるには、そこに天才戦術家を必要とします。それほどの天才戦術家は世の中にゴロゴロいるわけではなく、ものの本によると騎兵戦法で成功を収めたのは、モンゴルのジンギスカン、プロシャのフリードリッヒ大王、フランスの皇帝ナポレオン、ドイツの参謀総長モルトケしかいないとも言われるほどです。

義経は騎兵戦術を編み出しただけで天才戦術家と呼ばれるのに十分であり、その騎兵部隊で歴史的な勝利をもたらした用兵で、さらにその上に「卓越した」がつけられるといえます。しかしこの戦術は義経なきあと速やかに滅び、忘れ去られ、わずかに信長が桶狭間で類似の事をやったぐらいに留まります。それほど騎兵戦術とは天才性を必要とするものなのです。

一の谷

一の谷の合戦
義経の戦術の天才性がもっとも如実に表された一戦

木曽義仲に京都を追われた平家は地盤である西国で勢力の回復に努め、京都奪還を目指し神戸の一の谷周辺に東西に長い大陣地を築き上げます。南の海は有力な水軍が守り、北と西は六甲の山並みが自然の大城壁となり、源氏が攻めようとしても東の一方向しかありません。実際の合戦でも源氏の主力は東側に集結し力攻めを行ないますが、平家の守りは堅く、また士気も旺盛で、到底突破できるような戦況ではなかったようです。

平家の戦略は関東から長駆遠征の源氏軍をここで足止めにし、戦力を消耗させ、また制海権は平家の手の中にありましたから、機を見て源氏の側方、後方に奇襲攻撃をかけようと考えていたに違いありません。ここで源氏軍を敗走させればもともと関東からの遠征軍ですから、将棋倒しに一気に京都を奪還し関東まで攻め寄せる事も不可能ではなく、それだけの兵力、食糧、資金も十分整えていたと考えられます。

誰が考え出したかはわかりませんが、まさに必勝の戦略であり、どこをどう突ついても平家が負ける要因はありません。平家とすればひたすら堅固な陣地を頼りに守りを固めてさえおけば、一日経つごとに平家は有利となり、遠征の源氏は劣勢となる仕組みです。また陣地で守りを固める限り、個々の武者の武勇の劣勢も十分カバーできるのも巧妙な戦術です。

平家の作った大軍同士の膠着した戦場の戦略に源氏は誘い込まれたとも見えます。これまでの源平合戦では富士川の合戦、倶利伽羅峠の合戦と源氏側に言い様にコケにされた平家でしたが、平家側にも源氏に負けない戦略家、戦術家が間違いなく存在している事を証明していると考えられます。

ところで昔の合戦の常ですが、源平双方とも実兵力は判然としません。自らの軍勢の数は合戦において常に最高機密に属するもので、対外的に宣伝として言う時には相当な水増しが行なわれるのが常識です。後世に伝わる軍記物語などでも数は多い方が話は盛り上がりますので、講釈師や琵琶法師がどんどん尾鰭をつけて行った面は十分考えられます。
雲霞の様な大軍とよく表現されますが、大軍の概念自体が時代により変わります。戦国時代の初頭、駿河の今川義元が上洛戦を行なった時が通称3万、おおよそ実数で2万程度が大軍と考えられていたのは史書により明らかです。この時代は1万前後で十分大軍であったと考えてよく、2万を動員した事で、当時の感覚で信じられないぐらいの大軍であると感じたと考えます。
ところが戦国の末期になると秀吉の小田原攻めで10万以上の動員がなされ、その後関が原、大坂城攻めと10万単位が大軍の概念に移り変わります。この概念の変化は源平の動員力を表現するのに講釈師や琵琶法師が影響を受けないはずはありません。
水鳥の音で平家が逃げ散った富士川の合戦で頼朝は坂東の武者たち18万騎を率いたと書かれています。当時の1騎とは小領主のことを指し、1騎に歩兵が少なくとも数人は附属するため、頼朝の関東勢は少なく見積もっても100万を超える事になります。
100万なんて大軍が現実に日本で出現するはずがありません。源平合戦当時の日本の人口はあくまでも推定ではありますが、せいぜい700万人程度です。700万人と言ってもそのうち半分は女性ですから、男性は350万人。頼朝は驚くなかれ当時の日本の男性人口の1/3を富士川に集結させていた事になります。こんな大軍を見たら水鳥の音がなくても一目散に逃げるのは当たり前です。
もちろんそんなはずはありません。日本が近代国家になり、日露戦争当時に徴兵制により国家の全体力を搾り出して動員した兵力が108万人。当時の人口が4500万人程度であった事を考えると人口比率で2.4%、源平時代の総人口が700万人とすると騎馬武者から薙刀を振り回していた下人まで含めても戦闘員は全部でせいぜい17万人程度となります。
17万人でも過剰な見積もりですが、もちろん平家は西国で健在ですし、奥州には藤原氏が頑張っています。当たり前ですが、源平の合戦場にすべての戦闘員が集結しているわけはなく、源平の関が原と言うべき一の谷には両軍とも1万程度であわせて2万もいればそれだけで驚異的です。
この1万だって十分驚異的な数字です。食糧は米を食べるとして、1日1人あたり3合として3万合すなわち300石を必要とします。10日で3000石、1ヶ月なると1万石です。平家側はそれでも瀬戸内の海運を抑えていますから、海上輸送で補給はまだ可能ですが、源氏側ははるばる関東からの補給となります。当時の陸上輸送は馬の背に載せてコトコトですから、いきおい占領下の京都周辺を中心に徴収と言う事になりますが、京都にすればイナゴの大群に居座られているようなもので迷惑この上ありません。
おそらく両軍あわせて1万弱と言ったところが実数ではなかったかと考えます。

一分の隙も無いと思われた平家の大戦略でしたが、これを打ち破る糸のような細い活路を義経は見出します。おそらくこれが見えたのは義経ただひとりでしょうし、他の人間では思いつきもしないでしょうし、説明をされても理解できない戦術であったと思われます。

源氏の主力は範頼に率いられて京都から大阪に下り、海岸線沿いに平家陣地の真正面から正攻法で挑みます。義経は大胆にもこれを巨大な囮と見なして、少数の騎兵集団を率い、京都から丹波を抜け、途中三草山の平家陣地を奇襲で抜き、後は隠密裏に六甲山の裏側に進みます。

義経の進撃路と伝えられる山道は現在でもかなりけわしいところが多く、伝承があるにしろこんなところを通ったとは信じがたい箇所も少なくありませんが、源氏の主力軍が正攻法で力攻めしている真っ最中に平家陣地の裏手になる鵯越に現れた事は間違いない事実です。義経軍が駆け下ったと伝えられる鵯越も実は諸説があり、実際の現場は特定されていないのですが、幾つかある候補地はすべて急峻な崖であり、守る平家側にしてもまさかこんなところを鎧武者が攻めてくるとは予想すらしていなかったのは間違いありません。

まさに騎兵戦術の要諦である奇襲を教科書にしたような攻撃です。鵯越を駆け下りて一の谷にに攻め込んだ人数も諸説ありますが、義経の進撃コースを考えると100人は超えないと考えます。おそらく50人以下、ある説によると20人程度であるともありますが、おそらくそれぐらいではないかと考えます。

たった数十人が大軍の平家陣地に流れ込んでも大勢に影響はなさそうなものですが、この辺は戦場心理が微妙に働いたと考えます。平家にすれば南、西、北は敵襲のないところと信じきっていました。また唯一の攻め口の東側には源氏の主力が朝から攻撃を続けており、平家にすれば後方に予備として控えさせていた軍勢も東側の防戦に動員していたと考えます。

手薄になりきったところに源氏側の騎兵襲撃が行なわれます。意表をつかれて狼狽した鵯越方面の平家勢はすぐさま「応援頼む」の伝令を出します。この伝令の内容が、「源氏武者少数の来襲」→「源氏武者の来襲」→「源氏の大軍が攻め込んできた」に伝言ゲームのように広がり、一挙に浮き足立ち壊走したことは史実の通りです。

まさに磐石と思われた平家陣地の唯一の弱点をピンポイントのように絶妙のタイミングで叩いた義経の天才性がもっとも如実に現れた一戦となりました。

屋島

屋島の合戦
義経の電撃戦術の勝利

一の谷で惨敗を喫した平家は瀬戸内海に築いていた一大根拠地である屋島に撤収します。一の谷の敗北はたしかに手痛いものでしたが、平家にすれば瀬戸内の制海権を握っていれば屋島を中心に再び勢力を盛り返すだけの底力はまだまだ秘めていました。源氏の戦略としては平家が立ち直らないうちに平家の根拠地である屋島を覆す事が焦眉の急となります。

屋島は高松の近郊にある半島で、陸続きではありましたが、四国本土から陸伝いの道は険しく、天然の城塞と言った地形です。一の谷よりはかなり小規模ではありますが、少々の数の源氏勢が攻め寄せても容易に撃退可能な拠点でありました。

また一の谷で陸上兵力は大打撃を受けましたが、平家の海上勢力はほぼ無傷です。源氏が屋島に攻め寄せようとすれば、まず船を集め、軍勢が乗り込んで渡海する必要があります。平家の戦略としては地上戦では劣勢であっても、海上戦には自信をもっており、この渡海中の源氏勢を海の藻屑にするのが当面の基本としていたと考えます。

屋島の時の源氏側の海軍事情はいかにもお寒く、日宋貿易で鍛えた平家とは船の運用において天と地ほどの差があります。一の谷の勝利でおそらく泉州中心の水軍が源氏に味方をしたと考えますが、その程度の勢力で瀬戸内を圧する平家に決戦を挑むのは無謀としか言い様がありませんでした。

源氏としてはまさに手も足も出ない状態でしたが、義経の天才のひらめきはまたも炸裂します。一の谷の時もそうでしたが、奇襲とは敵側が予想もしない経路を強行突破することが必要です。誰でも考える常識的な経路は当然のように万全の迎撃体制をとられてしまうからです。一の谷の時は険路を突破しましたが、屋島では天候を突破します。

海を良く知る平家は、海に不慣れの源氏が渡海する時は天候の良い時を選んで来るのが当然と思い込んでいました。海が得意の平家にしても悪天候時には航海を避けるのは当時の航海技術からして常識以前の鉄則であり、源氏ならなおさらだろうとし考えるのは当然です。しかし義経の発想は飛躍します。悪天候時なら難破する可能性も高まりますが、逆に平家の軍船による襲撃もなくなり、こここそチャンスと決断します。

悪天候で強風でありましたが、沈みさえしなければ通常の数倍の速度で目的地に到着する事ができ、そこから騎兵の速度を生かして屋島に奇襲をかけます。驚いたのは平家側でまさに寝耳に水状態になってしまい、我先に屋島の防御を放棄して海上に逃げ出します。

海に逃げた平家と陸上の源氏はしばらくにらみ合いますが、「またも平家敗れる」の方は平家の地盤である四国にも瞬く間に広がり、平家支持勢力が動揺し寝返りを起し始めます。着々と増える源氏勢を目の当たりにした平家側はついに屋島奪還をあきらめ、西の海に去っていく事になります。

義経の電撃戦略の勝利だと言えます。

壇ノ浦

壇ノ浦の合戦
勝てる戦を完勝するのも名将の条件

屋島から西海に逃げた平家は残存勢力を結集して最後の決戦を挑みます。しかし一の谷、屋島の敗戦は大きく、完全掌握下にあったはずの瀬戸内の水軍も次々と源氏に寝返っていきます。決戦の地、壇ノ浦に集まった兵力はこれもまた諸説ありますが、おおよそ源氏側のほうが1.5倍の戦力があったようです。それでもまだ平家にそれだけの兵船が集められた底力に驚かされます。

ただし海上の戦いは兵船の数が陸上以上に絶対的な意味を持ちます。陸上であれば地形を利用するとか、陣地戦にするとか兵力の少ない方に工夫の余地があるのですが、海上では算術のように乗り越えられない壁となります。この壇ノ浦も激戦ではありましたが、数を利した源氏が平家を圧倒して幕を閉じます。

義経にとっては凡戦であったとの考え方もありますが、ここにも私はその天才性を見ます。義経指揮の凡戦としてもうひとつ木曽義仲相手の宇治川の合戦もあります。結局どちらも源氏側は相手に対し圧倒的な兵力があり、誰が指揮しても勝つのは当たり前の合戦であったと考えられます。しかし絶対勝ついくさを圧倒的に勝つことも名将の条件であると考えます。

義経が奇策だけの策士であるなら、これらの合戦でもまたなんらかの奇策を弄したはずです。ところが義経は宇治川でも壇ノ浦でもひたすら味方の兵力の大きさを頼りに正攻法に徹し、押しまくって相手方を粉砕し大勝利を挙げています。正攻法とはいえ宇治川では木曽義仲を討ち取るまで粉砕し、壇ノ浦では文字通り平家を殲滅しています。

義経は寡兵をもって奇襲で大軍を葬る事も可能ですし、十分な兵力が与えられればこれを十全に生かして相手の息の根を止めるまでの勝利を得る事も出来ることを証明していると考えます。これほどの名将は日本史の中でもそうざらにいるものではありません。

戦国期の上杉謙信も武田信玄も間違いなく名将ですが、スタイルとしては大軍指揮型で、少人数の奇襲はあまり例を見ません。真田昌幸はゲリラ的な少人数を持っての戦いでは名将とされていますが、大軍の指揮は未知数です。戦国の英雄豊臣秀吉、徳川家康もまたあくまでも大軍指揮型で、家康などは小いくさのうまい地方豪族によく鼻面をひっかきまわされています。わずかに信長が桶狭間で少人数奇襲を成功させていますが、信長の戦史の中でむしろこれは例外的なもので、残りは常に相手をしのぐ大軍を結集しての戦いに終始しています。強いてあげれば紀州の雑賀孫市がわずかに義経タイプの兵力が少なくとも多くともこれを自在に駆使しての戦いぶりを示したと言えるんじゃないでしょうか。

もちろん大軍指揮型の名将である事も大変な能力ですが、ピンポイント奇襲で大軍を崩し去る能力をもつ才能なんてそれこそ稀有のもので、日本にも数多くの武将はいましたが義経に匹敵するものは義経しかいないと考えます。

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