田沼意次の先覚性

田沼意次
田沼意次

田沼意次といえば賄賂政治の総元締めとして後世に伝えられる事が多い人物ですが、そのイメージは政敵であり後に寛政の改革を行った松平定信の宣伝によるところが大です。この辺は萩原重秀の後世へのイメージをひたすら捻じ曲げることに情熱を燃やした新井白石との関係に良く似ています。

田沼の実像は、五代綱吉の時の柳沢吉保、六代家綱、七代家継の時の間部詮房と同様でひたすら将軍の意向に忠実な側近というところです。政治家としての実力は処理能力には優れていますが、処理能力もあくまでも将軍の意向を実現処理することにのみ精力が注がれました。その欲望も百万石の大名になろうだとか、天下を取ろうであるとかの大層なものではありませんでした。田沼も普通に側用人をやっていたらただの賄賂の総元締めで終わったでしょうが、幕府財政の大きな矛盾点に気づき、その改革を行おうとした事実がわかり、近年再評価する動きがあります。

事の始まりはまたもや日光参拝です。どうもこの日光参拝って奴は財政改革のキッカケになりやすい特性があるようです。当時は吉宗の孫の十代家治の時代。この頃の幕府財政は享保の改革の成果が生きており、300万両もの剰余金があり、20万両が参詣に必要といっても十分可能なはずでした。ところが田沼は基金を取り崩しての日光参拝を家治が嫌っていることを知り、毎年の収入の中から参詣費用をひねくりだすことで家治を喜ばそうと考えました。

当時の幕府の財政収支はほぼトントンで大きな突発出費(天災や葬儀関係)などがなければ無事平穏といった情勢でした。田沼はこの中から参詣費用を捻出しようとしましたが、当時の硬直しきった財政運営からは出てこないことを知ります。しかたなく強引な倹約命令を出し、5年計画で日光参拝を果たすことになります。

この日光参拝の功績により田沼は異例の事ながら老中筆頭まで出世することになります。老中となった次のテーマは御金蔵の剰余金を増やすことでした。もちろんそうする事が家治をもっとも喜ばす事でもあったからです。ところが財政は日光参拝の件で思い知らされたようにまったく余裕がありません。赤字で火の車というわけではありませんが、田沼が老中になってからでも天災などでじわじわ剰余金が減っていく状態でした。

田沼が側用人になる2年前から幕府は一連の通貨改革を行っています。明和の通貨改革とも呼ばれるものですが、この改革は約半世紀後の幕末の財政危機を乗り切る原動力になったと高い評価を得ています。改革の内容は元禄時代の萩原重秀の金銀改鋳をより大胆に推し進めたもので、貨幣に金額を記せば貨幣の本来の価値に関係なくその金額が通用するようにしたものです。これはもう現在の信用通貨の概念に等しいもので、発行者(中央政府)の信用さえあれば具体的な財宝の裏づけがなくとも貨幣は通用することを証明しています。
賄賂の総元締めと酷評されていた田沼意次の評価が近年変わってきているのは、この明和の通貨改革の実行者であると考える研究者が出てきたためです。後年の蝦夷地開発事業もあわせ、「経済に明るい、先見性を持った開明的な政治家であった」とかつてとうって変わった高評価がなされてきています。
しかし田沼が権力をふるった側用人から老中時代の政策を詳細に検討すると、通貨改革の成果やそのための経済知識を活用した形跡が認められず、明和の通貨改革に関与した可能性は低いと考えます。田沼の財政運用の実態は基本的に吉宗時代からの従来の政策の延長であり、これをとことん煮詰めあげたところからの突然の発想の飛躍に私は高評価をしています。

田沼は吉宗のように年貢率向上に走ったり、萩原重秀のように金銀改鋳を行う方向にはあまり思考を進めませんでした。年貢率向上には吉宗ぐらいのリーダーシップとカリスマ性がないとできませんし、金銀改鋳を行った萩原の末路も良く知っています。そんな田沼がまず考え出したのは諸藩の領地をむしりとって天領を増やそうというものでした。

当時ほとんどの大名が商人から多額の借金をしていました。その総額は当時の日本に流通していた金銀の100倍に達していたとまで言われています。商人が大名に貸す時はいわゆる信用貸しで、担保などは取っていませんでした。ところが借りるだけ借りていた大名たちでしたが、財政は悪くなりこそすれ一向に改善していませんから、また商人から借りようとしました。さすがに商人も渋い顔をしていたところに田沼がある提案をします。

「諸藩の田畑を担保として借金できるようにしてやろう。もし大名が借金を返さない時には幕府がかわりに取り立ててやろう。」

田沼の狙いは諸藩が田畑を抵当として借金をする。どうせその借金は返せるはずもない。そうすればその田畑は担保として幕府が実質領有することになり、自然に日本中が天領になる。幕府は当然収入が増えて財政問題は一挙解決。しかし胡散臭いものを感じた諸藩や商人はこの提案にはのらず田沼は失敗します。

田沼はこの失敗の後もひたすら帳簿とにらめっこして剰余金の捻出方法を考えます。しかしいくら考えても収入は決まってますし、出費もほぼ固定している財政運用では何も打つ手がありません。その間にも大きな出費がいくつかあり御金蔵の剰余金はじりじりと減っていきます。

その時、田沼にある考えが浮かびました。

「将軍家は天下を統治している。統治しているにもかかわらず、その統治費用は将軍家(天領)のみからの収入で行っている、これはおかしい。天下を統治するためには天下万民から税金を取り立てるのが当然ではないか」

田沼が気がついた幕府の徴税システムの欠点は全国課税権が無いことでした。諸藩の領内は徴税は愚か、基本的に幕府は立ち入ることもできませんでした。これは諸藩の江戸屋敷も同様でした。つまり諸藩は日本の中の独立国であり江戸屋敷は大使館みたいなものと解釈すれば良いと思います。幕府といってもそんな独立国のひとつであり、飛びぬけて大きく武力も強いため諸藩がしたがっているだけで、今なら多国籍軍の盟主としてのアメリカみたいなものです。

田沼は幕府が日本を統治しているのだから、その統治範囲(つまり日本全体)から徴税するのは当然であり、諸藩は自分の領域を統治する税金とは別に日本を統治している幕府に税金を差し出すのが当たり前と考えたのでした。さらに田沼の思考は飛躍します。

「そもそも諸藩なんかは無用の代物である。天下には将軍家のみがあれば事足りる」

となり、いわゆる封建制による幕藩体制の否定と中央集権政権構想です。幕府を中央政府、諸藩を限られた領域の自治を行う地方政府とする現在の郡県制度的なもので、この考えは後の明治の廃藩置県となり実現されることになります。

それで田沼の構想による全国から税金を取り立てる新御用金制度ですが、当然のように猛反発をくらい遂行は困難を極めます。最後は田沼の権力の源であった家治がなくなり、新たに政権を掌握した政敵松平定信により完全に追い落とされてしまいます。

もし田沼構想が実現していたら江戸幕府のまま中央集権制が実現したかもしれません。もちろん政権としての寿命が確実に衰えていた幕府に明治の時代が築けたかどうかには大きな疑問符はつきますが、そうなるかもしれなかった可能性を示した事、そうしなければ日本を運用できない事を示した田沼の先覚性は現代になり年を追うごとに高くなっています。

目次/江戸の通貨システム/江戸初期の幕府の財政事情/財政危機の到来/萩原重秀と元禄バブル/徳川吉宗と享保改革/おわりに