財政危機の到来

四代将軍家綱
四代将軍家綱

その金銀も4代家綱の時代にすっからかんになっています。家綱の時代には振袖火事の後、江戸の町の再開発を行っています。大江戸八百八町の発展の基になったといわれる事業です。たしかに予算はかかったでしょうが、家光の時代の東照宮建立や上洛事業に比べて特別に濫費したというわけではないと考えられます。それでは家綱治世の30年間になぜすっからかんになったのでしょうか。

幕府の収入源は天領と呼ばれる年貢収入の他に、各地の鉱山からの金銀産出、長崎での海外交易も重要な収入源でした。とくに鉱山からの金銀の産出量は秀吉時代からのゴールドラッシュが続いており、家光がいくら使っても使い切れないほどのものでした。ところが家綱時代以降はぱったりと産出されなくなり、また長崎交易も時代とともに旨みが失われていき、結局家綱時代には幕府の収入源は年貢のみになってしまいます。

肝心の幕府の天領なんですが、800万石と称せられることもありますが、半分は旗本八万騎の知行地であり幕府予算としてあてにできるのは約400万石。そこからの年貢は幕政初期には七公三民で取り立てていましたので、300万石=300万両=6000億円ほどあったはずです。ところがこの年貢率はドンドン低下していくことになります。

幕府の天領支配の特徴は驚くほどの少人数で行っていたことです。10万石程度の行政領域に20人足らずの役人しかおらず、軍事力、警察力としては非常に弱いものです。七公三民の重い年貢にあえいだ農民が百姓一揆をおこしてみたら、幕府には一揆を鎮める軍事力が無いことがバレてしまったのです。幕府の弱腰を見透かした農民は交渉により年貢率を下げることに次々と成功することになります。それでもなぜ強力な軍隊を派遣してでも一揆を鎮圧しなかったかといえば、どうも一揆が起こったとき幕府中枢の姿勢は「一揆を起させてしまった代官が悪い」と代官を処分することで事件を処理したため、各地の代官は下手に年貢を取り立てて一揆が起こって処分されるより、農民の言い分を聞いて年貢を下げるほうが無難であると判断したためのようです。政権中枢の事なかれ主義の影響と言い換えても良いと思います。

天領の年貢率の減少は大体説明がつきましたが、諸藩も同様に年貢率が下がっています。藩は抱えなければならない武士の数が決められており、平和な時代には人数だけは過剰武装でありました。それなら幕府の代官所と違い一揆を武力で鎮圧するのは容易であったはずなんですが、下手に百姓一揆が起こったことが幕府に知れると「領内取締不行届」の名目で藩ごと取り潰される可能性があり、結局幕府同様年貢率の減少に苦しむことになります。この辺は諸藩の年貢率が落ちれば同時に大名の力が削がれ、ますます徳川家安泰の政治的計算も働いていたと思います。
六代将軍家宣
六代将軍家宣

年貢率は急速に減少し、六代家宣の時代には2割8分9厘なんて新庄の打率並みまで低下してしまいます。最終的にはもう少し上がって3割3〜4分程度になったようですが、その他もろもろ合わせて幕府の年間収入は170万両〜180万両(3500億円)ぐらいであったらしいようです。それにしても幕政初期の約半分まで収入が減少しています。

それでもまだそこそこありそうですが、そこから知行地をもたない幕臣への給料(禄)、役職についている幕臣への給料(役料)、将軍家や大奥の生活費が絶対固定経費として出て行き、それ以外の政治として予算に使える金額は13万8000両(276億円)しか残りません。それにしても恐ろしいほどの人件費であり固定経費です。幕府だけではなく他の諸藩も財政状態は似たり寄ったりだったとも推測されます。

さらにそこから江戸城や大坂城の修理補修費として作事・普請代、材木代、銅瓦代、行政上の必要経費である筆墨紙などの消耗品代、さらには役人に支給する料理代などが新たに経費として支出され、他にも河川改修、新田開発、新年などの祝賀行事や法事、火事や天災がが起こればそのための対策費、将軍に謁見した人への下賜品や答礼品、その他諸々・・・・残された金額では何も新しい事ができない硬直しきった財政状態と言えます。そんな財政状態では江戸の再開発事業だけでも基金(家光の遺産)を取り崩さなければ実行できず、どんどん財政はどん詰まりになったようです。

目次/江戸の通貨システム/江戸初期の幕府の財政事情/萩原重秀と元禄バブル/徳川吉宗と享保改革/田沼意次の先覚性/おわりに