おわりに
江戸時代は島原の乱から蛤御門の変までの200年間の間、戦争らしい戦争もなく世界史的にも奇跡的と呼ばれるぐらい天下泰平の世の中が続きます。現在の日本の精神・芸術・文化が形成確立したのも多くはこの時代です。鎖国政策ひとつにしてもその功罪の評価が難しいところですが、結果としての200年の平和の実績の前には功の部分が高かったと言わなければならないでしょう。
江戸幕府の政治姿勢はひたすら保守主義です。何事につけ「権現様以来の祖法」がくりかえし持ち出され、先例重視、世の中は何も変わらないのが前提で運用されています。しかし世の中は変わります。平和が続けば家康が予想もしてなかった事態が次々と出現してきます。化物のように発達していく国内経済、増産の結果「余る」なんて事がおこり金銭と同様の価値であったはずの米価が下落して財政に大打撃を与えるなんてことです。
そのため戦国時代の英雄譚とはまったく違う経済の立役者が次々に登場してきます。現代でも為政者や経済学者が知恵を絞って研究に励んでも扱いきれていない経済や金融の問題に精一杯の努力で対処します。今のような経済学というものや経済理論なんてものはなく、なおかつ日本史上で初めて直面する経済財政金融問題です。当然前例も無く、立案した政策もまさに手探り状態で運用することになります。先例重視の幕政ですから新規なことをすれば当然のように反対勢力の横槍は入り、また政策には薬としての効用と副作用がありますが、当事者にとって初めて直面する副作用まで対処するのは困難を極めました。
新井白石は「萩原重秀が悪貨を作って混乱させた経済情勢を良貨に作り直すことで改善しようとした」として異常に高い評価を後世に遺しています。さらに評価は続きます「・・・・しかしその努力にも関わらず、思うような成果をあげられなかった。」で結ばれ、素直に取れば「失敗した」と読めそうですが、教科書では「正徳の治」として非常な善政と教えられます。萩原のインフレ政策も過剰でしたが、白石のデフレ政策もまた極端です。萩原の通貨増大策は当時の発展する経済には結果として適切な金融処置となりましたが、放漫な支出体質による財政逼迫が続いたため、財政当局者としてインフレ政策を継続せざるをえなくなりました。本来は景気の動向を見定めながら慎重な通貨供給量の調節が必要だったのですが、当時はそんな考えも、その実行手段も存在しませんでした。白石のデフレ政策も私の本文中では酷評していますが、萩原のインフレ政策もいつまでも続くわけではなく、どこかでブレーキが必要ではあったのです。これも本来の過熱しきった経済情勢を徐々に冷やすべく、薪(通貨)を段階的に減少させなければならなかったのですが、白石はまるでバケツで水をかけるように冷やしたため失敗したと見ます。萩原や白石の先見性の乏しさを攻めるのは容易ですが、ほんの少し前の昭和のバブルとその崩壊を、十分経験と知識と情報をもってたはずの現代の金融当局者は防ぐことができなかったのですから、それぐらい経済運営は難しく、一概に非難するのには無理があると思います。
吉宗の改革は税収にあった規模の財政運用に変換したにつきます。どう転んでも幕政初期のような税収は得られるわけではなく、減ったなりの財源でやりくり算段する体制を再構築したと言い換えても良いと思います。これはテレビで時々やっている貧乏家族の家計チェックみたいなもので、元禄バブルで放漫になりきっていた支出を切り詰めるだけ切り詰め、どうしても必要なな出費に充当する収入を増税で賄おうというものです。緩んでいた屋台骨を締め直した成果は孫の十代家治まで財政を維持するのに役立ちましたが、吉宗の懸命な努力にも関わらず米価の低下と物価の上昇という財政のアキレス腱は解消されませんでした。年貢を米から貨幣に変える構想は吉宗の心の奥底にあったかもしれません、どんな方法かはわかりませんでしたが、一部では行っていた形跡があります。ただ吉宗の政治手法は急激な変革を好まず、従来の慣習や手法を少しづつ、少しづつ自分の望む方向に誘導しようとするものでした。米から貨幣への徴税方法の完全な変更はあまりにも大きな社会的混乱を招く可能性が高く、もし吉宗に直接質問しても「そんな事をしたら収拾がつかなくなる」と一蹴されることでしょう。
田沼意次の新御用金制度の失敗は先覚者でありすぎたものの悲劇です。田沼がどれほどの成算をもっていたかはわかりませんが、封建制の解体と中央集権政府の確立を招く可能性を秘めるほどの劇薬はもう一度関が原を戦うぐらいを覚悟しないと絶対にうまくいきません。家治の信頼をバックにした田沼の権力はたしかに強大でしたが、しょせんは幕府という宮廷政治の中のお座敷権力で、国をひっくり返そうとするほどの権力、政治力にはならなかったのです。これほどの大事業は家康程度でも無理で、秀吉でも難しく、信長ぐらいの実行力が必要でした。発想は評価されますが田沼が足場としていた程度の権力基盤ではそもそも不可能な構想であったと考えられます。
後世に確かな記録が残っていないので断言はできませんが、萩原の金銀改鋳、田沼の新御用金制度は手法としては時代を先取りするような斬新なものでしたが、はたして十分な理論背景、大局的見地に基づいた将来設計があった上で実行されたようには思えません。あくまでも窮余の一策、姑息的改善案として編み出した方法がたまたま当たったようにみえます。ただし経済理論はすでに経験した経済変動に後から論理的説明を行うものですから、未知の経済情勢への対応は思いつきの窮余の一策から入るのが通常で、その施策に確固たる自信と見通しが無かったからといって評価が下がるものではありません。
書きながら思ったことは、当時の為政者が絶対の前提と考えていた米による税金徴収システムが経済の発達の結果もはや時代遅れになっていたこと、日本を統治する上で封建制が限界に達していたことがわかります。その事が幕末の動乱から明治維新につながり、中央集権制につがっていくもうひとつの歴史の流れがあるようにも思えました。
最初の構想ではもうすこしおもしろおかしい話になるはずだったのですが、書き進めているうちにえらく堅苦しい話になってしまいその点は作品としては失敗だったとおもいます。ただ個人的には歴史書で「時代の変化とともに財政が悪化し・・・」と一行で片付けられている財政危機の真相が、江戸期の通貨制度の概要、財政運用の実態とともにかなり頭の中に整理されたのは収穫でした。
最後まで読み終えられた方には本当にご苦労様とお礼を申し上げます。
目次/江戸の通貨システム/江戸初期の幕府の財政事情/財政危機の到来/萩原重秀と元禄バブル/徳川吉宗と享保改革/田沼意次の先覚性