徳川吉宗と享保の改革

八代将軍吉宗
八代将軍吉宗

吉宗の享保の改革は有名です。江戸幕府中興の祖とも呼ばれ、テレビでは暴れん坊将軍として長いシリーズとなっています。彼は基本的に通貨政策によらずに幕府財政の立て直しに成功しています。ただし享保の改革自体の総合評価は中程度と評価されています。彼の改革と限界を検証してみたいと思います。

彼はまず紀州藩主として紀州藩の財政建て直しを行っています。基本政策は家柄にとらわれない有能な人材の積極採用、リストラを中心とする人件費などの経費節約、米の増収(新田開発など)、特産品(みかん、材木、醤油など)の販売拡大です。また部下の不正を監視するため隠し目付けと呼ばれるスパイを大量に抱え、配下の隅々まで目を光らせました。絵でかいたような江戸期の財政建て直しの基本手法を忠実に行っています。効果は良好でわずか数年で蛛の巣の張っていた和歌山城の金蔵に剰余金をため込むことに成功しています。

そのあと八代将軍になって幕府の財政再建にのりだします。基本手法は紀州でした時と同じで自らが率先しての質素倹約による経費節約、有能な人材の登用、大規模な新田開発事業による年貢の増収を図ります。経費節約についてはこれも紀州の時と同様、隠密網を江戸城内に張り巡らせ、工事費用の過剰請求がないかに目を光らせます。

ただし紀州藩と将軍家では少々前提が違うところがありました。まず格段に監視する母体がでかいということです。紀州藩での監視の目は領内隅々まで及んでいましたが、全国に点在する天領すべてを監視するには自ずから限界がありました。また紀州藩での有力な現金収入の手段であった蜜柑、材木を始めとする特産品の販売も、紀州藩の時は売り先に江戸という大消費地帯があってこそ可能でしたが、将軍家ということになると長崎での海外交易になり、吉宗時代にははっきり言って赤字になっており使いようがありませんでした。

改革には独裁権が必要ですが、紀州藩の時には一部に反対勢力もあったようですが、これらはあっという間に消し去られ、ほぼ完璧な独裁体制を敷き、有無を言わせぬ政策運用が可能でした。ところが将軍家では従来の反対勢力が根強く残り、決して将軍の命令で足並み乱れず動くことは困難でした。この独裁体制を敷ききれなかった弱点は後に米価を始めとする物価コントロールに商人たちが思うように従ってくれず、何度も苦渋を味あうことになります。

吉宗の享保の改革の最大のポイントは何かとすれば、それは年貢率の向上です。経費節約もやっていますが、しょせんは予算規模(13万8000両)からすると微々たる物です。新田開発も目ぼしいところ、やりやすいところはそれまでにやり終わっており、またとりかかってもすぐに年貢につながるわけではないので即効性のある収入増加にはつながりにくいものがあります。となると後は増税以外とるべき手段はありません。

年貢率は吉宗が将軍になった頃には3割を下回るほどに低下していました。苦心惨憺、悪戦苦闘の末、吉宗晩年には3割8分9厘まで増加することになります。その頃には天領も新田開発の成果がようやくあらわれ463万石まで増加し、吉宗就任時には空だった江戸城御金蔵にも100万両以上を残して世を去ることになりました。ただし農民にしてみれば3割もの増税となり、吉宗晩年には百姓一揆が頻発し、名君とされる吉宗の影の部分となっています。

晩年の百姓一揆の頻発が影の部分とすれば、吉宗が紀州藩主となり八代将軍になる過程は闇の部分と呼べます。吉宗は紀州藩主三代目光貞の三男として生れ、さらに生母は百姓出身の側室でした。立場からすると将軍はおろか紀州藩主でさえ逆立ちしてもなれるものではありませんでした。それが二人の兄(綱教、頼職)が相次いで急死したため紀州藩主になり、また将軍継嗣の時には最有力後継者であった尾張徳川家の当主吉通およびその嫡男五郎太がこれもまた相次いで急死するという幸運がありました。
しかしこれを単なる幸運というにはあまりにも出来すぎたライバルの急死であり、当時から陰謀の噂はついて回っております。この闇の部分については吉宗の業績を書くときに処置に困る厄介な部分で、多くの歴史書はあっさり「兄の急死により紀州藩主につき・・・」から「・・・将軍家に継嗣無く吉宗は八代将軍として迎えられたのであった」となっています。
闇の部分の真実はその後の将軍家が最後の将軍慶喜まですべて吉宗の血統で続いたこと、また吉宗の幕府中興の祖としての業績の大きさのため完全に闇の中に葬られ、おそらく幕府の中では絶対に触れてはならない禁忌として記録することも憶測記事を残すことも許されなかったと考えられます。

後に行われた寛政の改革、天保の改革とならんで江戸時代の三大改革と呼ばれた享保の改革でしたが、実質成功したのはこの享保の改革だけでした。後の改革を主宰した松平定信、水野忠邦は反対勢力に足をすくわれ十分な成果をあげていません。これほどの成果の享保の改革の問題点はなんだったのでしょうか。

吉宗とそのブレーンをもってしても幕府財政の最大のアキレス腱である米本位制の矛盾を克服できなかったことです。幕府の通貨システムは表向きは金銀複本位制ですが、税金を米で取り、それを現金化する米本位制が裏で働いています。ところが幕府諸藩が年貢を増やすために争って新田開発を行った結果、米が余るという幕政初期には想像すらつかなかった事態が現実化します。米余りを加速させたのは諸藩の財政難で、お金に困った諸藩は集められるだけの米を大坂に送って現金化しようとします。領内では豊作だと言うのに領民は草や木をかじるほど飢えさせても米を大坂に送ります、現金は領内に送られ、大坂には金銀がますます乏しくなり、米価が下がります。米価が下がっても金銀が必要な諸藩は大坂に米を送り続けることになり、さらに米価が下がる悪循環を繰り返すことになります。

この矛盾は萩原重秀や新井白石の頃から表面化し、吉宗も在任中には様々な施策を行い米価を上げるのに四苦八苦をします。その苦労振りは八木(はちぼく:米を分解してこう読んだそうです)将軍とまで言われましたが、結局根本的な解決策を生み出すことはできませんでした。

吉宗のブレーンのうちもっとも有名なのは江戸町奉行として知られる大岡越前守忠助でしょう。彼は後世では大岡裁きと呼ばれる人情裁判を数多く行ったとして庶民の間に講談や落語などで今でも伝えられています。
江戸町奉行はテレビシリーズの影響もあり、裁判所と警察を一緒にしたような司法組織のイメージがありますが、実際は最高裁判所長官、警視総監、東京都知事をかねる様な激職であり、今でも東京都知事は重職ですが、当時の幕政が庶民とか町人とかを言う時はそのほとんどが江戸市民の事を指すほどの重職で東京都知事よりもはるかに責任と権限の大きい要職でした。もちろん講談などに伝えられる大岡裁きはそのほとんどが講釈師が張扇からたたき出したものです。
彼も米価安、物価高の解消に様々な施策を行っていますが、名奉行と言われている割には後世に残るほどの業績は残していません。彼の発想は統制経済による物価コントロールを主とした対策が中心で、江戸町奉行の権限で値段の統制や相場の規制を行おうとするものでした。
典型的なのはある商品の値段を安定させるためにそれを扱う商人を限定し、限定して独占安定利益を与える代わりに値段の設定権を幕府が持とうとする建策をしきりに行っています。ところが吉宗はそのほとんどの建策を却下しています。それでも幾つかは実行されていますが、現実はまったく有効に作動せず、吉宗の方が市場の現実を良く知っていたと言えます。
商品経済の発達により蓄えた商人の力は一片の奉行所通達ではコントロールできないほどのものになっており、また現在のように自由競争による価格低下を促そうにもカルテルやトラストといった独占利益を生む商構造を規制する法律も発想も無く、吉宗は大岡の統制経済策を実行する力がすでに幕府から失われていたと冷静に認識していたようです。

紀州藩の時と何が一番違うのでしょうか。紀州藩だけではありませんが、この頃からいくつかの藩で藩政改革を行い、財政を建て直したところがあります。どことも基本はリストラによる人員整理、有能な人材の登用、無駄な経費の節約、新田開発による年貢の増加、特産品の販売利益への課税などがあげられます。このなかで何気なくならんでいる特産品の販売利益への課税に大きな違いがあると考えます。

紀州藩を例に取ると米の取れ高は55万石(実際は新田開発もあり60万石以上になっていたでしょうが)ですが、それと同じぐらいの収入が特産品の利益で稼ぎ出して実収入は100万石以上とされています。これが何を意味するかですが、幕政開始時点では領内の産業は米しかなく、唯一の産業に税金をかけていれば他に税金を取るところがなかったのです。ところが時代が進み、経済が発展してくると米以外の産業が発達し、一方で米産業は米価低下の影響もありその存在比率を低下させることになります。つまり米以外の産業に半分近くの金銀が存在し、逆に米産業は半分程度に金銀の存在率が低下してしまったのです。特産品の販売利益から取り立てる税金は今で言う事業税みたいなもので、ここでの税収を確保することが財政再建の鍵となっていると見ることができます。

吉宗は知っていてやらなかったのか、やれなかったのかは不明ですが、将軍になってこの方面の課税にはついに手を出しませんでした。吉宗以降の改革を行った為政者も冥加金のような間接課税を試みましたが十分な成功を収めず、ただ米相場を制度の枠をはめて押さえ込むことのみに専念することになります。吉宗は年貢の増収により財政をある程度再建することに成功しましたが、財政危機の根本問題点である米価の下落とそれ以外の物価の上昇のジレンマはどうにも解決できなかったのです。

吉宗は米が通貨の信用の裏づけの地位から単なる商品に変化してしまった事をどれだけ認識していたのでしょうか。経済の発達により富の存在が米以外に大きくシフトしており、財政の安定のために欠かせない米以外からの税収確保に道を広げられず、あくまでも米に執着した事が吉宗の改革の弱点といえます。

目次/江戸の通貨システム/江戸初期の幕府の財政事情/財政危機の到来/萩原重秀と元禄バブル/田沼意次の先覚性/おわりに