萩原重秀と元禄バブル

五代将軍綱吉
五代将軍綱吉

五代綱吉は「生類憐れみの令」の犬公方として有名で、江戸期でももっとも繁栄した時代の一つに数えられる元禄時代に生きています。将軍として豪奢な生活をおくったことでも有名ですが、即位当初の財政は最悪でした。綱吉は将軍になり恒例であった日光参拝を楽しみにしていました。それが待てど暮らせど老中から日光参拝の話が出てこず、しびれを切らした綱吉は老中を呼び出し、

綱吉:「日光参拝は一体いつになっておるのじゃ」
老中:「申し訳ありません、金が無いので行けません。江戸城御金蔵にはまったくお金はございません」

家綱時代の当初には1兆円近くあった金銀は最終的に家綱の葬儀、綱吉の将軍即位で完全に消失していました。綱吉は暴君に近いところがある人間なので、怒り心頭!

綱吉:「わしの代になって参拝できないとは将軍の沽券に関わる、なんとかせい(怒)」
老中:「はは〜、御無理ごもっとも」

日光なんてちょこっと行って来ればよさそうなものですが、将軍が行くとなると大変で、10万人ぐらいのお供が必要で、1回の参拝に20万両(400億円)ぐらい必要でした。家光なんか10回も参拝していて、幕政初期には20万両ぐらいはたいした額ではありませんでしたが、なんと言っても年間予算が13万8000両しかなく、余剰金が完全に底をついた状態ではなんとも手のうちようがありませんでした。

とはいえ将軍の厳命です。なんとかしなければならないのですが、当時から無能の声が高かった老中がいくら知恵を絞っても解決策が出るわけではなく鳩首協議の結果、「お金のことは勘定奉行にまかそう」という結論しか出ませんでした。難問を丸投げされた勘定奉行の萩原重秀ですがあっと驚く解決策を編み出し、魔術のように財政を回復させます。

萩原のとった政策は有名な金銀改鋳です。簡単に言えば家康の作った金貨、銀貨を回収して貨幣を作り直し、その時に金や銀の含有量を減らして貨幣を増やそうというものです。増やした分が幕府の収入になりその時の出目(差益)が金貨450万両、銀貨456万両でおおよそ1000万両(2兆円)というまさしくとてつもないものでした。その後も何度か改鋳を行い傾いた財政を打ち出の小槌を振るように解決していきました。

経済学的見地から見ると通貨の増加策自体は当時の経済情勢から時宜に適した政策であったと評価されています。慶長小判が発行されてから100年、泰平の世の経済規模は膨張し商取引に使われる通貨の需要は非常に高まっていました。そういう時に流通する通貨の量を増やすのは経済をより発展させるために為政者として当然の処置であるからです。

また悪貨を作ったとの評も貨幣は信用があれば十分通用するものであり、必ずしも完璧な裏づけを必要としないとも経済学者は説明します。現在私たちが使っている紙幣なんて単なる印刷物にすぎず、これを国民全員が無条件に信用しているから通用するのであって、別に慶長小判が質の落ちる元禄小判に変わっても、聖徳太子が福沢諭吉に変わった程度の変化に過ぎないとも主張されます。これも当時の経済情勢から基本的に間違っていない金融政策であったと今では評価する人も一部に確実に存在しています。

ただし萩原自身はそこまで理念を持って金銀改鋳を行ったわけではなさそうです。流通通貨の増大はインフレという副作用をともなうため、景気の動向を見極めながら慎重に行う必要があるのですが、貧乏人が持ちなれない大金を手に入れたようなもので、幕府はじゃんじゃん金を使うことになります。

世界恐慌のときにアメリカがニュー・ディール政策というケインズ理論に基づいた景気振興策を行いました。ケインズ理論と言っても私も詳しくは知らないのですが、単純に解釈すれば政府が大規模な公共工事などを行うことによって人為的に経済規模を拡大し景気浮上のキッカケにするするとでも考えれば良いと思います。当時の景気は家綱の江戸再開発事業の影響で過熱気味であったためそこにさらに大規模な公共投資が行われれば景気は爆発します。元禄バブルの到来です。

公共工事は現在の土建業界でも利幅のおいしい仕事になっています。不況が叫ばれるたびに大型投資が行われ土建業界を潤しています。幕府の事業も1000両の工事を1万両で発注するなんて事が平気で行われ江戸の町を中心にまさに降るように金銀がなだれ込むことになります。だぶついた通貨はインフレをおこしますが、幕府が公共投資を行っている限り新たな資金の供給源はあるわけですから景気は過熱する一方になります。

現在でも公共工事の発注には芳しからぬ噂がつきまとい、贈賄や利権がらみの話がゴロゴロしています。江戸期においてはなおさらで、現在より監査や罰則がはるかにゆるい分だけまさに横行していました。ただし現在と当時では役人の倫理観が違うことだけは知っておく必要があります。
現在では発覚しただけで罪に問われる賄賂ですが、当時は儀礼として必要不可欠なものであると認識されている面がありました。上司や関係者に付け届けと称される賄賂を怠らずにしておくことは、役人生活をおくる上で必要な慣例となっていました。今でもその名残がお中元やお歳暮になっていると考えてよいと思います。
賄賂も自分の給料から贈るのなら少しも旨みがありません。そこでお決まりの手法が出てきます。公共工事の見積もりを過大に取り、その過剰な利益を業者からリベートとして受け取るというあまりにも古典的な方法は現在以上に横行していました。工事だけではなく、物品の発注、料理の食材の発注、衣服の発注、お金が動くところすべてに砂糖に蟻がたかるように利権と役得が渦巻くようになります。
さらに地位が上がれば上がるほど、上司への賄賂が高額になるのは当たり前で、さらに賄賂の対象となる関係者も増えてきますので、配るほうも貰う方も地位に応じた相場が自然に形成されていきます。当然政治力や権力のあるもの所には相場以上の賄賂が集中することになります。なにか腐敗の極致のようにも見えますが、現代の政治献金とあまり変わらないものと考えて良いと思います。時代が変わっても人間のやることに余り変わりが無いひとつの証明に見えます。
賄賂の横行とそれへの認識なんですが、八代吉宗の頃に清廉潔白の役人への褒め言葉にこんなものがあります。「何某は清廉潔白、剛直をもって知られ、音物(贈物)も格(地位)にふさわしいものしか受け取らない」。はっきり言って賄賂は公認されており、この役人が記録に残るぐらい褒められたのですから、残りは推して知るべしです。
老中を筆頭とする武士なんてその多くは大局的な財政観念なんてなく、お金がないときにはうろたえ、ある時には無関心ですし、会計監査を行っていた勘定所も絶対人数が少ない上に算盤だけではとても支出のすべてを監視するのは事実上不可能でした。
新井白石
新井白石

インフレで物価が上がってもその分収入が増えれば問題は相殺されるはずなんですが、ここで幕府の収入体制の致命的欠陥が露呈します。米は幕府諸藩が新田開発に勤しんだことや、農業技術自体が向上したことにより、幕政の初期の慢性的に不足気味であった時代から、総需要を供給が上回る傾向が出てきました。米が余ってくれば米価は下がります。ところが幕藩体制の財政の基本は米を売ってお金に換えるのが大原則になってなっています。江戸期を通じて1石=1両がほぼ維持されていますが、1両でたしかに米は変わらず買えますが、米以外のものはすべて値上がりすることになり、幕府諸藩の財政はますます苦しくなることになります。

つまり幕府の換金手段は米を売ることのみしか手段が無いので、すべての物価が上がる一方で米価だけ下がる状態では幕府はインフレ分の収入増加をまったく期待できず、財政は萩原重秀がいくら打ち出の小槌(金銀改鋳)を振っても坂道を転げ落ちるように悪化していきます。

萩原重秀を猛烈に批判し、これをついに追い落とした新井白石は幕府財政悪化の諸悪の根源は金銀改鋳による悪貨鋳造にありとし、もう一度改鋳をやり直して小判の品質を慶長小判並みに戻した正徳小判を出しています、教科書で習う「正徳の治」です。新井白石の考えでは物価の高騰の原因は、

「金銀改鋳により100両を200両にしても所詮は元の価値が変わる訳ではなく、昔の100両を200両と諸人がみなしているだけで実際は物価なんて上がっていない。だから金銀を再改鋳して通貨を元の値打ち、量に戻せば物価は下がるはずである」

と主張しました。

新井白石は近年ではその学識はともかく経済についてはまったくの音痴であったと評されています。この机上の空論は白石以外の誰も賛成しないなか強行されましたが、この頃は元禄バブルがようやく終わり(金銀改鋳の差益を使い果たした)に向かい景気が落ちかけていたときで、そんな時に通貨を急激に減らすとバブル崩壊の大不況が訪れることになります。

白石は「鬼」と称されるほどの論客で当時まともに白石と議論して勝てるものは誰もいませんでした。その理論のどこに問題があったのでしょうか。白石の理論は現在のデノミに近いものがあります。デノミであれば流通通貨量に基本的に変化は無く、見た目の値段は下がるはずですが、通貨量ごと減らしてしまったのは問題でした。経済規模とは売買される商品量とそれを購入することが可能な顧客層の数で左右される側面があります。つまり1個1両の100個の商品を100人の客に売るのであれば100両しか必要としませんが、これが1000個になり1000人の客となれば1000両必要です。たしかに商人は100個より1000個の方が儲かるでしょうが、これは経済規模が拡大しただけで、1000個の商品が買うのに500両しかなかったら値段が半分に下がるよりも500個は売れ残ることになります。需要がなくなったからといって同じ個数を販売するために値段を下げるより、生産数を減少する経済の縮小がおこり元禄バブルがはじける最後の引き金になったのでした。

また白石の政策では幕府財政の要である米価の回復にはなんら効果が無かったことです。他の商品と違い米は食べていかないと生きていけませんから需要が減ることはありません。ここだけは白石の理論が生きて、通貨が減った分だけ米価はますます下がり幕府財政はますます傾くことになります。経済はすでに幕政初期の米しか産業が無く通貨の信用の裏づけが米であった時代から、通貨そのものに信用と価値が置かれる商品経済の時代へ変化にしていたのに気づかなかったのが白石の失敗の原因と考えます。

まさに経済学の教科書通りのバブルとその崩壊を当時の為政者は身をもって経験することになります。それにしても元禄バブルを演出した萩原重秀もバブル崩壊を引き起こした新井白石も功罪はどっちもどっちで、冷静に見ると萩原のほうが江戸経済の発展を促した点で功績が大きいと思えるのに、後世の評価はまったく逆なのは白石先生の文章力とアピール力の賜物と考えるのは皮肉すぎるでしょうか。

目次/江戸の通貨システム/江戸初期の幕府の財政事情/財政危機の到来/徳川吉宗と享保改革/田沼意次の先覚性/おわりに