江戸の通貨システム

慶長小判
慶長小判

ちょうど秀吉が天下を握っていた頃から日本に空前のゴールドラッシュが訪れます。各地の鉱山から無尽蔵とも思えるほどの金銀が産出され、華麗な安土桃山文化が築かれます。あり余る黄金を手にした秀吉はその経済力を背景に大坂城を築き、庭に積み上げた大判小判を大名や公家に惜しげもなくばら撒いています。その富の巨大さは家康が秀頼に大仏を作らせ、大坂冬の陣、夏の陣を戦わせてもなお莫大といっても良いほどのものでした。

その富をうけついだ家康は天下統治のために通貨システムの確立を行います。一説には天下を取った証に通貨を発行することで威信を高めるという狙いもあったようですが、信長、秀吉に比べると経済音痴とされる家康も自前の通貨システムの必要性を感じていたと考えられます。

できあがった通貨システムは大変興味深いものです。当時の経済事情をそのままとりこんだようなシステムで見ようによっては複雑怪奇な代物です。秀吉が行った経済政策のひとつにすべての物品は大坂に一旦運び込みそこで値段を決め再び各地に流通させるというものがあります。考えようによってはそれを江戸に変更してもよさそうなものですが、そのまま大坂で行われ、取引は銀で行われていました。一方のお膝元の江戸は金貨が普及し、決済のシステムは金で行われました。もちろん銅貨である銭はどちらでも広く使われていました。

どういうことかと言えば、江戸の商人は大坂に来るとまず金貨を銀貨に両替し、その銀貨で商品を購入し、さらに江戸で商品を売って金貨を手に入れる段取りになります。大坂の商人が江戸に来ても同様です。金貨も銀貨も同じ日本の通貨でありながら、ドルと円ぐらい扱いの違うものの理解すれば良いでしょう。その上、銭は金貨や銀貨などのそれ自体で価値を証明できる本位通貨と違い、一種の信用通貨(現代の紙幣みたいなもの)ですから金貨、銀貨に対し常に価値が一定というわけではありませんでした。

結果として金貨、銀貨、銅貨の3貨幣は各々独立した貨幣として存在することになり、それぞれによる交換比率は相場によって決定されるもので、金銀複本位制による通貨システムと称されます。相場を立て交換する場所も幕府が作ればよさそうな物なのに、すべて民間に依存し、悪徳商人の象徴のように時代劇で描かれる両替商が存在するようになります。こんな複雑なことをせず、一本化すれば便利そうと素人には思えますが、そんな急激な変化は世間の混乱の基になるとでも判断したか、たかが商人のためにそこまでする必要性を感じなかったためでしょう。この辺が家康が経済音痴と言われる所以です。

相場は時代により変遷しますが、おおよそ次の通りで通貨システムは出来上がっていたようです。

1両で米1石を買えるが基本のようで、この価値基準は幕末の混乱期を除いてほぼ一定していたようです。江戸期の経済事情でもうひとつ複雑なのは税金(年貢)が米であったことです。1両の価値が米1石であったことからもわかるように金銀複本位制の背景に米本位制がありました。つまり金1両は米1石が買えるという裏づけも信用の一つになっていたようです。

蛇足ですが、米1石がどれほどの量になるかですが、1石=10斗=100升=1000合となり、ほぼ1年間で一人の人間が食べる量に匹敵します。つまり1両あれば1年間米の飯が食べられる計算になります。もう少しだけ話を広げると領地が100万石であれば、100万人の人間がそこに養えるとも計算できます。

目次/江戸初期の幕府の財政事情/財政危機の到来/萩原重秀と元禄バブル/徳川吉宗と享保改革/田沼意次の先覚性/おわりに